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コートジボワール日誌

在コートジボワール大使・岡村善文・のブログです。
西アフリカの社会や文化を、外交官の生活の中から実況中継します。

第43海兵大隊の撤収

2009-07-14 | Weblog
休稿している間に、象徴的な出来事が2つあった。一つは、コートジボワールに駐留する、第43海兵大隊の完全撤収。いま一つは、ガボンのボンゴ大統領の逝去である。どういう意味で象徴的か、というと、フランスとの関係、という謎解きである。フランスとアフリカとの関わりの歴史を振り返れば、どちらの出来事も、今たしかに転機が来ているな、ということを感じさせるものであった。

独立間もない頃、コートジボワールはフランスとの間に国防条約を結んだ(1961年、ニジェール、ダホメーと合同で4カ国間防衛協定を締結)。この条約によって、フランスはコートジボワールに駐留軍を派遣し、その安全保障の面倒を見ることになった。第43海兵大隊(43e Bataillon d'infanterie de marine)は、そうした国防条約上の役割を帯びて、フランスからコートジボワールに派遣されてきた部隊である。1978年にこの部隊に任務が下されて以来30年にわたり、アビジャン空港のすぐわきに、広大な駐留基地を擁して、コートジボワールの安全保障ににらみを効かせてきた。

故ウフエボワニ大統領の時代(独立~1993年)には、この第43海兵大隊の存在は、コートジボワールの安全保障に心強いお墨付きを与えるものであった。こうしたフランスとの約束のおかげで、コートジボワールは国防費を掛ける必要がなく、その分開発に資金を投じることができた。フランスにとっては、1980年代の最盛期には5万人からいた在留フランス人の安全を確保し、フランスの経済権益をしっかり守っていくために、必要な軍事プレゼンスであった。そして、コートジボワールの人々には、「第43海兵大隊(43BIMA)」と聞くと、泣く子も黙る。好むと好まざるとにかかわらず、旧宗主国の威厳と実力を意識せざるを得ない存在であった。

ところが、2004年11月におこった、コートジボワール政府軍によるフランス軍部隊の爆撃事件は、こうした関係を決定的に変えてしまった。フランスのシラク大統領(当時)は、直ちに報復として、第43海兵大隊により、コートジボワール空軍機をことごとく破壊した。その措置に憤激した「愛国者たち」が、在留フランス人や関連施設への乱暴を始め、在留フランス人たちが大挙して出国するという事態に至った。おそらく、8300人くらいが退避し、在留フランス人の数は、2500人から3000人くらいにまで、減ってしまった。

危機がなかなか終結せず、コートジボワールがなかなか真の平和に戻らない。フランス人の企業家たちも、戻る機会を見出せず、再びコートジボワールに復帰して商売をしようという意欲を失いつつある。そうなると、フランス軍部隊を本格的な規模で駐留させておく意味があるだろうか。フランス政府はそう考え始めたようだ。2007年に、サルコジ大統領の政権に代わって以来、規模縮小を宣言してきている。年間数億ユーロもかかる駐留経費も、経済不況からくる緊縮財政のもとでは、とても勿体ないということだろう。

そこで、2004年ころには5千名程度を誇った、フランス軍のコートジボワールへの駐留は、段階的に縮小されてきた。そして、必要最小限の軍隊は残して、平和維持活動を任務とする「リコルヌ軍」としては継続するとしても、30年にわたってコートジボワールに展開、活動してきた「第43海兵大隊」については、ついに完全撤収するということになったのである。

6月4日、アビジャン空港に隣接した駐留軍基地において、第43海兵大隊の旗が静かに下ろされた。式典に臨んだのは、フランス大使と、基地の地元ポールブエ(Port-Bouët)の市長だけであった。第43海兵大隊は、長い間いい意味でも悪い意味でも、フランスのコートジボワールへの影響力の象徴であった。フランスは昔のような宗主国としての影響力を、もはや誇示しようとはしないし、もっとはっきり言えば、もうコートジボワールの面倒を見続けるつもりはない。第43海兵大隊の撤収は、そういうメッセージを伝えているかのようである。

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