【平成球界裏面史 近鉄編33】平成27年(2015年)、近鉄の象徴的存在だった中村紀洋の姿はNPBの舞台にはなかった。近鉄消滅から11年が経過していた。

近鉄黄金期を支えたブライアント、石井浩郎(1992年9月)
近鉄黄金期を支えたブライアント、石井浩郎(1992年9月)

 DeNAで4シーズンを過ごしたものの円満退団で送り出された訳ではなかった。〝懲罰的抹消〟の措置を取られたまま放置。引退試合が開催されることなく、ひっそりとユニホームを脱いだ。DeNAを退団する結果に直結した問題はこの欄で何度も記してきた。中村は打席において「場面によっては一塁走者を動かしてほしくない」との考えを基本的に持っていた。

 大量リードの二死一塁などの場面で、グリーンライトの権利を持つ走者が塁上にいても動かしてほしくない。この考え方を中村は自身が球界の中心打者となっていった過程で継続して持ち続けてきた。それは石井浩郎、ラルフ・ブライアントら先輩スラッガーと同様だった。

 中村は楽天時代に1度、DeNA時代の2度、同様の問題で当時の首脳陣と見解の相違を起こした。そして、その問題が表に出てるたびに物議を醸し続けてきた。

 時代は平成20年代前半。チームの中心打者、4番打者に関しての考え方は昭和の時代とは確実に変わりつつあった。王、長嶋の時代からは30年以上の歳月が経過している。

 当時の評論家の中には中村の考えに賛同する意見が記事化されたこともあった。8回裏、5点リードの二死一塁。後楽園球場のファンは王、長嶋を迎え、一塁走者の二盗から技ありのダメ押し適時打を期待しただろうかと。

長嶋(左)と王貞治(1964年3月)
長嶋(左)と王貞治(1964年3月)

 ファンはそんな野球にお金を払って球場に詰めかけているわけではないという論理だ。これを「あしき伝統」や「大昔の野球」、「お山の大将の理論」だと取る考えもあっただろう。この端境期で中村がNPBから姿を消したことは、球界の変化を表しているようでもあった。

 当時の中村は「走者を動かしてほしくない」と意見した場合、中畑監督や高田GMから干される可能性があることを覚悟していた。後日、中村を取材した際には「1年、1年が勝負。ダメならクビというのがプロの世界。そこで遠慮してどうする。思ったことは言わんとあかん。後悔はしてないよ」と平然としていた。

 15年の春には中村の目線は先に向いていた。2000安打を記録した記念日の5月5日に中学生以下の少年少女や大人を対象にした野球教室である「N’sMethod」を西宮市内に開校。「考える野球、体幹トレーニング」を中心とした中村理論をベースに野球文化への恩返しを開始した。

野球教室で指導する中村紀洋(2013年12月)
野球教室で指導する中村紀洋(2013年12月)

 レッスンスタジオの一角で当時の中村はつぶやいた。「日本のプロ野球は面白くない野球やってるな。みんなこんな野球を求めてるんかな?」。現役を引退し、重圧から解放された選手の表情に宿る優しさはカケラもなかった。

 まだNPBで打てるのか? そんな質問に「せやなあ、どっかから声かからへんかなあ。練習さえやったらできると思うで」と真顔で返答してきた。今でも中村は「生涯現役」の言葉を掲げ野球と向き合っている。