なんか一人だけ世界観が違う   作:志生野柱

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 心臓を動かす筋肉は不随意筋で、自分の意思では止められない。

 ……と、学院ではそう習ったのだけれど。

 

 「心臓が止まっていました。いえ、貴方様が自らの意思で止めてしまわれた、と言った方が正確ですか。雑音となる全てを排除した後は、自らの呼吸音、そして心拍までもが耳に障ったのでしょう」

 

 フィリップが目を覚ましたとき、最初に聞こえた声は、そんなことを言った。

 

 ぼやけた視界に、見覚えのある、しかし見慣れてはいない顔が映る。

 視覚は十全に戻り切っていないのに、聴覚だけは──いや、それも水の中にいるような不明瞭さだが、その声だけはクリアだった。

 

 「ぁ、──ぁ?」

 

 寝起きを数十倍したような倦怠感に襲われる。

 声が上手く出せないし、身体の動きも悪い。

 

 フィリップは身体の感覚だけで、自分が椅子の上ではなく床に寝転がっていることを知覚した。

 

 「言葉は分かりますか? 自分で息が出来ますか? 目は見えますか?」

 

 心配そうな声。女性のものだが、ルキアともステラとも、カノンとも違う。 

 親近感や安心感といった要素を抜きにして、単純に音として、聞いていて心地の良い音色だ。

 

 瞬きを繰り返し、フィリップは視界の回復に努める。

 数秒後、いつも通りクリアになった視覚は、傍らに膝をつき、心配そうに見下ろす女性の容貌を捉えた。

 

 インディゴブルーの髪に紺碧の瞳を持つ、純白のドレスを纏った女性。さっきまで舞台上に居たはずの“歌姫”。

 

 「貴女、は……“歌姫”アンナ? ルキアと、殿下は……?」

 

 本来想定されていない動き方をしたからか痛む心臓を押さえながら、フィリップは最後の記憶を思い思い出す。

 

 ルキアもステラも、フィリップ自身も、ありえない思考をして、ありえない判断をしていた。

 

 客席での騒動を、三人とも鬱陶しそうに一瞥して終わった。

 聖痕者二人は容易に鎮圧できるだろうし、フィリップは普段なら「すわ集団発狂か」と慌てふためいていただろう。

 

 護衛の乱心についてもそうだ。

 ルキアもステラも敵への対処はいつも通りだったが、フィリップはステラに刃を向けられてなお小うるさい羽虫を見るような態度はしない。

 

 最終的には魔術かペッパーボックス・ピストルで殺すが、まず彼女を庇う位置に立つだろう。いつもなら。

 

 そして二人とも、フィリップが促すと椅子に座って歌の続きを聞いていた。

 襲撃されたとなれば真っ先に移動するか、敵を全員殺してから「で、今のは何? 何か知ってる?」とフィリップに尋ねるだろうに。

 

 それがのんびり座り直して、コンサートを楽しもうとするなど、明らかに普通ではなかった。

 

 加えて、フィリップのこの現状。

 アンナ曰く、呼吸だけでなく心臓まで自分の意思で止めた。二人も同じ状態なら、すぐに応急処置をしなくてはならない。

 

 心肺停止状態から生還するタイムリミットは約三分。

 三分以内に蘇生措置をして、生還率はおよそ50パーセントと言われている。

 

 それを思い出して身体を起こす──アンナが背中を支えて補助してくれた──と、椅子に座ったままぐったりしている二人が目に入り、フィリップは顔を蒼白にして瞠目した。

 

 しかし、状況は最悪ではなかった。

 

 「呼吸を忘れて気を失っているだけですわ。既に息をしていますし、大事ありません。貴方様より影響が薄かったのでしょう。……ああ、貴方様のためだけの歌でしたのに……このようなことになってしまっては、もはや演奏会どころではありませんわね」

 「良かっ……、え?」

 

 確かに、ルキアもステラも胸が浅く上下しているし、血色も悪くない。心拍も呼吸も正常のようだ。

 

 二人の無事に安堵すると、アンナの言葉の意味不明な部分が、頭蓋の上を滑ることなく脳にきちんと引っかかった。

 

 何を言っているのかと、フィリップは“歌姫”を頭の先から畳まれた長い脚まで観察する。

 じろじろと無遠慮な視線に、彼女は嫌そうな顔一つしないどころか、何故か期待感すら滲ませていた。

 

 そして。

 

 「やっぱりそうか。……というか、そんなこと出来たの? 足生えてるじゃん──アンテノーラ」

 

 名を呼ぶ。ただそれだけで、“何か”が変わった。

 具体的に、姿や魔力が一変したわけではない。ただ、ふと思いついたように、認識が一変した。

 

 これまでは、明らかに知っている顔だったのに、記憶と結びつかなかった。

 それが今は、彼女の容姿を漁村で見た人魚のものと同じだと理解できている。人間では有り得ないほど整った、人間では有り得ない容貌だと思えている。

 

 つい先ほどまで疑いすら持たなかったのに、今は、彼女が人間でないことを理解していた。

 まだ人間の姿をしているが、纏う空気は全く違う異質なものに変じている。眼前の存在は人間ではないと、身体が、本能が訴える。

 

 深きものどもの棲む漁村で、生贄として囚われていた人魚。

 トルネンブラが認め、フィリップのための“生きた楽器”にと見初めた、至上の歌姫。

 

 ──アンテノーラ。

 

 彼女がそうであると、フィリップは今ようやく()()した。

 

 「……何、今の?」

 

 舞台上にいたときは、遠くてよく分からなかった。

 目覚めたときは視界も思考もぼやけていて、何もかもが判然としなかった。

 

 名前を呼ぶまでは、確信を持って理解は出来ていたが、実感が無かった。

 妙な感覚だった。歌姫アンナを名乗る女性がアンテノーラと同一人物であると、知識として知ってはいた、程度の理解にしかならなかった。

 

 名前を呼ぶ前後で、認知に大きな差がある。

 誰か有名人を肖像画と紹介文だけで知っていたときと、実際に会って話して、友達になった後くらいの乖離が。

 

 或いは、シュブ=ニグラスに与えられた智慧と、実体験くらいの。

 

 気色の悪い感覚だ。

 未知が既知になるでなく、知識が更新されるでも、他の知識と結びつくでもなく、忘れていた記憶を思い出した時とも違う。

 

 顔を顰めたフィリップに、アンテノーラは嬉しそうに笑った。

 

 「貴方様には、海の魔女の陰湿な嫌がらせも効かないのですね。この脚と、人に見咎められない気配の欺瞞は彼女の術によるものですわ。その代償は、誰も私を私であると認識できなくなること──ただ新天地を求めるだけならばともかく、再会を求めて陸に上がる人魚には呪いでしかありません」

 

 すらりと長い──しかし本来の姿を思えばものすごく短くなった脚を撫でながら、彼女は複雑そうに語る。

 

 「しかも、その解呪方法は「本当の名を呼ばれること」。勿論、私が自ら正体を明かすことも禁じられ、封じられていました。……ですが」

 

 陰湿な代償を課されたことに対する恨みは、アンテノーラの中に確かにある。

 もしも所有者にさえ認識されなかったらと嫌な想像をして、眠れない夜が何度もあったのだから。

 

 しかし実際に再会してみれば、フィリップはほんの数秒でアンテノーラを認識し、解呪した。服を着て足が生えていたから一瞬戸惑った、くらいの温度感で、あっさりと。

 

 「なるほど。海の魔女とやらがどんなモノかは知らないけど、僕のものを隠すなんて子供じみた嫌がらせ、トルネンブラは許さないだろうし……精神に干渉する認識阻害なら、やっぱり──、っ!」

 

 しまった、とフィリップは慌ててルキアとステラの様子を窺う。

 迂闊にも外神の名前を口にしてしまったが、聞かれてはいないかと。幸いにして、二人はまだ気を失っていた。

 

 「ふぅ……。えっと、今はどういう状況? 下の客席も騒がしいけど」

 「客席で暴動があったようです。それから集団失神のような状態になり、今は楽団の者が、他の観客や裏方を介抱したりと、忙しくしております」

 

 フィリップはテラスから身を乗り出すようにして階下を見下ろす。

 びっしりと埋まっていたはずの一階と二階の客席は、今は6割くらいしか座っていない。残りは通路に倒れていたり、背凭れの部分でぐったりと潰れていたりと様々だ。

 

 暴動というか、乱闘の痕跡だとフィリップは眉根を寄せる。

 僅かに血の匂いもするし、焦げたような臭いもする。魔術まで使った本気の殺し合いが行われたらしい。

 

 それだけでも十分に異常だが、フィリップも含めたテラス席の反応もおかしかった。

 

 階下の異常事態に、フィリップたち三人も、真っ先に状況把握に動かなければならないはずの護衛たちも無頓着だった。

 護衛に至ってはステラに襲い掛かり、挙句同士討ちを始める始末。

 

 「恐らくは、歌に集中しすぎるあまり暴走したのかと思われます。雑音を発する邪魔者を黙らせようと動き、それが他人に雑音と見做されて排除され、そのサイクルが客席中に伝播した結果かと」

 

 雑音の排除。

 そう言われて、フィリップも失神直前の心境を思い出す。

 

 背後の有象無象が煩くて、視界の端でチラチラと動くルキアとステラさえ目に障って、果ては自分の溜息と、興奮して早鐘を打つ心臓までもが煩わしくなった。

 

 「最終的には排除の意思よりも歌への関心が勝り、動きを止め──呼吸を止め、結果として失神したようですわ」

 

 全ての異常事態の原因は、あの歌──アンテノーラはそう語る。

 

 しかし、フィリップは「そうなんだ」とは頷けない。

 むしろ、「何を言ってるんだ?」と胡乱な顔だ。

 

 「歌? いや、僕に有害な音は遮断される。魔術……いや、ガスか何かじゃないの?」

 

 トルネンブラも外神だ。

 “楽器”と選抜した奏者たちの演奏を見守るのと並行して、フィリップへの音攻撃を防ぐくらい造作も無いだろう。

 

 魔術という可能性も、ルキアやステラに効果を及ぼすのみならず、二人が気付かなかった時点で棄却していい。

 

 となると、最も可能性が高いのは錯乱効果のあるガスか何か。

 フィリップはそう推理する。

 

 しかし、アンテノーラはフィリップの反論に、更に頭を振って否定を示した。

 

 「心外ですわ。私は誓って、貴方様に有害な音など発しておりません。……これは仮説ですが、あれは貴方様の感性に問題があると思われます。……ご自分の命を、とても軽視されていらっしゃるのでは?」

 

 彼女は痛ましそうに、神妙な顔で推論を口にする。

 そうであって欲しくないと、儚げな美貌が歪む。

 

 対して、フィリップは──今更何を言っているのかと言いたげな、下手な冗談でも聞いたような顔だ。きっと因数分解を教えていた相手に「かけ算ってどうやるの? 割り算ってなに?」と聞かれたら、誰でもそんな顔になるだろう。

 

 「……何その質問? 僕がどういう状態か聞いてないの? というかむしろ、君はどういう状態なの?」

 

 彼女にはトルネンブラが接触して、既に影響されていたはず。

 自分がフィリップのための“生きた楽器”であることを自覚していたはずだ。

 

 そこで止まっている、のだろうか。

 フィリップがもっと詳しく状態を把握しようとした時だった。

 

 「状態? いいえ、特には──っ、貴方様、お下がりください!」

 「え? ──、ッ!?」

 

 アンテノーラは警告と同時にフィリップの襟首を掴み、片手で軽々と壁際に押し遣る。

 そして背に庇った直後、テラス席の扉が何かの魔術で砂になった。

 

 雪崩れ込むように素早く、しかし静かで整然とした動きで、六人ほどの人影が貴賓席に侵入してくる。それらは全て統一された意匠のある、しかし個々人で微妙に形状の違う鎧を纏っていた。

 

 フィリップが彼らの身を飾る意匠を見間違えることはない──衛士団だ。

 

 敵意と戦意を滾らせた彼らはアンテノーラに目を留めると、既に抜き放たれていた剣先を向け、展開済みだった攻撃魔術を照準する。

 

 そして──彼らの気配は、気を失っていた聖痕者たちを覚醒させるには十分だ。

 いや十分すぎた。敵意、戦意、魔術の気配。起き抜けにそれらを知覚した二人は、状況を把握する前に反射的に動いた。

 

 ステラが自分とルキア、そしてフィリップを守るように魔力障壁を展開する。

 そしてルキアは、敵対者──いや、侵入者の全てを途轍もない重力によって五体投地させた。

 

 「ころっ──おぉ、流石」

 

 殺すな、と叫びかけたフィリップは、ルキアが非殺傷系の魔術を選んだのを見て、安堵と感嘆に溜息を吐いた。

 起き抜けでも一瞬で敵か否かを見極める判断力は、まさに流石の一言に尽きる。

 

 「ぐっ……聖下! その女は──人間ではありません!」

 

 不可視の力に引っ張られ、押し付けられ、潰されながら、衛士の一人が叫ぶ。

 やめろとも逃げろとも言わず、重要な情報だけを的確に伝える判断は素晴らしい。

 

 しかし、今の二人にそんなことを教えてしまえば。

 

 「っ──!」

 

 掌が二つ、フィリップの方を──アンテノーラを向く。

 

 今度こそ致死級の攻撃が同時に二種、撃ち放たれる。

 射線上にフィリップも居るが、二人にとって、守護対象を避けながら敵対者を跡形も残さず消し飛ばすことなど容易なのだから。

 

 

 

 

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