30年経っても、チームカラーは変わらない。1997年の巨人はリーグ連覇と日本一奪回を目指し西武からFAで清原和博、近鉄から石井浩郎、ロッテからヒルマン、台湾のイチローことルイスと空前の30億円大補強。95年は野村克也監督に最後通告したヤクルト・桑原潤オーナーも今度は「巨人が勝つと景気が良くなるというのはウソだということが証明されました。今年はぜひ、金にあかした巨人をヘコませてほしい」と大号令を発した。
しかしオフはドタバタだった。前年11月末の納会で、野村監督は巨人を退団した落合博満の獲得を桑原オーナーに直談判。宮本慎也がつけていた背番号「6」を提示した。ハワイ・ウインターリーグに参戦していた宮本は、提示する連絡がなかったことに不快感を示したものの譲るつもりで「3番、9番、10番、どれにしようか考えていた」と明かしたが「6さま」ではなく「9さま」になっていたかもしれなかった。
「落合はヤクルトのユニホームが似合うか?」と聞くとノムさんは「縦じまだからな。嫌なら横じまにしようか?」と仰天発言。阪神・吉田義男監督が清原和博に「縦じまを横じまに替えてもいい」と言ったのをマネてラブコールを送ったものの、球団内では足並みが揃っていなかった。
私はノムさん側から記事を発信していたが、球団事務所で顔を会わせた田口周球団代表は「君はもう少し、落合とうちのことを勉強した方がいいようだな」と吐き捨てた。当時新聞記者3年目。何のことかサッパリわからず調べると、10年前に遺恨があったことがわかった。
1984年に発足した労組日本プロ野球選手会を86年の開幕直前にヤクルトが脱退。その年の12月に当時ロッテの落合が「あそこは自分の意思がないチーム。誰とは言わないが、上が悪いんですよ。組合は個人で入るもので、チームで出たり入ったりするもんじゃない。プロ野球は個人事業主なんだから。ヤクルトはバカじゃないか」とバッサリ。ファンに対し「もうヤクルトファンは辞めなさい」と言い放った過去があった。その落合は中日に在籍していた91年に選手会を脱会。田口代表ばかりか本社役員も根に持っていたため、野村監督が落合と2度交渉の席に着くも金額提示にも至らず、断られてしまう。
今度はフロントが近鉄とモメていた石井浩郎の獲得に方向転換。近鉄が要求した交換要員は土橋勝征、左腕の山本樹投手らだったがヤクルトが渋り、石毛博史、大森剛を出した巨人との争奪戦に敗れた。
結局、巨人との開幕戦に「5番・一塁」で出場したのは広島を自由契約になった第3の男・小早川毅彦。前年7試合対戦し0勝6敗(試合は全敗)、本塁打を3本(ミューレン、秦、広永)しか打てず手も足も出なかった斎藤雅樹からまさかの3打席連続弾。落合、石井が加入していたら、出番はなかったかもしれない。
そのオフに小早川は結婚式を挙げたが、ノムさんはスピーチで「みなさん3打席連続ホームランと言いますが、次の日は4打席連続三振でした。小早川というのはそういう男です」と毒舌スピーチ。同年は12本塁打で4月だけで6本塁打も、今でも語り継がれるほどインパクト十分だった。
誰かがいなくなれば穴を埋める選手が出てくるのがヤクルトの歴史だ。昨オフのヤクルトは石川柊太、福谷浩司とFA交渉も失敗。田中将大の獲得に乗り出すこともなかった。いずれもヤクルトに加入していれば、ローテーションに入っていたはず。97年の小早川のように、巡ってきたチャンスを生かす第3の男は誰になるか。FAで加入し村上宗隆の故障でチャンスが巡ってきた茂木栄五郎にも、令和の小早川として期待がかかる。(塚沢健太郎)