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君見ずや出版 / 興味次第の調べ物置き場

「四大文明」遡源

 ちょっと前に𝕏(旧twitter)で四大文明が云々戦後の日本で云々と流れてきてたのでそのときついでに調べてみたがこれも西洋から渡ってきた見方だろう。ということで以下適当に書いていく。

四大文明」東アジア起源論

 「四大文明」が戦後の日本でできた概念という話があり、それに戦後になって日本を元気づけるとか戦前に東アジアを持ちあげるためとかいろんなストーリーがついてそれっぽく思われているらしい。で、このことについて調べた中でもっとも遡れているのが石川禎浩2019「中国近現代における文明史観の受容と展開:兼ねて「四大文明」説の由来を論ず」であるようだ。

<論説>中国近現代における文明史観の受容と展開 : 兼ねて「四大文明」説の由来を論ず (特集 : 文明) | CiNii Research

 石川によるとNHKで「四大文明」のシリーズを作成したときに相当新しい言葉だと気付き、さらに江上波夫の造語だという説がでてきてそれが流布した一方で中国でも同じように四大文明は中国の夜郎自大という説がでたので調べたという。石川の調べによると浮田和民などの教科書に記述があり19世紀の終わりには日本で普通に知られていたとする。しかし石川論説をよく読めばその先が書いてあるのだが、一般には「20世紀以降の日本や中国でのみ用いられる言葉・表現である」という理解のようだ。(例: wikipedia「世界四大文明」)

ja.wikipedia.org

ヘーゲルの文明論

 石川の指摘では「浮田らの知識のさらなる起源は、アジアを四つの地域に分けて文明史的に論じる前述のヘーゲルあたりではないかと推定される。」という。つまり控えめに「ヨーロッパから来た発想じゃねーの」と表明している。前述というのはその前に梁啓超の文明論で地理環境決定論ヘーゲル由来ではないかと指摘したところがあるから。ヘーゲルについては同じように「四大文明」について触れた青柳正規も指摘しているのだが、青柳はそこから東アジア起源論に持っていってしまったあたりが惜しい。

 (以下の「世界史の窓」サイトの「世界史用語解説 授業と学習のヒント」の文明の項目で青柳の指摘は引用されている。)

文明

 ちなみにヘーゲルの歴史哲学を斜め読みするとわかるのだが、ヘーゲルは別に地理環境決定論創始者ではないのである。30年くらい前の教育を受けた人間としてはヘーゲルアウフヘーベンで有名だが、そのアフフヘーベンがでてくる「テーゼ・アンチテーゼ・ジンテーゼ」の弁証法ヘーゲルの発明ではなくて古代ギリシャの哲学者のアイデアをまとめたもの。まぁ古代ギリシャをもってくるあたりが一つのミソなのだが、それはさておき、地理的環境決定論についても先行者がいた。

近代地理学の父 カール・リッター が示唆する文明

 ヘーゲルの『歴史哲学』で名前が出てくるのがこのカール・リッターである。博物学者のフンボルトと並び「近代地理学の父」とされている。ちなみにフンボルトの方が年上でフンボルトに教わるところが多かったのだがそれはさておき。

カール・リッター - Wikipedia

 カール・リッターの代表的著作『比較地理学』は英訳されたものが project gutenberg でテキスト化されて公開されている。

www.gutenberg.org

 さてここで「四大文明」みたいなのがここに書いてあるといえばいいのだが、実はそんなことはなくて、カール・リッターは地形と文明には関係があるということを縷々説明するが別にそこで決定論まで出すわけでもないし、歴史的なことにそこまで興味があるのでもないので「四大文明」のような形でまとめる事もない。個別の例を並べて指摘していくだけなのだが、その中で結構重要な指摘がある。たとえば「二つの水流が真の二重システムとして機能するならその流域台地に二倍の影響を与えるだろう...(略)..例えばユーフラテスとチグリス、ガンジスとブラフマプトラ、ギホンとシホン、黄河揚子江..(略)...これら二重の流れはアジアに多くみられるが、それらが東洋(oriental)文明の成長に大きな役割を果したのである」みたいな感じで、「四大文明」のもう一つの含意、大河と文明の関係について説いているのである。

運河の時代

 これは実はわりと簡単な話で、産業革命の階段を徐々に登っていった西欧社会が運河の重要性に沸いていた時代だったのだ。カール・リッターの著作が発表された1810年代末というのもまた微妙な時代で、イギリスで運河ブームがあったのが1760年代から1830年代で、そのピークが1800年前後。一足先に運河システムで内陸部をつないだフランスがフランス革命のあとナポレオンを生みだしてドイツをボコボコにしたのもそのころ。つまりカール・リッターが考えをまとめた時代はすなわちドイツが復興する時代で、それに必要なものとして内陸水運を提示したというわけだ。

 さらに面白いのは鉄道が黎明期で運河をまだ代替していなかった頃。イギリスの運河時代はやがて鉄道時代にとってかわられる。ドイツは山岳地帯もある内陸国なので鉄道の方が向いている。とはいえたとえば南部ドイツのバイエルンでは域内を流れるドナウ川ライン川・マイン川を繋げる運河の計画に執着し、マイン川水系のフランクフルトのロスチャイルド家に金を出させて運河を作らせたりした。(時間がかかったうえにしょぼく、より早くできた鉄道の方が効果的だったらしい)。ちなみにカール・リッターが大学をでたあとフランクフルトの名家ホールベルク家で家庭教師をして名声をあげ、その間にフンボルトと出会ったりしていたのも無関係ではあるまい。

 では運河は時代遅れだったのかというとそんなことはなく、たとえばアメリカでは1825年にハドソン川エリー湖を結ぶエリー運河五大湖とニューヨークを結び、1948年にはイリノイ・ミシガン運河で五大湖ミシシッピ川が結ばれてアメリカの内陸を通る大動脈が完成している。さきほどのバイエルンから流れ出るドナウ川の河口は黒海にあるが、19世紀初頭にはオスマン朝支配下にあった。オーストリアハンガリーと二重帝国を形成したのもドナウ川を動脈としたためだし、その後オスマン朝支配下独立運動が盛んになるのもこのドナウ川の水運にも一因があるだろう。

一般教養としての地理学と「東洋の衝撃」

 さてそれはともかくヘーゲルが歴史哲学で前提としたのは一般教養としての地理学的知識であって、その地理学に含まれる環境決定論的な発想は文系への「科学的な物の見方」に多大な影響を与えている。それはヘーゲルがそうだっただけではなく他の学者もそうだったのである。

 さらにいうとこのころはまだ聖書的な歴史観が西欧には存在したし、考古学もまだはじまった頃だった。上述ナポレオンがエジプト遠征でとってきたロゼッタストーンの解読法をフランスのシャンポリオンが発表し発表したのが1822年。つまり「古代」が徐々にわかる時代だった。ただし考古学ばかりでわかったわけではない。ヨーロッパは既にインド・中国と接触・交易している。インド綿はイギリスの羊毛産業を壊滅させた結果産業革命をもたらすし、中国の陶磁器もインド綿同様世界商品として当時の東西の市場を席巻し、西欧社会はその模倣品を必死に生みだそうとしているところだった。産業革命をもたらしたのは「東洋の衝撃」が大きいのである。かれら西欧社会は「東洋の衝撃」に対応するために産業革命と同時に博物学を発達させ、近代科学へ突入したのだが、その歴史地理的な分野へ及んだのがカール・リッターでありヘーゲルであるという見方もできる。なのでヘーゲルギリシャの哲学者の発想を抽出してアウフヘーベンしたのも、オスマン朝・インド・中国の文化的なパワーに対抗するための西欧の手段ともいえる。

聖書と並ぶ古代社会

 ということなので、インド・中国の文字資料がやたら古い歴史を残している事は知られていたし、それを確かめるための手段も徐々に整いつつあった。つまり聖書の語るところでわかる一番古い社会はメソポタミアだが、その横にあるエジプトの古さは遺物から直接わかり、なおかつインド・中国も古いらしいし発達した社会がある、ということもわかっていたので当時の西欧の知識で古代社会といえばその四つになるのは常識的なことだった。当時の知識では「ギリシャ・ローマ」がより新しいのは聖書の記述により自明。なおかつ運河の知識があればそこにある大河がなにか機能を果しているようにみえる。

日本への伝播経路

ブルンチュリ『国家論』の訳 明治15年(1882)

 ということで、当時の西欧の常識的なところを日本の受験産業に列挙させたら「四大文明」が誕生した、というふうにまとめてもいいのだが、その伝播経路として重要なものを一つ挙げてみる。

 ブルンチュリ『国家論』の平田東助による翻訳(明治15年、1882)が一つ。その巻之二國民及國土の國土の項にある。

此他國土ノ形勢ハ其民ノ憲法ニ關係ヲ有スルコト亦大ナリ 世界開闢ノ後初メテ成立スル大國ハ概ネ大河ノ沿岸ニアラサルハナシ 彼ノインドノ「インツース」及「ガンゲス」兩河ニ於ケル 埃及ノ「ニル」河ニ於ケル 小亞細亞ノ「チグリス」「ヲイフラート」兩河ニ於ケル 支那ノ「キンキャン」河ニ於ケル如キ是ナリ

 みたらわかるように「キンキャン」が何かわからないが、それからわかるようにその専門ではないが耳学問で知ってるので適当に並べてこのように書けるのである。また逆に専門でないから、その常識的な知識を適当に整理してその知識を披露すると四つになるという事でもあろう。もひとつ重要なのが、このブルンチュリは明治初年に『国法汎論』が訳され近代日本の裏付けにも利用された。平田東助は岩倉使節団随行して留学し、ドイツではブルンチュリについて学びそのときに日本人として初めて博士号を取得している。そのブルンチュリ直々に教えを受けた博士サマがブルンチュリ本人に見せたような訳書にそのように書いてあるので当時の東京にいた知識人はこぞって読んでいたに違いない。

ヨハン・カスパー・ブルンチュリ - Wikipedia

 ブルンチュリもカール・リッターよりは30ほど若いが同時代に存在した人間である。カール・リッターやヘーゲルの謦咳に接した可能性の高い人間に直接師事した平田東助が日本に運びこんだ知識の一つに紛れこんだのがこれ、だとするとかなり面白い話になる。たださきほども書いたように当時の常識的なところをつないでいって人類最古の文明みたいな数え方をすれば自らその四つに絞られるのでそうとも限らないと釘を刺しておこう。

『萬國通鑑』明治21年(1888)

 もうひとつ日本人の著述としてわりと古い所を挙げておくとこれが挙げられる。長谷川郁馬の作で杉浦重剛が序を書いている。この本にはこのように書いてある。

歴史上ニ古國ト稱スルモノハ所謂人類發生ノ地ニ近接セル東方諸國トス特ニ主トシテ黃河Hoang'o揚子江Yangtsekiangがん志゛す河Gangesいんだす河Indasゆーふれーてす河ちぐりす河、及ヒないる河Nile沿岸ノ平原ナリ

 今まで述べたように常識的なところをあげるとこうなるというだけだが、わりとおもしろい点としては英語のラテン文字表記してある部分にドイツ語のヒゲ文字も併記してあるところ。序によると長谷川がいろんな本を読んでまとめたみたいに書いてあるので原書を読んだのかあるいは単に万国史の類を読んでまとめたのかわからない。ひとつ言えるのはブルンチュリそのままではないことで、他にも出典があることがわかる。

糟川潤三編『西洋今昔袖鑑』明治5年(1872)

 大河とセットにない状態で挙げるとこういう例もあり、今まで述べたように世界最古の文明として当時その四つあげるのが常識だということの例になる。

天文學之始 此學ノ起ルヿ最古ク支那トモ埃及エジプトトモ印度トモ或ハ迦勒底カルゼールトモ云其説一ナラス

 ということで、石川2019などのいうように西洋に既にあった発想が日本の教育のどこかで「四大文明」とまとめられる前の状態を追ってみた。これ簡単な話だが国会図書館デジタルコレクションをすこし工夫して使えば簡単にできることなので別にすごいことでもなんでもない。最近OCR範囲が拡大してさらに調べものに使えるようになっているが、OCRは所詮絵合わせなので現代の活字からかなり字形がずれている明治のころの字は誤読がたくさんありそのままつかうとあぶない。いろいろ検索手段を平行して持って置いた方が無難である。無論検索できた部分だけではなくてもっと全体に目を配って読む、あるいは検索するのが必要となる。その書籍は検索してみつかった文句だけではなく、その他の部分があるから成り立っているものなので、全体の中でどういう意味があるのか考えないといけない。と説教みたいなこと書いてもしかたないんだな。

「京のおばんざい」の「おばんざい」は大阪弁

 「京のおばんざい」という言葉について、京都の人は「おばんざい」という言葉を普段つかわないみたいな反応の方が多い。しかし商業ベースでは完全に定着していて自治体まで普通に利用するようになっている。ということで前から気になっていたけどすこし調べてみた。

おばんざいは大阪弁

 まず、出オチのようだが「おばんざい」は大阪弁である。たとえば牧村史陽の『大阪方言事典』杉本書店、1955によると

オバンザイ[お番菜] (名) ……番菜。惣菜。
バンザイ[番菜] (名)……おあつらへの料理でなく、出来合はせものの意。
 『守貞漫稿』に「平日の菜を、京阪にては番さいと云ふ。江戸にて、惣ざいと云ふ。」  例 - "オバンザイでえらい濟んまへんけど、しんぼ(辛抱)しといてくなはれ"

 また、前田勇の『上方語源辞典』東京堂出版、1965 によると

ばんざい[番菜] ふだんのお(さい)。ありあわせの副食物。惣菜(そうざい)。(明治十九年・東京京阪言葉違)
[語源] 晩菜・万菜は当字。番傘・番茶などの番が、あるいは常用あるいは粗末の意と理解されている所からいう類推か。近世すでに上方バンザイ、江戸ソーザイと対立していた。

 また、日本国語大辞典第二版にはこうある。

ばん‐ざい 【番菜】
解説・用例
  〔名〕
 ふだんのお菜。ありあわせの物で作ったお菜。多く、東京地方で惣菜というのに対して京阪でいう語。
  *魚類精進相撲組合〔1830〜44〕「ばんざいにして飽きのない鰯と茄子(なすび)」
  *随筆・守貞漫稿〔1837〜53〕二八「平日の菜を京坂にては番さいと云」
  *アド・バルーン〔1946〕〈織田作之助〉「昼はばんざいといって野菜の煮たものか蒟蒻(こんにゃく)の水臭いすまし汁」
方言
 《ばんざい》上方312三重県名賀郡584大阪市638《ばんさい》上方†114奈良県吉野郡683
語源説
 番傘・番茶などの番が常用・粗末などの意と理解されている所からいう類推か〔上方語源辞典=前田勇〕。

 ここまで守貞漫稿が重要な根拠になっている事がわかるが、この守貞漫稿は実際に京都の事にも言及されているけれどもまた筆者本人が「京阪」と書いてるのは実際には大阪の事だとも書いているように大阪に本拠地のある商人が江戸にも拠点を構えてるうちに書いたもの。しかもペリー来航で避難したときに一度まとめたあとの続きの後集に書いてるので時期まで絞れる。幕末の大阪で使われていた事は確実だが、京都で使われていたかどうかはちょっと微妙である。

 そこで生きてくるのが日国の方言欄で、そこには大阪市とあり、あとはすこし飛んだ地方が上げられている。なぜかそこに京都が入っていないのだ。

 すこし国会図書館デジタルコレクションを検索するとわかるが、「晩菜」だと明治期に結構広く使われている。晩飯、あるいは晩飯のおかずの意味の漢語だが、それとは別に大阪の船場の丁稚言葉としての「ばんざい」がでてくる。忙しい丁稚奉公の中でかきこむように食べる「ばんざい」、それはもう印象的な言葉だったろう。ちなみに国会図書館デジタルコレクションで「おばんざい」を検索すると昭和20-30年代に大阪の人がおばんざいおばんざいとしつこく書いてるのがわかる。つまり少なくとも大阪弁であることは確実である。とはいえこれも大阪にあって京都にはない証拠にはならないのだが。

大村しげとおばんざい

 今の「おばんざい」を扱った研究では大村しげ(1918-1999)がその言葉を広める上で大きな働きをしたということになっている。彼女たちが1964(昭和39)年から朝日新聞で連載をはじめたのがもとで広まったのだ。ところで「おばんざい」の大立者の大村しげ本人は「おばんざい」についてこういう言葉を残している。

このごろおばんざい,おばんざいて皆さん言わはりますけど,あれは死語になりかけてたんです。……せっかくええ言葉やのにもったいないなあ言うて,私らお友達(秋山十三子さん,平山千鶴さん)と三人で最初に朝日新聞(京都版)で「おばんざい」(昭和39年)ていう連載物を週二回ずつやったんです。そしたらそれが行き渡ってしまいましてね。東京の方もおばんざい,おばんざいて言うてくれはるし,おばんざいの店かてできてきましたやろ。そしたら,このごろはだんだん嫌になってきて

1990「(対談)京都の食文化は誤解されている」『婦人公論』75(11):246―249,東京:中央公論社 藤井龍彦2007「大村しげと「おばんざい」」 『国立民族学博物館調査報告068 モノに見る生活文化とその時代に関する研究』に引用されているのを孫引き 国立民族学博物館学術情報リポジトリ(みんぱくリポジトリ)

 これは論文に引用されていた雑誌記事の孫引きだが、「死語になりかけていた」というよくわからない事を書いている。実際簡単にネットで検索できる大村しげが書いたものをみても、なんか知識ばかり並べて歯切れの悪い事ばかり書いているのである。戦後の大阪では誇らしげにまた当然のように「おばんざい」を語っているのに「京のおばんざい」を日本に広めた大村しげはなぜこんなに歯切れが悪いのか?自分の回答は「おばんざいは大阪弁」だが、なぜそう思ったのかもうすこし書いておく。

国分綾子とおばんざい

 今「おばんざい」を扱った研究では大村しげ達が1964(昭和39)年から朝日新聞に連載したのがその出所だとしているのだが、実は先行して京のおばんざいについての本を書いた人がいる。それが国分綾子だ。

国分綾子(こくぶ あやこ)とは? 意味や使い方 - コトバンク

 コトバンクにあるように、「夕刊京都」(京都新聞とは別に夕刊だけ出してた文化紙だが後に京都新聞に吸収される)で学芸部長などを歴任した人。そもそも「夕刊京都」は同志社閥が作った新聞らしく、国分綾子も同志社専門部家政科を出た人で、戦後すぐの夕刊京都の立ち上げに呼ばれてそれから記者として有名になった。仙台人で学校が同志社・結婚生活は東京、疎開で京都という経緯で、つまり根っからの京都人ではないが、記者としての活躍が長く京都の業界では名の知れた人だった。ま、細かいことは後で書くとして、その彼女が1962(昭和37)年に書いた本が『京のお飯菜』婦人画報社1962 である。

dl.ndl.go.jp

 ではその本の中に「おばんざい」と書いてあるのかというとそんなことはなく、タイトルの他は後書きに「お飯菜」と申し訳程度に書いているだけ。内容も半分は料亭などプロの料理で、のこり半分が「京のお台所メモ」となっている。さらにいうと、大村しげらが盛んにおばんざいと書きだした後にこの本のタイトルを『京の味日記』と改題している(1967(昭和42)年の本の出版案内に改題したと案内してある)ので逆におばんざいをひっこめたようだ。とはいっても自分もその一部であるメディアで「おばんざい」が頻用されるようになって逆に普及したのでのちには自著でもおばんざいの言葉を使うこともあった。

『あまカラ』とおばんざい

 ではなぜ国分綾子は「おばんざい」を使った本を出したのか。実はその前に夕刊京都社編『京味百選』淡交新社、1959がある。これは1958(昭和33)年から夕刊京都で「味の京都」という連載をはじめ、執筆を担当したのが国分綾子だったのだが、それをまとめたもの。ただこちらは料亭あるいは商品などのプロの仕事である。その取材でグルメ界隈に顔を売り、続いて家庭料理の方へも関心が向いたのが『京のお飯菜』ということらしい。あとがきにそのように書いてあるが、また「京のまちの人が毎日食べているおかずのことがききたいという手紙を、甘辛社の水野さんを通じて小島政二郎先生が下さった」などとも書いてありそれもきっかけの一つだったようだ。

 甘辛社。さてこれは何かというと大阪の菓子屋鶴屋八幡がそのPR誌『あまカラ』のために作った組織だ。『あまカラ』は1951(昭和26)年から1968(昭和43)年まで出たのだが、いろんな食のエッセイがのったグルメ雑誌(小冊子かパンフレットの規模だが)で、のちの『あまから手帖』『amakara』などの雑誌はあきらかにその名前にあやかっている。その『あまカラ』の顔の一人が小説家の小島政次郎。そして1958(昭和33)年からは『あまカラ』誌上で全国各地の新聞社記者のミニ通信がのるようになり、そこで京都代表は夕刊京都学芸部記者として国分綾子が書くようになる。

 最初に書いたように「おばんざいは大阪弁」なので、その大阪を本拠地にしたグルメ雑誌『あまカラ』では「おばんざい」は当然のようにでてくる。

大久保恒次の語源説

 ところで大阪だけで「おばんざい」と言ってればよいのだが、この『あまカラ』の顧問に大久保恒次(1897-1983)という朝日新聞社の記者から関西の味にこだわる文筆家になった人がいる。この人が書いた『うまいもん巡礼』六月社、1956 に「食品の御所詞ごしょことば」という一節があり、そこにこう書いてある。

宮中の詞で天皇の御飯を『ごぜん』、女官たちのは『おばん』と言いますが、大阪では今も食事するのを『ごぜん食べましょ』と言います。下々でまた惣菜のことを『おばんざい』と言うのも、この『おばん』の菜ということで、晩菜という字をあてるのは誤りです。

 とあり、以下大阪で使われていた言葉が御所言葉に由来するとあれこれ書いてある。実はすこし勘違いとかあるのだが、いわゆる大阪の船場言葉が京の言葉を意識して発達したのは本当の話である。なので河内弁など周囲の言葉に比べると京言葉に近く、御所詞に由来を求めるのもあながち間違ってはいないのだが、「ばんざい」に「お」をつけた「おばんざい」も御所言葉と言ってしまうのはすこし乱暴な説であった。

「おまわり」が女房詞の「おかず」

 というのは簡単な話で、市中に影響のあった言葉は宮中で使われていた女房ことばなのだが、その女房詞でおかずは「おまわり」と記録がある。しかもそれが『あまカラ』当時の京言葉に残っている。そもそも国分綾子、さらには大村しげなんかも書いているのだが、他に楳垣実『京言葉』高桐書院、1946 に

オマワリ (お廻り) 副食物、お菜。

京言葉 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 とある。「おばんざい」はそこにはない。

『あまカラ』誌上の広告

 さて、国分綾子の『京のお飯菜』に話を戻すと、この本が出ると『あまカラ』誌上に広告がでるのだが、その売り文句がこちら。

おばんとは御所言葉で、女官の御飯のことです。そこで<おばんざい>は御飯菜で、おかずという意味です。お膳のまんなかに物相の御飯を盛り、その周囲にぐるりとおかずを置きあわせたところから、おかずのことを<おまわり>というのも同じ御所の女房言葉でした。城壁もお濠もない御所とまちの暮らしは、昔から親近感の深いものでしたから、京都ではまちの人々もおかずを<おばんざい>といいならわしてきました。日本の料理のふるさとは京都だ…とはよく耳にするところですが、<京のお飯菜>は、古い伝統に培われた味わい深いしきたりと、洗練された味覚を、京の四季折々に求めたエッセイ集です

 さてここまで読んできたらわかるとおもうが、これはあたかも『あまカラ』の顧問の大久保恒次が『京のお飯菜』のために彼の独自研究を披露したようなものにみえる。しかも書名の「お飯菜」の漢字の選択の由来まで大久保恒次であることがわかる。国分綾子は京都をうろちょろしているので京都で調べた事を伝えた様子はわかるのだが、大久保の「おばんざい」は御所言葉由来だという固定観念をくずすことはできなかったようだ。この時大久保は60代半ばなので明治生まれだといってもまだまだいけそうな気がするが、頑固なうえに押しが強かったのかもしれない。

大村しげのおばんざいの問題

 さて、国分綾子は押しきられてそういう本を出したものの、タイトルでしか「お飯菜」を使っておらず、さらには数年後にそのタイトルを撤回してしまってしばらくは知らなかったかのように京都のグルメ本を出していくのだが、そこで出てきたのが大村しげである。大村しげがあれこれ書いているのもその前に国分綾子の「お飯菜」があったから、とわかるとかなりわかりやすくなってくる。問題はなぜ「おばんざい」にとびついたのか。

 ひとつ考えられるのが、家庭料理ということで女性問題の一環として考えたこと。大村しげはそれまで大村重子名義でなにやら政治的な文章をあれこれ書いていた。そこでいきなり他二人の女性とともに朝日新聞紙上で「おばんざい」の連載を始めるのだが、政治的な活動的な面があったのではないか。国分綾子は料亭や名物などグルメ記事を書いているのであるいは「ブルジョワ」的にみえたのかもしれない。ちなみにこれは自分の妄想でしかないのでそれが正解ではないが、そうだとすると、大村しげがのちに「おばんざい」で名声をあげて文筆家となり、最終的にバリ島に移住して孤独のうちに死んだのは皮肉にもみえる。

日本おばんざい協会が大阪を避けた謎

 それから、今「おばんざい」を推進している団体に「日本おばんざい協会」がある。

obanzai.or.jp

 このリンク先にあるように2012年に京大農学部で「おばんざい研究会」を作った藤掛進がその中心にあるが、この人が同志社出身なのもまた興味深い。ちなみにこの人は2015年、『おばんざいに関する報告書』をつくっているが、そこで「おばんざい」について検討する上で

4 大阪について
 大阪、大坂についても「おばんざい」という言葉があったようであるが、議論は別の機会にしたい

 という感じで逃げている。触れると面倒くさそうなので避けたのか、あるいは知っていたけど商売上「おばんざいは大阪弁」だと問題があるので逃げたのか。

朝鮮料理のバンチャン(반찬)とおばんざい

 これはまた別の話だが今の「おばんざい」の使い方はなにかバイキングのようで、さらに言うならあたかも朝鮮料理のバンチャン(반찬)のような感じだが、そういう風に盛りあげていきたい方面がどこかにあるのだろうか? 昨今のなんでも韓流の風潮をみるとそういう面がありそうな気もしている。

光沢系低反射フィルムの PDA工房「黒影」がすごい

光沢系低反射フィルムの PDA工房「黒影」がすごい

 youtube で知ったPDA工房「黒影」、試してみたらすごかったので久しぶりに記事を書く。

アンチグレアは嫌いだが光沢仕上げは反射する

 保護フィルムというのがあるがどんなものでもあれを貼ると結局なにかものをはさんだ感じがぬぐえず、アンチグレア系は早々にあきらめ、貼るなら光沢一択で百均の安くて薄い光沢フィルムを適当に切ってすませていた。貼らないのが一番いいがまぁ安物貼っといて汚れたらとりかえていけばそれでいいだろうという算段。なので過去に散々電子ペーパー記事を書きまた所持していたがその場合でも表面の艶消し加工を台無しにするようなテカテカフィルムを貼っていた。

 さて Mac方面でナノテクスチャという表面加工に凝ったものがでてきたせいで、画面保護フィルム業界でも艶消しというかアンチグレアというかその方向の新商品がでてきたらしく、Youtube電子ペーパー関係の動画を漫然と見てたらおすすめで出てくるようになった。ミヤビックスの 「Overlay Plus Premium」 とかPDA工房の「純黒クリア」だがどうもこれも動画や評価をみるとアンチグレア系なのだ。そんならダメだな~と思いながらみてたらさらにPDA工房の「黒影」というのがあると知った。これは光沢なのに低反射を実現しているという。


www.youtube.com

 この動画を作成した人も「くっきりしてないと気がすまない」系の人なので画面に対する要求の傾向が自分と似ている。ならその評価は見るところがありそうだ。

PDA工房「黒影」を注文

 PDA工房の「黒影」のページは以下の通り。

www.pdakobo.com

 「黒影」だが同社の保護フィルムの中ではそんなに高い方ではない。それもそのはずで、「黒影」の原理は光沢フィルムの上にもう一層薄い膜を貼り、光沢フィルムの表面で反射して薄膜を通りぬける光の位相を半分ずらすというものでわりとシンプルである。なぜずれるのかというのが味噌だがその薄膜の物理的性質でずれるのである。位相が半分ずれると打ち消しあうのだが、両方の面での反射量は同じではない(それに両方の面での反射のズレもある)ので打ち消して弱まり、低反射が実現されるというもの。光学的物理的に低反射を実現しているところがよい。要は素材の選択で性質が決まるのでその効果は保証されている。実際に試したら弱点もあったがそれはあとで書く。自分はまず手堅く「純黒クリア」と「黒影」のサンプル(5cm × 4cm 220円)をとりよせてスマホにはりつけしばらく試したあとでスマホ( Oppo reno 9a ) とタブレット ( garaxy tab S5e) 用を注文したというわけだ。

「黒影」「純黒クリア」のサンプルをスマホに貼ったところ

 サンプルをスマホに貼ったところがこの写真だがみればわかるように「低反射」という面では「純黒クリア」の方が強い。しかし近いところで見るスマホでは「純黒クリア」のアンチグレア面が目について若干くっきりさが損なわれるのでそこが気になる小うるさい自分のような人間にはよくないなというわけ。遠くから見るパソコンとかテレビとかならその艶消し感がいいかもしれない。

「黒影」のすごさ

 ちょっと今日の昼間、タブレットに貼った黒影を外に持ちだして写した写真でもみてもらおう。

白日下の「黒影」をはったタブレット

 写真にはフィルムを貼ってすぐなので気泡がのこっているが、これはそのうち消える。それより気泡が示しているのはフィルムがないときの反射具合なのでそれがかえってよい標識になる。これみたらわかるが白日下ではもっと空の光がうつって見えないはずのところがこれだけ見えてるのである。これでも十分威力を発揮しているが、これがさらに威力を発揮するのが室内でうっすら顔などがうつってるようなシチュエーションで、そういううっすらうつっているのが気にならないレベルまで落ちる。

室内で撮った写真

 白い壁紙が貼ってある室内で照明機器の下で写したのがこれ。みての通り、自分のハゲ頭も撮影に使ったスマホスマホを構えている指も見えない。そのかわり天井の照明機器はみえてるがそれはしかたない。それが見えないレベルまで艶消しのアンチグレアをかけるとその代償としてちょっとクッキリさが失われてしまう。画面のクッキリさのためにアンチグレアを避けていた人にとっては非常にありがたいというわけ。

弱点がないわけでもない

 さて褒めすぎてもあれなので弱点がないわけでもないことを示しておくと、完全に反射を消すわけではないので画面の黒い背景にうっすらなにか映るのは避けられないが、気にならないレベルまで抑えられている。あと、横からの光にはすこし弱い。レンズフレアのように若干発光するような具合になる。結局光の反射の具合を正面あるいはそれからすこしズレた角度のときの反射光が減るようにするカラクリなので光が強くなるような角度もあるということだ。これはスマホのように視野角が狭い画面だとほとんど弱点にならない。タブレットで黒地に白字みたいな画面にして光源にたいしていろんな角度をためしてみるとレンズフレアみたいな感じに光ることがあるが、今までの光沢画面と弱点が違うというだけで、ただの光沢画面よりは使える角度が広いし、そもそもその光るといってもたいして光るわけではない。ただ素の光沢画面だと光らないようなところで明るくなるのでそれが気になる人がいるかもしれない。

結論

 ということでアンチグレア嫌いで光沢画面を選んでいるような人にはおすすめ。自分もとりあえずタブレットに貼ったがさらにパソコンにも貼るかもしれない。ほかにも電子ペーパー端末にも貼りたいが十分稼動する端末がないので試すことができない。あと持ってるものを有機ELにまとめたので普通の液晶で試していない。液晶だとどうなるか試した方がよさそうだ。

しばらく使用してみての追記(20250104)

 いやとにかくすごい。くっきりはっきり見える。もうこれなしでないと画面みれないのではというくらい。艶消しだとモヤモヤするのでクリアな表面を選んでいた人はそのクリアな表面の弱点を弱めてくれてるし黒がはっきりして非常によい。まだPDA工房が正月休みなので追い買いできない。ぐぬぬ

四ヶ月後の感想 (20250423)

 その後パソコンにも貼った。以後これまで不満なく使っている。𝕏(旧twitter)ではこのフィルムが弱いという意見もあるが、言うほど弱いかな? とにかくよく見えるのでそれに勝る点はない。それまでスマホ国会図書館デジタルコレクションの画像をみるのは細かすぎて難しかったが、このフィルム貼ってから細かいところまでよく見えるのでスマホで見るようになってしまった。パソコンも16インチ16:10で4kというものすごく細かい画面になってるがそれもよく見えるようになってる。うーむ。まぁ他の記事にあるように幻聴があるのでよい道具があっても十分に使えてないのが問題だが、とにかく今にいたるまで不満はなくこれからもなんでも貼っていこうと思っている。それからこれが一番威力を発揮するのは電子ペーパーではないかと思っている。ということでそろそろ試そうかと思わなくはないが、幻聴で寝込んで何もしてなかったのが効いて懐具合がかなり悪くなってきているので無理かもしれん。

幻聴対策としてのFMたれながし

幻聴の悪化

 去年2023年の12月くらいから幻聴とそれに伴う身体症状が悪化して自分でも何があったのかよく覚えていないのだが、12月1月は24時間幻聴や謎の身体症状で責めたてて寝かせないような責め方だった。2-3月はすこしマシになったのだが今度は謎の人体改造みたいな方向へチェンジ。4月になってから立命館の図書館へ金をはらって使えるようにしたところ、今度は背中を直接いじられるような感覚があり、体感的には背骨が二重になったような感じで背中から腰がおかしくなり、とにかくまともに動けないような感じになっていた。

パソコンもなぜか使えないのでひたすらロイヤルマッチ

 10月に一度パソコンがつかえなくなってからまた12月に起動できない状態になり、それからずっとサイトの日記も更新せず、パソコンも一度起動待ち画面でかたまって一晩中ブンブンうなったりしていたのでもう触りづらい状態だった。というわけでやる気もなくずーっとロイヤルマッチをやってた気がする。ロイヤルマッチだけは進捗がすすんで2024/08/10現在でステージ7329。一年でここまで来た。どうでもいいことだが。

 パソコンときどきさわってはまた起動画面で「かためられ」たりしていた。これは幻聴と連動しているのでもう感覚的には自分のいうところの幻聴組が監視していて気にさわるような事があるとパソコンの低レベルなところをいじって動かなくしているような感じしかないのだが、現象としては突然windows11がかたまって落ちるということを繰りかえしていただけだった。最近intelの13世代14世代の問題とどっかのセキュリティ会社のソフトの問題で世界中の大企業のパソコンが大規模にかたまったという事件があったが、自分からすると「幻聴組」に同じ事されてるようにしかみえないのだが、それは単に自分の身に起きたことを勝手に敷衍しているだけなので気にしないように。

身体症状の変化

 身体症状という面でいうと、その背骨の件のころと同時に全身がブヨブヨになった上、なぜか胸がふくらんで微乳のようになるという謎の現象があり女性ホルモンがでてるのかと医者にいって血液検査してもらったこともあった。結果は女性ホルモンとか全然ない。ではこの全身症状は何?みたいな感じになったが、まぁ自分の観念的には「幻聴組の謎の技術で謎の現象を起こされている」という感じであった。ちなみにときどき魔法とか幻聴で聞こえることがあるのだが、そういう妄想に落としこもうとしてるだけでそもそも「魔法」だとしてもその内実が何なのかはよくわからない。

料理に凝りだす

 ということでこんなに腰をこわされては肉体労働も無理なのでとりあえず山崎パンの工場とかでもいくしかないのかとか調べていたが、その一方で親が肉ばっかり食わせようとしてくるので感覚的には幻聴組が身体改造をたくらんでいてそれを親が補助させられてるようにしかみえない。ということで四月はしばらく京都の部屋に降りていたのだが、そのときリサイクルショップで千趣会が出してた『本になった料理学校』のシリーズが一冊80円で売ってたのを衝動買いしてしまい、幻聴責めで壊された読書能力を復活させるためにそのレシピ本をじっくり読んだりしたところで料理に興味がでてきた。その昔自炊していたころはひたすら中途半端な鍋的な野菜汁ばっかりという手抜き料理に落ち着いていたのだが、ちょっとそれよりはマシなものを作ろうということになって、インドカレー的なものとかつくっていた。あるときペルシャ料理のナスのペーストみたいなのをレシピをななめよみして適当につくってみたところ無茶苦茶うまいものができて驚いた。塩をまぶして「20分放置する」と書いてあるのをそんなに?と思いながらそのままやってみたのだが。小学校の給食のナスの田楽の印象がわるくてナスはあんまり好きではなかったのだが、この手間でこんなにナスがうまくなるのか!とびっくりしたわけ。他にも古本屋で買った『ぼくのおやつ』にあったホットケーキをふくらませる手順をやってみると本当にそうなってこれもびっくりした。で、その「料理をうまくするちょっとしたコツ」に興味がでてきてさらに図書館の本をよみだすことになり、今にいたる。

FMの効用

 さて本題の幻聴だが、幻聴がうるさいといってもよくよくその幻聴が聞こえている場所、つまり自分への入力として幻聴に意識を集中させてみると、外部から聞こえる実音声とはその意識を集中させる場所がすこし違う気がすることに気付いた。いやこれは前にも気付いたことがあったがそのころはむちゃくちゃうるさかったのでそれをどうともできなかった。最近の幻聴の音量レベルだとそれが別々の場所だということがわかり、たとえば外の音に耳をすませると幻聴に気がいかなくなる。これはたぶん人ごみの中でも話ができる人間のフィルタリング能力と関係しているかもしれない。そこでラジオをずっと聞くと幻聴対策にいいのではないか?と気付いたわけだ。

 実は冬の間にも中国語の音声をたれながすという方向で寝ている間の幻聴から逃れようとしていたのだが、寝ている間にアプリが落ちるので目覚めのころの幻聴を防げない。ということで結局あきらめていた。しかしバリコンで調整するタイプの古いラジカセでラジオをたれながすことで防げるのでは? 右耳のうなり抑制用の低周波をたれながすための外部スピーカとしてのラジカセを、その本来の用途でFMをたれながしてみたらこれが結構いける。それでラジオを一日中たれながすことにした。それ以来幻聴の心理的な負担がかなり低くなった。なんだこんな簡単なことかと思ったがそれに気付くのがすこし遅かったかもしれない。そもそも中高のころは短波ラジオやFMを聞いていたのである。

最近のFMの傾向

 さてかなりどうでもいいことだが最近のFMの傾向だがもうネットの時代になって時代遅れになったのかといえばそうではなく、むしろ時代がラジオに都合よくなってきたほうにもみえる。AMはほとんど聞いてなくてFMばかりなのだが、それでもSNSを活用して直接リスナーの声を拾えるようになっている。そもそもFMは声だけなのでこれtwitter(X)でのtweetをたれながしてるのと構造としてはかわらない。声だけなので多人数の声がまじると誰が誰かわからなくなる。ということでFMで聞こえてくる世界は一人だけあるいは高々数人でしかない。これがテレビだとテレビの画面だけで世界が完結してしまい視聴者はそれを拝見するだけになるがFMだと一人あるいは数人で無音時間をつくらないために必死で話しまくるのでリスナーの声はそれを補うのにちょうどよく、そもそも昔からリスナーのはがきなどの反応をとりこんでいる。ということでラジオの方もリスナーの声を直接拾えるSNSをかなり重視して、放送の中で普通にハッシュタグとかXとかなんとか言うようになっているのだ。まぁすでにtwitter(X)にもラジオに近いような仕組みがあり、たぶん放送法のからみで既存放送局はそこへ入りこめないのだが、入りこめるなら既存の番組をそこへそのままハメこめることができる。それだけでもテキストだけのSNSと声だけのラジオが無茶苦茶相性がよいことがわかるとおもう。

幻聴対策にラジオ

 ということで、幻聴対策としてラジオは効く。まぁあの、山歩きとかしてるとラジオをたれながしながら歩いてる人にでくわす事があるがあれも実は幻聴対策みたいな面があるのかもしれん。

呂不韋南越人説

呂不韋南越人説

秦の丞相 呂不韋の出身地

 呂不韋といえば、始皇帝の父親子楚が人質として趙に送られていたのに目をつけて秦王になるようはからい始皇帝を育てた商人出身の秦の丞相で「奇貨居くべし」の故事を残した人だが、いちおう『史記』には「呂不韋者,陽翟大賈人也」とあり今の河南省の禹州あたりにあった韓の商業都市陽翟の大商人ということになっている。ところが『戦国策』では「濮陽人呂不韋」とあるので今の山東省と河北省の境目くらいになるがこちらは春秋戦国の小諸侯の衛の首都で、こちらも古くから栄えた土地であった。漢の高祖劉邦が地方のならず者だった頃に目をつけて娘を嫁にやった富豪呂公が呂不韋の一族という説もあるのだが、これは濮陽と呂公の巣父、劉邦の沛県が地理的に近いというのが一つの根拠になっている。とにかく戦国末期の繁華な地域を商圏とした商人だったらしいということは共通認識だといってよいだろう。

 ということで自分は南越人説を考えてみようとおもう。南越は広東・広西・ベトナム北部だが、始皇帝が征服するまでは百越といってまだ統一国家段階にない多数の民族がいるところだった。上に書いた「呂公が呂不韋の一族説」(郭沫若や楠山修作など)よりは資料的な裏付けがある。

不韋県の由来

 今の雲南省ミャンマーに近い保山市のあたりに不韋県というのがあった。この不韋県の由来について考察している人がいて、資料的にはそこに紹介されている事に尽きる。解釈は別とする。

t-s.hatenablog.com

華陽國志曰「孝武置不韋縣、徙南越相呂嘉子孫宗族居之、因名不韋、以章其先人之惡。」

孫盛蜀世譜曰「初、秦徙呂不韋子弟宗族於蜀漢。漢武帝時、開西南夷、置郡縣、徙呂氏以充之、因曰不韋縣。」

 書いてある通りだとすると、不韋県が置かれたのはそのあたりが漢の武帝の侵略をうけて漢に降伏したのと同時なので、秦のころにここへ呂不韋の一族を流すことはできない。関係がある事だとするとそこで矛盾がでてくるので、単に関連事項が併記してあるだけだろう。とすればそこに書いてあるとおり、呂不韋は南越の宰相の呂嘉の一族の先人だということになる。以下その筋で考察する。

南越の経緯

 南越のことを書く前にここで年表にして整理すると

西暦 事項
BC237 呂不韋失脚
BC235 呂不韋自殺
BC236-221 秦の統一戦争
BC219 百越征伐開始
BC214 百越征服、南海郡設置
BC210 始皇帝の死
BC203 南越建国
BC202 項羽と劉邦の垓下の戦
BC195-180 呂氏の専横
BC112-111 漢の武帝の南越・西南夷征伐

 百越征伐の占領軍が秦の滅亡後、楚漢戦争の最中に自立したのが南越である。漢との関係は呂氏の専横時代は険悪だったが、それ以外はだいたい良好だったようだ。

呂嘉の一族

 呂嘉の一族について考える前に呂不韋がその一族だったとして、政権中枢の呂氏が植民地に勢力を扶植したという筋も考えられるのでその方向についてだが、上の年表でわかるようにそれはない。呂不韋一族が処罰されたのは秦の天下統一の前だった。呂不韋のあと秦の丞相になった李斯が天下統一を実現させている。呂不韋の一族は秦の中枢には残れなかったし遠征軍で重きをなすこともなかったとみた方がよい。次に漢の呂皇后の一族が属国を食い物にした可能性だがこれもない。その時期は逆に漢と南越との関係が最悪になり、南越が最大版図を誇った時代だった。

 呂嘉であるが史記の南越伝によると

其相呂嘉年長矣,相三王,宗族官仕為長吏者七十餘人,男盡尚王女,女盡嫁王子兄弟宗室,及蒼梧秦王有連。

 とあるので南越国重臣南越国内にかなり大きな人脈をもった一族ということになる。ベトナム史書大越史記全書』では出身地は九真郡、ベトナムタインホア省トースアン県のあたりとされている。史記の南越伝でも越人の信があったとされているので秦の占領軍出身ではなく、現地人出身だとみた方がよいだろう。

武帝の処置

 史記には南越の滅亡の際、王には漢に帰順する意思があったのに呂嘉が逆らって反乱したせいで戦争が一年つづいたと記述され、司馬遷はそのことを評して「呂嘉小忠,令佗無後」(目先の忠義にこだわって南越王初代趙佗の子孫を絶やしてしまった)と書いている。また本紀などでは「漢の使者と王、王太后」を殺したので滅ぼしたということになっている。

 ところが『史記』『漢書』などにはそのあとどうしたかが書いてない。特に司馬遷の同時代なので確実な材料が入るはずだが... なぜだろう。呂嘉を殺したという一報が入ったのでそれを祝してそのとき武帝が滞在していた汲の新中郷を獲嘉県(河南省新郷市)に変えたとは書いてあるので、皇帝が重大な関心をよせていたビッグイベントであったようだ。呂嘉を非難する上奏文(つまり皇帝の意向に同調した文章)も列伝の方に残っている。なのに、である。

 南越がみせしめとなって雲南方面も続々と降伏したわけだが、そのうち滇が益州郡となったことがわかる。その『漢書』の地理志に郡県の一覧があるが、そこには益州郡のなかに「不韋」があるので,その時不韋県が成立したのは確実であるが、どういうわけでそういう名前にしたかもわからない。

財宝の地 南越

 さてここで、ひとまず記述のたりない方面から離れて別の方向からこの問題にとりくんでみよう。まず南越の産物。呂氏の専横のあと関係回復のために派遣された陸賈は南越の返事をもって文帝へ報告した。そこには南越王の献上物が挙げられている。

白璧一雙,翠鳥千,犀角十,紫貝五百,桂蠹一器,生翠四十雙,孔雀二雙。

 まぁよくわからんがキレイな石や鳥、あるいは角など、宝玉の類が送られている。当地の産物で最もよいものを贈ったはずだからこういう珍品が名物なわけだ。では漢書の地理志にはどのように紹介されているか。

處近海,多犀、象、毒冒、珠璣、銀、銅、果、布之湊,中國往商賈者多取富焉。

 (当時の広州は)海に近く、犀や象の角、タイマイなどの宝物が集まると書いてある。そのあとの「中國往商賈者」は「中国人で商売に行く人」なのか「中国へ商売に行く人」なのかよくわからんが、細かくいわずともわかるだろう。こういうものの産地なので当時の中心である華北に持っていくだけで大きな商売ができるということだ。

陸賈 の商売

 それを端的に示すのが南越王への使者になった陸賈のエピソードだ。陸賈は劉邦から南越王へハンコを渡すようにいわれ、つまり帰順せよということだが、南越王を説得したうえ意気投合して帰りには値千金の真珠の類の宝物をお土産にもらって帰る。劉邦の死後呂氏専横期間に陸賈も睨まれたのでとっととやめてしまい、その宝物をとりだして金に変え、子供達の間をわたり歩き居所を定めない生活をしながら反呂氏の策をねりあげ、みごとクーデターを成功させるのである。

呂不韋の商売とは?

 さてここまで書いたら自分が推測していることが何かわかるだろう。呂不韋は何を商っていたのか?「往來販賤賣貴,家累千金」とある「安いものを売って高く売る」程度で千金も貯まるものとは何か?そして各地の王侯貴族に簡単に近づけてとりいることができるような物とは?

 ということで、呂嘉の先人が呂不韋だという華陽国志の記述が生きてくるのである。南越のあたりに地盤をはる呂氏一族が南海の珍奇な産物を中国中央の王侯貴族へ売りつける現地駐在員が呂不韋だとみれば話がかなりわかりやすくなってくる。そういうものを売る商売なので当然各地の王侯貴族、あるいは大商人・資産家・金持ち、さらにはその奥様お嬢様方が顧客で、それらの間を忙しく動きまわるのが当然のこととなる。呂不韋が売ってるもの自体が「奇貨」なので自然と「奇貨」を見出して金にする考えを身につけており、それを人間に対して応用するのも当然となる。

先駆者 范蠡

 さらに百越ではないが、越王勾践を支えてのちに商売で成功した越人に范蠡がいる。他ならぬその『史記』列伝の最後の太史公自序の前には「貨殖列伝」があって各種の金儲けをした人たちが紹介されているという歴史書(史記が歴史書なのかどうかは微妙だが)としては不思議な部分があるが、その冒頭を飾るのが越人范蠡なのだ。范蠡が何を商ってのちにその偽名陶朱公が富豪の代名詞となるほどの富を得たのだろうか?

百越遠征

 秦の百越遠征は六国統一のあとなのでその延長上で語られるが、よく気候が違いすぎるのでそんなにうまくはいってないというような説明がされることが多い。しかしそれは秦の暴政を言うための言説で駐屯軍が自立して国つくるくらいだから失敗ではなかったのだろう。桂林の近くに霊渠という運河があり、それで広東方面と湖南方面の水系を接続したというので見にいったことがあるが、なんで秦のころにそんなところに必死こいて運河を掘ってまで南北を接続したのかわりと不思議だったが、戦国末期にすでに南海貿易が盛んになっていたので宝物の土地みたいにみられていたとすればわからんでもない。

出土する貝の装飾品

 今の中国へいって博物館などで出土資料を漫然とみていると、日本での常識となんか違う事がある。その一つが貝の装飾品で、日本では、漢代の中国ではこんな豪華で巧緻なものが出てくるのに、同時代の日本は遅れていて貝殻が装飾品になってるとかいう言説が横行している。漢代までは厚葬の時代なので漢代の遺物は大量に発掘されているのだが、秦や漢の中国の出土物として日本人が思っているのは上澄みで、下の方では日本と大してかわらない貝殻を装飾品にしているということがわかる。物質生活として比較すると中国の方が豊かだったのはまちがいないだろうが、南の海で取れるキレイな貝殻も立派な装飾品として日本と同じように中国でも流通していたのである。

結論

 ということで、南越人...というよりは百越出身の呂不韋は十分ありうると思うのだがどうだろうか。珍宝で秦王室に近づいた男・呂不韋みたいな話になっていろいろ面白くなる。漢の呂公・呂氏一族との関係はまた別の問題になるが、漢の武帝呂不韋ならびに呂氏の係累として南越の呂嘉をみており、名指しで潰しにかかったので呂嘉は反乱を起こしてみごと失敗し、一族は雲南で新しく帰附した雲南の王の一番遠い領地へ流され、土地に「不韋」の名前をつけられた、という見方もできなくはない。

 そうだとするとなぜ司馬遷がそんなおもしろい事を書かなかったのかという重大な問題がある。武帝の身近く仕える身ではあるが、結構好き勝手書いてるのにそれを書かなかったのはなぜか... ということで矛盾が明らかとなるので、このお話はここまでとする。どうせ結論なんか出ない。