ビリヤニは「三密の敵」だった。コロナ禍の鬱から立ち直るまで

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――「ビリヤニマサラ」での営業をやめ、シェアハウスでビリヤニをつくる日々はいかがでしたか? 

大澤:シェアハウスでは好きなだけ同じレシピを作り込んで、腕を上げることができました。一人500円くらいの材料費のみで振る舞っていたから、食べたい人がたくさん集まるんです。そうすると、僕は時間や顧客満足なんて一切考えず、ただただビリヤニの味を上げることだけに集中できる。じっくり時間をかけてつくっていたら終電の時間になり、待っていた人が何も食べられないまま帰る……なんてこともありました。

でも、それだけ作りまくっていると、自然にタイムコントロールも安定してくるんですよね。炊きあがりの時間が決められるようになったら、「今度こそ食べられるぞ」と来る人がめちゃくちゃ増えちゃって、多いときは40人前の鍋を7回くらい炊いていました。それじゃさすがに立ち行かなくなって予約制にしたのが、5年くらい前のこと。「予約困難なシェアハウス」という謎の場の出来上がりです。

週6はガラムマサラのアルバイトでカレーをつくり、休日はビリヤニを炊いて……途中からはガラムマサラの店長にもなったりと、すごく充実していましたね。

――ところが新型コロナウイルスの流行により、状況が一変したそうですね。勤めていたお店やビリヤニハウスには、どのような影響があったのでしょうか。

大澤:ガラムマサラは営業自粛のうえ、オーナーがインド滞在中にロックダウンで出国できなくなってしまい、開店休業状態が続きました。そのうえ、大鍋の炊きたてをみんなで食べるビリヤニは、「密」の代表みたいなもの。大勢で集まることも、食事を共有することも許されないコロナ禍では、ビリヤニを楽しむこと自体が悪になってしまったんです。

「おいしいものは人を幸せにしてくれるはずなのに……ビリヤニはもうオワコンなのか?」と落ち込み、勤め先の営業不振もあいまって、僕は鬱病を発症してしまいました。

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――大澤さんのビリヤニ愛を考えると、当時の状況を想像するだけで苦しいです。そこから大澤さんは、どのように再起したのですか?

大澤:まずは店を立て直すことだと考え、冷凍カレーの通販をはじめました。これが初月3000食と爆発的に売れて窮地をしのげたのですが、給与を支払えないのでバイトは雇えず、オンラインのシステム構築からカレーの冷凍、発送作業まで一人でやっていたことが原因で体調が悪化してしまって……。ついに「ガラムマサラ」を退職せざるを得ない状況になりました。

しばらくフードデリバリーで食いつなぎながら休んでいたところ、友達に「自分でビリヤニのお店をやったらいいのに」と言われたんです。考えたこともなくて、衝撃でした。

――それだけビリヤニが好きなら、一番に思いついてもいいはずなのに……!

大澤:心身を壊していたし元手もなかったから、自分が店を出すなんて思いもよらなかったんですよね。でも考えてみれば、コロナ前はあれほどシェアハウスに人が押し寄せていたんだから、いまも食べたい人はきっといるはず。おいしさをちゃんと追求できる運営方法でやれるなら、もう一度飲食店というかたちに挑戦してみたいと感じたんです。

――そして2020年4月、目標金額500万円ではじめた初のクラウドファンディングでは、1,300万円もの資金を集めることに成功しました。支援者の熱いアクションを目にして、どんなお気持ちでしたか?

大澤:たった24時間で500万円を超え、どんどん支援者が増えていって、逆に怖かったくらいです(笑)。でも、ビリヤニがこれほど求められていたんだと思うと、本当にうれしかった。

コロナで一度疑ってしまったビリヤニの価値を、改めて思い出すきっかけになりましたね。それからは無我夢中で準備をし、約半年後に「ビリヤニ大澤」をオープンしました。

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――カウンター10席、一斉スタートの完全予約制、メニューはビリヤニ一種類のみ。基本の飲み物は-3℃に冷やしたコーラ……と、とんでもない制限ですが、ここまで大澤さんのお話を伺ってきて、ビリヤニのおいしさを追求するためには必要な条件だったんだと感じました。それでも、こうしたお店に踏み切るのは怖くなかったのでしょうか。

大澤:もちろん怖いし、そういう飲食店を成立させるのが難しいという状況は変わっていません。でも、そうしたいろんな問題はすべて、ビリヤニのおいしさを高めればクリアできると信じています。

それはビリヤニをつくる僕の挑戦であり、ビリヤニという料理そのものの挑戦でもある。これだけの制限をつけたビリヤニ専門店が繁盛しているというのが、ビリヤニのすごさの証です。

画像: ▲「ビリヤニ大澤」店内(ご本人提供)

▲「ビリヤニ大澤」店内(ご本人提供)

TBSテレビのAD/アナウンサーを経て、現在は事業運営、雑誌「VERY」カバーモデル、ラジオパーソナリティなど多方面で活躍する笹川友里さん。一見華やかに見える職歴の裏で「自分らしさ」が見えずに苦しんだ時期もあった。でも、いまは「私のままでいいんだって、やっと腑に落ちました」と軽やかに笑う。

悩むときも心が折れるときもあるけれど、自分と周りを信じて、挑戦を続けていく。そんな等身大の彼女の姿は、頑張る女性たちの背中を押すだろう。「自分で自分の人生をハンドリングする」ためのマインドが、ここにある。



アナウンサー試験に不合格。
でも、与えられた仕事を全力で楽しむことが、道を開いた

画像1: アナウンサー試験に不合格。 でも、与えられた仕事を全力で楽しむことが、道を開いた
――幼いころは、どんなお子さんでしたか?

笹川:自信がなくて心配性で、いつも母親のスカートのすそを引っ張って隠れているような子どもでした。性格が外に向いてきたのは、中学受験をしてから。幼稚園から大学まで一貫の女子校に、中学から入学しました。そうしたら、内部進学の子たちがとてもしっかりしていたんです。同い年なのにはっきり意見ができて、快活で、部活も勉強も頑張っている。友人たちからいい刺激を受けたおかげで、自分も少しずつ能動的になっていったんだと思います。この頃から、人とコミュニケーションを取ることが大好きになりました。

――内気だった女の子が外向的になり、いつの間にかアナウンサーを目指すまでに……!

笹川:そうですね。就活のときには、毎日違う人と会うような仕事がしたいと考えていました。テレビ局の説明会で「この業界は毎日が文化祭の前日です」と言われたことがすごく印象的で……私、まさに文化祭前日の「明日うまくいくかな?」「これまでの集大成、出しきろう!」と仲間と肩を組んで下校する、そんな雰囲気が大好きだったんです。なので、その言葉がぐっと刺さって、アナウンサーを目指すようになりました。

結果的に、3社で最終面接に進んだものの、残念ながらすべて落ちてしまって。そのなかの1社が、TBSでした。

ただ、選考を受けていくなかでTBSという会社そのものに惹かれている自分がいました。真面目だけど温度があって、いい意味で職人気質な人が多いという印象でした。「こんな人たちと一緒に働きたい」と感じて、ゼロから総合職の選考を受け直して入社しました。

――入社後は制作局に配属され、ADとしてキャリアをスタートされます。華やかなアナウンサー志望から一転、ハードな職場に心身はついていけましたか?

笹川:私は良くも悪くも物事に固執しないタイプ。総合職で頑張ろうと決めたからには、アナウンサーへの未練はまったく残っていませんでした。そして何より、ADは自分にすごく合っていた。いまでもアナウンサーより、ADのほうが向いていると思います(笑)

毎朝その日にやることをToDoリストに書き出して、ひとつずつ消していくのが快感だったんですよね。お弁当や飲み物の発注、タレントさんの楽屋割り、駐車場の手配……深夜にラーメン屋さんまでラーメンと餃子を取りに行く、なんてことも。どんどんタスクが降ってくるし、毎日想像もしないようなことが起きるんです。でも、無事にオンエアまでたどりつくとすごく達成感があって……それこそ、毎日が文化祭前日でした。

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――ところが一年後、突然アナウンサー室への異動が決まります。前例のない人事異動だったそうですが、どのように受け止めましたか?

笹川:きっと、私が与えられたADという仕事に面白さを見出して全力で走っていたことを、誰かが見ていてくださっていたのだろうと思います。

当時『置かれた場所で咲きなさい』(渡辺和子・幻冬舎)という書籍が流行していましたよね。会社員って、自分の「やりたい」とは異なる業務を与えられることもあるじゃないですか。でもそこで前向きに頑張れたことが、将来を広げてくれたのかもしれません。

ただ、当の私はそんなつもりで頑張っていたわけでも、アナウンサーになる目論見があったわけでもなくて、単純にADが楽しかったんです。だから異動の話が出たときも、一部からは「笹川、あんなに楽しそうなのに、現場から離すのはかわいそうじゃないか」という声があったと聞いています(笑)

誰もが「ちがう」想いや悩みを持って⽣きています。でも、もしかしたら誰かが導き出した答えが、あなたの答えにもなるかもしれません。「根ほり花ほり10アンケート」では、さまざまな業界で活躍する“あの人”に、10の質問を投げかけます。今回は、NHK連続テレビ小説『虎に翼』を手掛けた脚本家・小説家の吉田恵里香さんが登場。

きっと、「みんなちがって、みんなおんなじ」。たくさんの花のタネを、あなたの心にも蒔いてみてくださいね。


吉田恵里香(よしだ・えりか)

主な脚本執筆作に2024年度前期連続テレビ小説『虎に翼』、映画『ヒロイン失格』、ドラマ『30歳まで童貞だと魔法使いになれるらしい』など。ドラマ『恋せぬふたり』で第40回向田邦子賞・第77回文化庁芸術祭優秀賞を受賞。アニメ『ぼっち・ざ・ろっく!』で第9回ATA最優秀脚色賞を受賞。執筆した小説に『にじゅうよんのひとみ』などがある。


①今の仕事に就いた経緯は?仕事のやりがいや楽しみは?

画像1: 吉田恵里香さん(脚本家・小説家)の「根ほり花ほり10アンケート」

大学一年生の頃、小劇場のお手伝いをしてタダで観劇させてもらっていました。そこで今の事務所のマネージャーさんと出会い、そこからの繋がりで今に至ります。

脚本家になろうと思ってなったわけではなかったですが、学生のうちに物語を作るプロの方々の仕事に触れられたのは良い経験になったと思っています。

その時の出会いが無ければ、恐らく学校の先生をしながら小説のコンクールに応募し続けていたかなと。物語を考えることがとにかく好きなので、苦しいことは時々ありますが基本的に楽しく仕事をしています。


②これまでの自分の人生にキャッチコピーをつけるなら?

「最後には良い方に流れる」

これは自分が執筆したドラマ「虎に翼」にでてくる台詞です。嫌なことや辛いことしんどいことが起きても、幸運なことに今のところ最後には良い方に流れているのかも。運が良いだけかもしれません。でもまぁどうにかなるさという気持ちでいられると自然と強くいられる気がします。


③今までに人生の分かれ道に立ったとき、どう考えてどう決断してきた?

本当に欲しいものかどうか、五年後の自分がこの決断をどう思うかをよく考えます。人の目や評価を気にしてしまいますが、最終的には自分が納得しているかが一番大切です。その結果、良い方にいっても悪い方にいっても「まぁあの時は納得していて自分で決めたんだからな」と思えると、落ち込んでも立ち直りも早い気がします。


④休日明けの朝、仕事に行きたくないと感じることが多いです。そんなときどうしますか?

出来る限り、自分を甘やかします。朝御飯に自分の好きな食べ物やお菓子を食べるとか、好きな作品をみるとか、好きな服を着るとかパックをするとか。それでもダメならば思いきって仕事を休むことも検討します(これはあくまである程度スケジュール調整が利きやすい私の仕事だからできることな気もします)。

煮卵にハマった時は煮卵を朝作って出かけて、帰って食べるのを楽しみにしたりもしました。あとはなぜ行きたくないのかを考えたりもしました。私の場合はホルモンと気圧が大きく関係するので「仕方ない、私の力ではコントロールできないことだ」と割り切って、行きたくない気持ちを受け入れるようにしています。


⑤仕事において、やりたいことや目標がみつかりません。そんな自分はダメでしょうか?

ダメではありません。やりがいや目標が見つかることは素晴らしいことですが、人生の絶対条件ではないです。ただ生きて生活をしているだけで花丸100点満点だと思います。やりたいことや目標がないのに仕事をしている時点で200点満点です。

あとは自分が目標を見つけたいかどうかだと思います。見つけたい気持ちが本当に強いならば、いつか見つかる日もくるかもしれません。改めて言いますが、目標ややりたいことがないことはダメじゃないです。もしそんなことをあなたに言ってくる人がいたならば、その人がダメなだけです。


⑥将来に対して漠然とした不安を感じてしまいます。どんなマインドを持てばいいので しょうか?

私は不安症でずっと将来に不安を感じています。仕事をギューギューにいれてしまうのも不安からくるものです。どんなマインドと言われると難しいのですが、不安な自分を認めるというか諦めると少し楽になります。私は「どう転んでも不安なんだから」と諦めるようにしています。そのうえで漠然とした不安の中で具体化できるものは対処方法を考えます。私の場合は対人関係の不安もよく抱えるので、月並みですが誠実であるとか優しくあるとかできることからコツコツ不安を削っていっています。


⑦時間とお金の使い方のこだわりを教えてください

画像3: 吉田恵里香さん(脚本家・小説家)の「根ほり花ほり10アンケート」

私は時間もお金の使い方もへたくそです。へたなりに誠実でありたいなとは思っています。

今の絶対条件は子どもと家族の幸せです。これは無駄な時間やお金かもしれないと思っても「まぁ子どもが喜んでくれているからいいか」とか「家族が嬉しそうだからいいか」みたいなマインドを持てると結果自分もご機嫌でいられています。


⑧過去の自分にメッセージを送るなら?

嫌なことは全部、創作のネタになる。だから全部財産になるから安心しろと言います。

すすんで傷ついたり苦しんだりする必要はないですし、若い子にはそんな思いをしてほしくないと思っています。ただ私にはすでについてしまった傷や嫌な思い出があることも事実なので、それを肯定できるメッセージを送ると思います。


⑨将来どんな暮らし、生き方がしたい?

自分のことが嫌いにならないように誠実でありたいです。なるべく良い人でいたいなと思います。母には、なるべく元気に長生きしてもらい親孝行がしたいです。子どもや家族・友人との関係も良好であればいいなと思います。

あとできるだけ健康でバリバリと仕事をしていたいです。仕事をしている自分が好きなので、仕事のオファーがずっと来る自分でいたいです。子どもとの時間は最高で、子ども以上に大事なものはありません。ですが子育てがひと段落したら、やりたいことは山のようにあります。


⑩吉田恵里香さんにとって、「自分らしく働く」とは?

なるべく後悔のない選択をして、全力で作品のことを考えることです。

自分らしさというものは、後からついてくるものだと思っています。私の場合は、自分が納得できないことには抗い、自分が面白いと思うものの強度をあげていくことが、のちのち振り返ると自分らしい作品になっていることが多いです。


画像4: 吉田恵里香さん(脚本家・小説家)の「根ほり花ほり10アンケート」


吉田さんのご回答の根底には、ご自身への優しい眼差しがあると感じました。自分の弱いところ、嫌いなところをみつけて責めることは一見、自分に厳しいようで簡単でもあり、そこから自分自身の気持ちを立て直すことの方が大変だと私自身は思っています。吉田さんのように、自分への優しさをコツコツと積み重ねた先に「最後には良い方に流れる」と自分を信じてあげられる強さを持てるのかなと思いました。「まずは、自分に優しく」そんな気持ちにさせてくださった吉田さん、ありがとうございました。

営業職というと、にぎやかで社交的な人や、相手との距離の縮め方がうまい人というイメージがないだろうか。今回のMy Rulesの主人公、プルデンシャル生命のライフプランナー・周善和さんは、落ち着いたトーンで、顧客と真っ直ぐに向き合うタイプだ。

「人前に出るのが苦手で、支社のミーティングで話すだけでも緊張するタイプ。学生時代の友人には『営業職には向いていないから、すぐ辞めそう』とよく言われていました」

そう笑う周さんだが、時間をかけて自分のスタイルを確立し、入社15年目にして社内コンテストで入賞という結果も得た。今回は、群馬・高崎という地で、新たな道を切り拓いた彼女の強さとその歩みを辿ってみたい。

▼プロフィール
周善和(しゅう・そな) 

在日コリアンとして、群馬県高崎市で生まれ育つ。朝鮮学校で小学校から高校まで過ごし、朝鮮大学卒業後は朝鮮学校で教員として5年間勤務。その後、販売店で化粧品・エステの営業を経験。2009年9月、プルデンシャル生命に入社。



自分で人生を切り拓く――その思いが開けた新たな扉

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「ちゃんと質問の答えになっていますか?」

取材中、周さんは何度もこの言葉を口にした。質問の意図を汲んで、わかりやすく、的確に応えようとする姿からも、普段、彼女がいかに顧客に誠実に向き合っているかが伝わってくる。

営業職でありながら、控えめともいえる人柄。どんな経験が彼女のキャラクターを作ったのかを尋ねると、「生まれもった性格という部分が大きいのですが、在日コリアンのコミュニティのなかで大学までを過ごしてきたので、大人になってから日本社会に飛び込んだという感覚が強くて。そういった部分も影響しているのかもしれません」と答えた。

在日三世として生まれ育ち、大学まで朝鮮学校で過ごした周さん。

「私はずっと在日コリアンの社会で生きてきたので、企業への就職活動のやり方が分かりませんでした」。大学卒業後、朝鮮学校で教員として子どもたちに語学などを教えていたが、次第に日本社会で働き、生きていきたいという思いを育てていく。

「自分が結婚する姿があまり想像できなくて。実家もお金には苦労していました。だから自分で人生を切り拓き、生活していかないといけない。どうやったら今の環境から飛び出せるだろう、どうやったらバリバリ働けるんだろう、ずっとそう考えていました」

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転機はすぐに訪れた。化粧品会社の販売店に、友人の紹介で客としてエステを体験した際、「働いてみないか」と声をかけられたのだ。実際に働き始めると、自分に向いている仕事だと感じた。

「まずは無料エステを体験してもらい、継続的なエステや化粧品をお勧めする仕事でしたが、振り返ると当時から商品を売るというより、お客さまの本質的な課題を突き止め解決しようとアプローチしていました。1対1でお客さまの生活習慣をヒアリングし、お肌の悩みを解決するためにアドバイスをする。その姿勢やヒアリング力は、今の仕事にもつながる私の強みかもしれませんね」


日本社会で生き抜くためのライフプランナーという選択

画像: 日本社会で生き抜くためのライフプランナーという選択

プルデンシャル生命との出会いは、偶然だった。

「真夏の炎天下、街中でエステのチラシ配りをするのが嫌で(笑)。オフィスビルに入って、上のフロアから順番に配って回り、最後に訪れたのがプルデンシャルの支社でした。その飛び込みがきっかけでライフプランナーにスカウトされたのですが、化粧品と保険では全く商材も売り方も異なります。怖かったですし、正直不安だらけでした。でもそれ以上に好奇心が湧いたというか……。プルデンシャルに入ることで、これまでと違うステージで社会と接点が持てるのではないか、と考えて思い切って入社を決めました」

しかし、プルデンシャルでの船出は決して順調ではなかった。

「前職は女性スタッフばかりだったので、日本人男性と接するのもほぼ初めて。同僚との距離感もわからずに戸惑うことばかりでしたね。営業先も在日コリアンのコミュニティが中心でしたが、女性の友人の多くは結婚していて、保険加入の決定権は男性側にありました。女性がお金の話をすることに抵抗を感じる方も多くて、なかなかご契約はいただけませんでした」


シンプルに、誠実に。自分らしいスタイルで信頼関係を築いてきた

そんな中で周さんの支えになったのが、所属している高崎支社の先輩たちだった。金融知識のフォローアップやお客さまへの応対など、細かなことも熱心に教えてくれた。

「高崎支社に限らず、プルデンシャルでは先輩が惜しみなく知識や経験を教えてくれるんです。これは本当にいい文化だなと思います」

さらに周さんの活路となったのが、退職した前任者から引き継いだ契約へのアフターフォローだった。

画像: シンプルに、誠実に。自分らしいスタイルで信頼関係を築いてきた

「引き継いだお客さまにコンタクトをとり、ライフスタイルの変化や、ご契約内容に不明点がないかなどをおうかがいしながら、新しい担当者として覚えていただき信頼関係を築いていきます。そのうえで、保険に関するお困りごとを抱えているお知り合いなどを紹介いただくというのが、私なりの営業スタイルになっていきました」

ここで生きてくるのが、前職で培った「本質を突く」カウンセリング能力。

「ライフプランナーにはさまざまなタイプがいます。お客さまと頻繁に連絡を取り、友人のような関係になって信頼を積み重ねていくという人も少なくありません。一方で私はそうではなくて、事前にきちんとアポイントを取って、“仕事の予定”としてお会いしたいタイプ。もちろん突然のご相談や急なお困りごとなどには優先で対応しますが、基本は決まった時間の中でヒアリングをし、将来の備えとして心配な点、保障が足りない点をしっかりお伝えして、ストレートに解決策をご提案します。お忙しい方や公私をしっかり分けたいという方からは、『周さんは端的に欲しい情報をくれる』とお褒めの言葉をいただくなど、私のスタイルが喜んでいただけるようです」

お客さまが多様であれば、ライフプランナーも多様であるべき。そんな考えのもと、周さんは「自分らしさ」を貫き、お客さまとの関係を積み上げてきた。【My Rules①】

「自分の人生を自分でハンドリングし、前向きに生きる女性を増やす」をスローガンに掲げ、働く女性向けのサービスを展開するNewMe株式会社と女性の活躍を応援するプルデンシャル生命保険のコラボレーションイベントを開催することとなりました!

テーマは「変化の激しい時代の自分らしいキャリアの重ね方 ~チャレンジを続ける先輩に聞くReal Story~」。インフロレッセンス株式会社CEOの井川沙紀さん、NewMe株式会社CCOの笹川友里さん、プルデンシャル生命・東京第九支社で営業所長を務める浜田真衣さんの3名を登壇者に迎え、多様な働き方・生き方のヒントを探ります。

働く女性の選択肢はかつてないほどに広がり、ライフステージの変化に合わせて選択する道も変化していきます。多くの選択肢の中から、自分らしい働き方を選ぶには……。
金曜の夜に心をリセットしながら、一緒に思いを巡らせてみませんか?

オフライン・オンライン同時開催、オフライン(会場)参加の方には、軽食やお土産もご用意しております。NewMe株式会社のイベントはお一人で参加される方も多くいらっしゃいますので、是非お気軽にご参加ください!




【日 時】8月29日(金)19:00-21:00

【場 所】オンライン・現地会場 同時開催
     会場参加:ホテル雅叙園東京(目黒雅叙園)

【費 用】会場参加:3,000円(ワンドリンク、軽食込み)
     オンライン参加:1,000円

【持ち物】お名刺1枚
※オンラインで参加の方は、Session1のパネルディスカッションのみの視聴となりますので、あらかじめご了承ください。

▼詳細・お申し込みはこちら

https://lu.ma/hkhy9w0v

※プルデンシャル生命の社員にお知り合いがいらっしゃる方は、社員へお問い合わせいただけましたら、本イベントのクーポンコードをお知らせいたします。もちろん、プルデンシャル生命の社員にお知り合いがいらっしゃらない方も、ぜひご参加ください!


登壇者

画像1: 【お知らせ】笹川友里さんがCCOを務めるNewMe株式会社とプルデンシャル生命保険のコラボレーションイベントを開催します!

井川 沙紀(インフロレッセンス株式会社 CEO)

大手人材派遣会社、日系外食企業などを経て、2014年にブルーボトルコーヒージャパン合同会社へ広報・人事マネジャーとして入社。2015年に同社の日本代表に就任し、2018年よりアメリカ本社へ転籍。2023年に独立・起業し、ブルーボトルコーヒーのStrategic Brand Advisorとして業務を継続しながら、企業のブランディング・コミュニケーション戦略のコンサルティング、大学の特任教授(客員)など幅広く活動している。


画像2: 【お知らせ】笹川友里さんがCCOを務めるNewMe株式会社とプルデンシャル生命保険のコラボレーションイベントを開催します!

笹川 友里(NewMe株式会社 CCO)

2013年TBSテレビに新卒入社。制作ADからキャリアをスタートし、後に人事異動でアナウンサーに。2つの職種で8年間在籍し、独立。ラジオ、ファッション誌での活動の他、プロダクト開発や女性のためのサウナSaunaTherapy表参道を共同経営。2023年6月にNewMe株式会社を共同創業。

●笹川さんに出演いただいたミモザマガジンの記事はコチラです↓
「心を満たし、満たされること」が私らしい生き方。 笹川友里が、いつも仕事に全力な理由とは。

浜田 真衣(プルデンシャル生命保険株式会社 東京第九支社 営業所長)

新卒でウェブ広告会社に入社、営業職、広報職として勤務。2021年4月、プルデンシャル生命保険に転職。4年間ライフプランナーとして活動した後、2025年4月より営業管理職に就任。




■NewMe株式会社

2023年6月に創業。ミレニアル世代/ミドル~ハイキャリアの女性に向けた転職サービス「NewMe Jobs」、女性のキャリアに特化したメディア「NewMe Story」、キャリア・ライフに忙しく毎日を生き抜いているミレニアル世代の女性に向けたコンテンツを配信する「NewMe Ch/笹川友里」、様々な切り口で実施するキャリアイベント、企業向けのコンサルティング等の事業を展開。

■プルデンシャル生命保険株式会社

世界最大級の金融サービス機関、米国プルデンシャル・ファイナンシャルの一員として1987年10月に日本で設立。生命保険のプロフェッショナルであるライフプランナーを通じてオーダーメイドの生命保険を全国のお客さまに提供する。

その扉を開けると、静寂の中で時計の針が動く音がする。ここは今回のミモザなひと、独立時計師の菊野昌宏(きくのまさひろ)さんの自宅兼工房。部屋の中には色も形もさまざまな時計が置かれ、それぞれに意味を持つテンポで時を刻む。

部品・工程ごとに分業制で生産されるのが一般的な時計作りにおいて、独立時計師はそのすべてをひとりで担う。現役の職人は世界でたった40人ほど。そのうち、日本で初めてその職に就いたのが菊野さんだ。

こだわりは、ねじ、ばね1つとっても手で作りあげること。時計1本の製作にかかる時間は数年単位で、完成までのプロセスは果てしない。しかし、菊野さんはそのプロセスこそ愛おしいと語る。人生と時計作り、そのどちらにも重なるような菊野さんの哲学に迫ってみよう。



全部自分で作りたい。時計と出会って思い出した、幼い頃の情熱

画像: ▲菊野さんの作品の一部。これらはすべて試作品だという

▲菊野さんの作品の一部。これらはすべて試作品だという

――今、目の前に並んでいる美しい時計たちは、すべて菊野さんの作品ですか?

菊野:そうです。設計からはじまり、部品の製作・組み立て・磨き上げまで僕ひとりで行いました。作り手である僕と、買い手であるお客さまの理想を織り交ぜて出来上がった一点ものです。まぁ、これらは試作品なので、完成品はすでにお客さまの手元にあるのですが……。

――理想が詰まった唯一無二の作品。魅了されます。独立時計師作の時計を初めて拝見しました。

菊野:実物を見る機会はなかなかないですよね。当たり前ですが量産はできませんし、完成したらすぐにお客さまの手に渡る。時計好きの中でもディープな世界だと思います。

僕も他の独立時計師の作品に出会うと、毎回新鮮で感動しますよ。僕の場合は、感動の後に「欲しい」より「作りたい」の気持ちが湧き上がってくるので、そこはやっぱり根っから作り手なんだなと思います。

――ものづくりに興味をもったのはいつごろからですか?

菊野:物心つく前から興味を持っていたみたいですね。お気に入りのおもちゃは、積み木やレゴブロック。説明書の手順通りに作って遊ぶのも好きでしたが、僕はその手順を見ずに、完成形をみて自分のやり方で再現する遊び方が特に好きでした。手順をみて作るだけだと満足できなくて。

――そのころからずっと作ることに夢中だったのですね。

菊野:そうですね。でも、高校生になって進路を考え始めたくらいから心境に変化がありました。大人のものづくりの広大さ、複雑さを知ったんです。自動車も、身の回りの機械も……分業や機械化が進んでいて、全部を自分では作れない。でも、それじゃあおもしろくない。ものづくりへの気持ちがしぼんでいく感覚がありました。

自分がやりたいことが見つからない……そんなとき、友人が自衛隊の説明会に誘ってくれて、自衛隊の中には整備の仕事もあると知りました。それは興味があるなと。だらだら過ごしている自覚があったので、厳しい環境に身を置いてみるのはいいかもしれないとも思いました。渡りに船のような思いで入隊を決め、その後は厳しい訓練を受けながら銃などの武器整備をする毎日を送りました。

画像: 全部自分で作りたい。時計と出会って思い出した、幼い頃の情熱
――武器整備、今のお仕事からは想像できないお仕事です。ものづくりから一度心が離れかけてしまったとのことですが、その後、どのように時計と出会ったのですか?

菊野:ある日、上司が「かっこいいだろ!」と新しい腕時計を見せてくれたことがきっかけでした。その時計の値段はなんと30万円。当時、自衛隊の売店で売っている1000円のデジタル時計をしていた僕にとっては、雷が落ちるような高級時計でした。「僕の時計と上司の時計は何がそんなに違うんだろう」と気になって、時計雑誌を買って読み、小さい盤の中で複雑に歯車がかみ合って動く、いわゆる「機械式時計」というものを初めて知って。時計は電池で動くものと思っていたので、驚きました。

そして雑誌を購読するうちに、「独立時計師」の特集に出会いました。複雑で精巧な腕時計を、たったひとりで作る職人です。「なんだ、その仕事!そんなことができたら絶対に面白い」と衝撃を受けて。一方で、5年ほど続けていた武器整備の仕事には、物足りなさを感じていました。ある程度訓練した人なら誰でも整備できないといけないので、マニュアル化されていて、個人の技術に頼った調整はよしとされていなかったからです。

――手順通りにレゴを作るだけでは満足できなかった、幼少期の菊野さんと重なります。

菊野:あの頃の気持ちが再燃しましたね。自分で工夫して、何かをまるごと作ってみたい。その欲求に背を押され、自衛隊を辞めて時計作りの道を一から歩もうと決意しました。ただ残念なことに、国内には時計の作り方を教えている場所がなかったので、まずは今学べることから学ぼうと、時計修理の専門学校へ入りました。

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