──過去に縋っている。
祥子ちゃんは私の常日頃の態度をそう叱責して、「友達になろう」と言った。
意味が分からないまま、祥子ちゃんが手配した車に乗せられている。
「自分で開示しない限り、言葉にせずともわかってくれる友人や知人なんて存在しませんわ。例外は家族くらいのものでしょう」
「開いて見せるような中身なんて無いよ」
「では、中身を満たしましょう。Ave Mujicaの活動でも構いませんし、私が描く環が思わぬ気付きを生むかもしれませんわ」
私が祥子ちゃんの差し出した手を掴まない内に、祥子ちゃんは強引に私の左手を引いて車の外へ連れ出した。
祥子ちゃんが私を見ている。それが嬉しいのかしらと自問してみても、都合の良い答えは返って来ない。けれどもきっとそうなのだろう。
私の原初の願いは、祥子ちゃんに必要とされることだった。
「ね、祥子ちゃんにとって『友達』って何?」
「対等に親愛を向け合う関係のことですわ。互いを必要とし、互いを信頼することを友情と呼ぶのです」
「じゃあやっぱり、祥子ちゃんとは友達になれないよ。祥子ちゃんが私を必要とすることなんてないでしょ」
豊川邸の門の前に立つ。
なんてことのない金持ちの邸宅という様相に、祥子ちゃんが門の向こう側を睨みつけた。
「私があなたと友人になりたいと思っている、それだけで不足ですか?」
「それが憐憫でないのなら、私は何も言わないけど」
「……憐憫ではございませんわ。私も、あなたに頼りたくなる瞬間はございます」
車を邸宅の脇に駐車した運転手さんが日傘を持ってきて、門を開ける。祥子ちゃんは「ここからは私たちのみで参ります」と言って日傘を受け取った。彼は一礼してから車の方へと戻って行った。これから車庫に入れに行くんだろうか。
「では、環が持ってくださる?」
「……お嬢様気分?」
「不本意でしたら投げ捨てておいてくださいませ」
私が日傘を持たされる。日傘を相合傘するなんて、本当に馬鹿らしいと思う。くっついているから結局暑いんだもの。まあ、文字通りに日除けはできているのかもしれないけれど。
祥子ちゃんでも、己の聖域を壊すときには恐怖を覚えるのだろうか。
CRYCHICではなく、もっと深い──祥子ちゃんにとっての家族であるとか、出自であるとか、そういうものを掘り起こして、そして切り捨てる時には。
整えられた庭園を通り抜ける。アダンソンハエトリが花壇の上を駆け抜けて行った。
「そうやって日傘を受け取るところが、あなたの美徳だと思いますわ」
「……睦ちゃんなら、日傘をささないで赤く日焼けするんだもん」
「そうでしたわね。あなた達はいつも、姉妹逆のようでした」
連絡が行っていたのか、玄関の扉はひとりでに開いた。中で待っていた使用人が日傘を受け取って、私たちを奥の部屋へと案内した。
「環。もう一度私のことを、助けてくださいますか?」
本当、祥子ちゃんってひどい人間だと思う。私のことをフっておいて、こういうことを言うんだ。
祥子ちゃんが深く息を吸って、4度ノックした。男性の低い声で返事が返ってくる。白い指先がドアノブを握って押し込んだ。
「……いい加減、戻ってくる気になったか」
「いいえ、その逆ですわ。……その前に、釈明をお聞きします。三角初音の件と、Ave Mujica強制解散の件について」
「初音から聞いたのか」
「それを問う必要がございまして?」
「……初音の母親については、気の迷いだった。それ以上でも以下でもない」
豊川のお爺様──豊川定治は、聞き分けのない子どもに言って聞かせるように祥子ちゃんの問いに答えた。
祥子ちゃんが神経を逆撫でされたような心境に陥っていることが、私には手に取るようにわかった。彼が祥子ちゃんのそんな心境を察知していて、その上で取るに足らない子供の癇癪だと思っていることも。
「では、Ave Mujicaの件については」
「元よりお前と初音を近付けるつもりはなかった。理由はわかるだろう」
「だとすれば遅きに失したことになりますわね。……取り下げてくださいますか? 大変迷惑を被っておりますの」
「──祥子。下らない遊びはいい加減にしないか。タレント気取りとつるんでいないで、将来豊川グループの重席に座るものとしての勉学に努めるべきだろう」
「勘違いなさっていらっしゃいますのね。お爺様がお父様を追放なさったあの日から、私に豊川家を継ぐ気はございませんわ」
「祥子」
「語気を強めれば私が萎縮するとでも? それとも、今度はお母様の名前をお使いになりますか? ……もううんざりです、お爺様。ご理解頂けていないようですから、教えて差し上げます」
祥子ちゃんの右手が微かに震えていることに気が付いた。やり取りに口を挟むことができないまま、祥子ちゃんの手を握る。
「私が我儘を言っているのではございません。お爺様が私に愛想を尽かされたのですわ。初音のことも、お父様への態度も、この度のことも。私が豊川を捨てるのです」
「どうやって暮らしていくつもりだ。世間はそう甘くはない」
「身一つでどうにでもなりますわ。助けてくださる友人もいます。お爺様が余計なことをなさらなければ、私は今頃メジャーバンドのプロデューサーでしたのに」
「お前は豊川の恐ろしさを知らないから──」
「──怯えているのはお爺様の方でしょう! ……お爺様の事情は存じ上げません。見えない敵に怯えているのはご勝手になされば構いませんが、巻き込まれるのは御免です」
平行線だ。豊川のお爺様に譲るつもりがない以上、祥子ちゃんがいくら言葉で追い詰めても意味が無い。
祥子ちゃんの言葉に面食らったように僅かな沈黙を零したお爺様の間隙を突いて、私が口を挟んだ。祥子ちゃんの手をぐいと引いて前へ出る。
「豊川のお爺様。Ave Mujicaの凍結を解除してくださいませんか? 祥子ちゃんが全て知ってしまった以上、もう意味はないでしょう? むしろ、外部から訝られる原因になりかねないと思いますけれど」
「ふん。熱心なことだ」
「初音ちゃんのことも穏便に済ませられるかもしれませんよ? 貴方なら、東京から追放して見て見ぬふりだってできるのかもしれませんが……」
もういい、と彼が顔を背けた。椅子に背を持たれて、話は終わったとばかりに手を振る。
「好きにしなさい。ただし、二度とこの家の敷居を跨ぐことは許さん」
「望むところですわ」
売り言葉に買い言葉とばかりに、あっさりと豊川家と祥子ちゃんの絶縁は果たされた。一体どれほど深く切創が引かれたのかは私には分からないけれど、どうあっても祥子ちゃんはブレないだろう。
「さようなら、お爺様」
……私のために、祥子ちゃんは全てを捨ててしまった。本人が望んでいたことだったとしても、祥子ちゃんの身体から切り離されたものの重みを、価値を考えてしまえば、知らないふりをすることはできない。
日本で有数の事業家の家系も、家族との思い出の家も、祥子ちゃんからは切り離されてしまった。
祥子ちゃんに手を引かれるまま、豊川邸を逆再生で離れる。行きとおなじ運転手に車を出すことを提案されて断った祥子ちゃんと、駅までの道を歩く。高級品らしい日傘ももう手元には戻らなかった。建物の東側に沿って足を前に踏み出した。
しばらく歩いたところで、祥子ちゃんが泣いていることに気が付いた。
手を握ったまま、じっとりと汗をかく。
震える左手と、押し殺された嗚咽と、伏せられた横顔と。私はどうすれば良いのか全くわからないまま、無言で歩いた。
何も声をかけられないから、私はCRYCHICになれなかったのだ、と思った。
祥子ちゃんを支えることを選んだ睦ちゃんと、祥子ちゃんに何もかもを捨てさせた私。ほら、こんなにも違う。
「祥子ちゃんはさ。あの日、私の差し出した傘を受け取ったこと、後悔してる?」
「……い、いいえ」
「私はね、ずっと後悔してる。CRYCHICが無くなって、それでも祥子ちゃん以外のメンバーがまだ音楽をやっていたら、きっと祥子ちゃんはまたバンドを作ってた。祥子ちゃんがお金を稼ぐための、生きていくためのバンドを。そうなればよかったのに、って」
「そうなれば、環と初音は誘っていたでしょうね。……ですが、環と友達になれていたかは分かりませんわ」
「……祥子ちゃんと私は『お友達』?」
「あとは環が決めるだけですわ」
「そっか」
オブリビオニスが求めるモーティスにはなれないまま、若葉環は今日も浮かんでいる。神さまはいない。私の心に光在らしめた祥子ちゃんは、もう私の記憶の中にしか存在しないのだから。
……捨てさせたのだと思うことすら傲慢なのかもしれない。祥子ちゃんの中では、切るべくして切れた縁なのだと思う。
祥子ちゃんにとってのそれが訣別なのか、前進なのか、それとも身辺整理なのかは、私には区別がつかないけれど。
祥子ちゃんの左手と、私の右手の境界が溶けていく。体温を移しあって、祥子ちゃんの温かい手と私の低い体温の切れ目が分からなくなる。
分水嶺なのだ、とわかった。私が神さまとしての祥子ちゃんを望めるのは、この一回きりだ。祥子ちゃんが伸ばしてくれた手を振り払って、あくまで私にとっての祥子ちゃんはオブリビオニスなのだと言い張れるのは、これが最後だ。
……と言ったって、答えは決まっているんだけど。
「祥子ちゃん。私とお友達にならない?」
「ええ、喜んで」
少し腫れた目で、祥子ちゃんはふわりと笑った。
「Ave Mujicaも続けてくれる?」
「勿論ですわ。むしろ、除け者にされては困ります。Ave Mujicaの収益だって今後の生活のための計算に入れていますのに」
「えー、でもあの事務所でやり直せるかはわかんないよ?」
「問題ありませんわ。お爺様は約束を守る方ですし、事務所としても環の人気を切り捨てるのは惜しいでしょうから、必ず譲歩してくださいますわ」
「そういうもの? じゃあ、海鈴ちゃんとにゃむちゃんを呼び戻すところからかなぁ。……初華ちゃんは地元に帰っちゃったりしないよね?」
「そこは環の言葉次第でしょう。腹を括ってくださいませ」
「うぇぇ、そういうの苦手なんだけど……ほら、私にカリスマとかあると思う?」
「カリスマも必要かもしれませんが、重要なのは誠意ではなくて?」
手を離さないまま歩いてる私たちは奇特な目で見られた。そんな視線を無視したまま、左手でスマホを取り出す。
「あ、もしもし、にゃむちゃん?」
『なに、忙しいんだけど』
「今日は忙しくないでしょ。──Ave Mujica、復活させることにしたから」
『ハァ?』
「にゃむちゃんは付き合ってくれる?」
『何のつもり? 女優も辞める気だったクセして』
「女優は……たぶん辞めるけどね。私、あの仕事ぜんぜん好きじゃないみたい」
『あっそ』
「ああでも、にゃむちゃんとの舞台はちゃんとやるから安心してね。叩き潰してあげる」
『は、ムジカの戯曲じゃサボってたくせに良く言うわ。……本気でやんなよ。手ぇ抜いたらぶっ飛ばしてやるから』
ぶつりと通話が切られて、首を傾げる。
「これって、頷いてくれたんだと思う?」
祥子ちゃんに問いかけると苦笑が返ってくる。
「どうしてそう、祐天寺さんに対しては喧嘩腰ですの?」
「にゃむちゃんが煽ってくるんだもん」
「相性がいいのやら悪いのやら……とりあえず祐天寺さんに関しては大丈夫ですわね。環が誠実に向き合えば、ですけれど」
「最後の舞台だもん。ちゃんとやるよ」
「……最後と言われると惜しく思えてしまいますわ」
「祥子ちゃんは私を好き勝手使えるでしょ?」
「そういうことではございませんわ。それに、脚本を考えるのも大変ですのよ」
駅に着いて、改札を通る時に手が離れる。繋ぎ直すこともせず、祥子ちゃんの体温が消えた右手をふらふらと彷徨わせる。
女優が好きじゃない、という言葉が飛び出たことに自分でも驚いていた。今の私のお芝居は睦ちゃんよりも真に迫ってはいないし、芝居が上手くても愛されたりはしないことを私たちは知っている。才能があっても、無形の大衆に囃されても、私たちの芝居は、持たざる者が月を欲しがって泣いているだけ。
「話は変わりますが、環は家を出るつもりはございませんの?」
「ん、考えたことなかった。でも、睦ちゃんも初華ちゃんもいるし……」
「私は算段が立ち次第家を出るつもりですわ。……それでも、もし良ければなのですが、環も睦も初華も、共同で部屋を借りられないかと思って」
「一緒に寝てくれるならいいよ」
「……もしかして、睦や初華と一緒に寝ているんですの?」
「初華ちゃんと一緒に寝てる」
イメージには合っているかも、という祥子ちゃんの絞り出したような言葉が面白くって、思い切り笑った。
「みんなで一緒に寝ようね」
「シェアハウスとはそういうものではございませんわ」