生とは何か。死とは何か。家族とは何か。友情とは何か。
人生とは、何か。
CRYCHICが解散してから、父親が豊川家から絶縁されてから──遡れば母親が早逝してから、祥子は自己の人生観について思考を巡らせるようになった。
夢から覚めるように、祥子にとっての『子どもの時間』は終わりを告げた。
人は死ぬ。人は破滅する。家族は容易くバラバラになり、友情はあっさりと破綻する。
若葉環と話すようになったのは、そんな折だった。
直近の苦い記憶を回顧する。
最も尊んでいたはずの陽だまりを切り捨てたあの日を、祥子は鮮明に思い出せる。
怯え、俯く燈の表情。憤慨する立希。当惑し、なんとか宥めようとするそよ。顔を見せない睦。
視界に焼き付いて離れない、祥子の罪だった。
涙を流したのは、母の葬儀以来だった。
積み上げても積み上げても、幸福は濁流に押し流されていく。
母との思い出も、父との誓いも、CRYCHICという陽だまりも、祥子の手のひらから零れ落ちてゆく。
土砂降りの中を、傘もささずにスタジオから抜け出した先に、環が立っていた。
親友である睦とよく似た顔立ちで、全く似ない表情で。
彼女は黙って、祥子に傘を差し出した。
それまでの祥子にとって環は、
他人に差し出された傘に絆されるほど、もう祥子は純粋ではなかった。ただ、事情を知っている環がそよの傍にいることに安堵した。
環に再会したのは一ヶ月以上経ってからだった。
『CRYCHICを再結成することになりましたの』
そう告げた時、初めて環の表情が解けた。
CRYCHICの復活にあたって陰に環の貢献があったことをそよから聞き及んで、彼女を呼び出した放課後。
『──祥子ちゃん、私とバンドやろうよ。……なんて、嘘。忘れて』
感謝の言葉を跳ね除けた環の表情は、母親を喪った日の祥子によく似ていた。
それから、環の仲介で昔馴染みと出会った。ひと夏の長期休暇、小豆島で毎日のように遊んだ初華との再会。喜ばしいものではあったが、同時に知りたくなかった部分までも知ることになった。祖父の落胤である初音の存在は、祥子にとって青天の霹靂だった。
祖父への二度目の失望。幼時の思い出さえ穢されていくような不快感。
環から「参考資料」として送られてきた音源を聴きながら、祥子はAve Mujicaのステージを脳内に作り上げていく。仮面バンドという指定も、インスピレーションを刺激するのに都合が良かった。
仮面が持つ匿名性も、能に代表されるような表現としての役割も、そして、若葉環という天性の女優を恣に操れるという高揚も、祥子に前を向かせるには充分だった。
夢から覚めてゆく。
スモールワールドを飛び出して、冷たい現実を踏みしめる。
地に足をつければ、無限の世界が広がっている。
CRYCHICで描くものが小さな世界の残滓だとするならば、Ave Mujicaではそれ以外の全てを描ける。遥か未来の夢も、冷たい現実も、美しすぎる理想も。
「……祥。環に、何か、した?」
「いいえ。睦が知っている以上の関わりはございませんわ」
「じゃあ、どうして環は……」
Ave Mujicaの初公演の後、睦の呼び出しに応じた祥子は、ダージリンに口をつけながら睦の真意に思考をめぐらせた。
環をキーボードに据え、戯曲の主人公として「モーティス」を演じさせた結果として、現状Ave Mujicaは些か過剰に思えるほどに評価されている。
誰かを真似ることに関して狂気的に思えるほどの才能を備えた環は、「キーボードを弾く祥子の模倣」を通してキーボードを覚えた。祥子がコツや理論を教え込んだ部分はあったにせよ、祥子をして異常に思える才能の限りを尽くして作り上げた舞台は、しかし存外、環の独壇場にならない程度にバランスを保っていた。
バンドの顔であるギターボーカルの初華は演奏も歌唱も高レベルに纏まっており、ベースの海鈴はプロのスタジオミュージシャンとして食っていけるくらいの技術水準。単なる演奏技術では遅れを取るであろう若麦もパフォーマンスを挟む程度の余裕と「見栄」を保っており、環が急拵えで集めたようにも見えたメンツは、各々が存在感を保っていた。
祥子がキーボードとして参加していないことを除けば、環の望むままに事態が進行しているはずだった。
環が何故自身に拘るのか、祥子には分からない。CRYCHICや睦のことを意識しているのかと考えるも、どうにもそうではないような予感があった。
祥子にそう思わせるのは、CRYCHICを再結成した日の、あの環の表情だった。
記憶を掘り返せば、祥子と出会ってすぐの頃の睦は今よりも笑う子だったし、多少饒舌だったし、悪戯を仕掛けることさえあった。前を歩く祥子の背中をつつくような慎ましい悪戯は、記憶の混同でなければ睦がやったものだったはずだ。今では、アレは環の真似をしていたか、影響を受けていたのだろうと考えられるが、であれば、睦が大人しく自己主張をしない性格に至ったのは何故か、というところにまで思考が及ぶ。
CRYCHICでギターを弾くことさえ精神的なプレッシャーに感じてしまうような睦になったのは、そして環がしきりに「睦ちゃんのことをちゃんと見てあげてよ」と言う理由は──
考える。友情とは何か。
首を傾ける度に違う色の世界を映し出す万華鏡のような眼も、色鮮やかなビー玉の瞳も喪った祥子は、ただ磨かれた屈折率の低いレンズで、周囲の現実を振り返った。
睦は、祥子にとって一番の親友である。
小学生の時分に出会い、今日までずっと一緒に生きて来たと言っても過言ではない。
これといって、睦が引っ込み思案になったきっかけは思い当たらなかった。強いて言うならば、ギターを弾き始めたことで一人で完結できる趣味を見つけたくらいだろう。
環に手を引かれてクラスメイトにおずおずと話しかける睦を見ることが減った。友人に囲まれて笑う環を寂しそうに見つめる睦を見ることも無くなった。睦は祥子の隣にいて、ギターを抱きしめている。
「睦は、家で環と話しませんの?」
「……今は、話さない」
家族とは何か、考える。
祥子にとっては母も父も立派な人間で、何より真っ直ぐに祥子へ向き合ってくれる人達だった。
では、若葉家はどうか。祥子はほとんど睦と環の父親と話したことはなかったが、彼女達の母親──森みなみのことはそれなりに知っている。
授業参観の主役になるような人だ、と祥子の記憶には焼き付いていた。
自己の人格形成に、両親との暮らしが多大なる影響を及ぼしていることは自明だ。曲がりなりにも祥子が道を踏み外さずに生きられているのは、両親のお陰だと自認していた。
だとするならば、尊重されずに育った子供は、どうなるのだろう。愛を求めて酸欠の魚のように水面に浮かぶか、貝殻に閉じこもり泥濘に潜る他はないのかもしれない。
睦が殻の中に閉じ篭っていったように、環はきっと、ステージの上で光を探していた。
「睦、決めましたわ」
「……何を?」
「私は、環とお友達になります」
「……! 友達じゃ、なかったの?」
「力が抜けますわね……」
睦も環も、きっと愛情を探している。
友情とは何か。
祥子にとって、それは『対等な親愛を向け合う関係』である。
翻って、祥子と環の関係は対等ではなかった。祥子は環を尊重していたが、環は自己を価値あるものとは見なさず、祥子によって与えられる言葉に拘泥し、跪いた。
彼女自身が苦心して作り上げたはずのAve Mujicaさえ祥子に全てを差し出そうとしたほどだ。
環の態度は『信頼』に類似していたが、少なくとも祥子がそれを信頼と受け取るにはあまりにも盲目的で、信頼関係を築くに値する前提や土台を投げ出していた。
祥子の定義においては、環が祥子に向ける感情は友情よりも、母親へ向けるべきそれに近かった。
Ave Mujicaの解散後、祥子は初華と共に事務所を訪れていた。契約を更新することにしたらしい初華の面談に同席するためだった。
実質的な権力は無に等しいが、事務所の社員にとって祥子は、グループの会長の孫娘である。無礼をはたらけるわけもなければ、その知己に不誠実な対応を取るわけにもいかない。同席する意義はあるのだろう、というのが祥子の認識で、それ故にすすんでこの場を訪れていた。
祥子は初音の事情を環よりも先に知っていたし、Ave Mujicaが解散させられるにあたって出張ってきたはずの祖父の動機の一つには、祖父の手を振り払って父親と暮らす祥子への妨害の意図が込められていただろうことも想像に難くなかった。つまり、Ave Mujicaが解散させられた原因の何割かは祥子に起因するものである、という認識が彼女には存在した。
畢竟、祥子のこの行動は、罪滅ぼしに近い。
若麦が事務所に残ることは予想通りだったが、初華が残るつもりでいたのには驚いた。初音のことがあるとは言え、一人で残ることを選ぶようには見えなかった。
事務所に籍を置きながら、ソロで活動を続ける契約を結んで、初華は面談を終えた。
「祥ちゃんはこのあと環ちゃんと話すんだよね?」
「ええ。初華はどういたしますの?」
「私は、初音と話してくるよ。──祥ちゃん、私、本当は逃げてたんだ。環ちゃんがすべて私を導いてくれると思ってた。この事務所に入った時点で、私は初音の手を掴むことができたのにね」
「……では、お二人の関係の着地点が良いものであるように祈っておきますわね」
「うん。きっと、大丈夫。私たちは対等な姉妹だから」
初音と話す、と言って離れていく初華の背中を見送った。
痛みを伴うだろう話し合いに、祥子も環も割り込むことは出来なかった。
初音に根回しをすることもできなければ、対話の場を設けることもできなかった祥子には、果報を祈ることくらいしかできない。
エレベーターに消えていく背中が見えなくなったタイミングで、背後から声をかけられた。振り返ると、今まさに合流しようとしていた環の姿が。
「初華ちゃんはたぶん大丈夫だよ」
「……何か根拠はおありですの?」
「初音ちゃんに謝られたからね。……ほんと、ヤになっちゃう」
睦によく似た顔立ちで、けれど睦にはまるで似ない表情の『友人未満』を見つめる。すっかり諦めてしまったらしい彼女は、もう祥子に勧誘の言葉を掛けたりはしない。
「祐天寺さんとの話し合いは終わりましたの?」
「うん。ワークショップを紹介して、ついでににゃむちゃんと同じオーディションに出ることになったけど……安く済んだ方かな」
「……役者も辞めてしまいますのね」
「誰にも手繰って貰えない人形は、死んだ方がマシなんだよ?」
人形。環はよくこの言葉を口にする。
これまでのやり取りの中で、祥子は言葉に込められた自罰的で自虐的な意味を概ね把握していた。空っぽな人形。あるいは、人間モドキ。
若葉環は知らないのだ。愛されることも、認められることも、友愛も、家族愛も、信頼も。
場所を変えるために事務所を出た。どこもかしこも人間に溢れたコンクリートのジャングルを、車を呼び付けて走り抜ける。人工皮革のシートに身体を預けて、ワンピースを着た環が「何のつもり?」と問いを投げた。
「どうして
「やだ」
「……環。あなたのことを私よりもよく見ている人は幾らでもいるでしょう。睦も初華も、あなたのファンやご友人、そよだって、あなたに向き合っていますわ」
「私に寄りかかってる人に何がわかるの? 匿名で好き勝手言うだけの人達が、私の何を見てるの? そよちゃん達は優しいかもしれないけど、私を人間にはしてくれない」
「……では、言いますが。環。私は貴方の母親でも、まして神様でもございませんわ。私に縋るのもいい加減にしてくださいませ」
とうとう核心的な言葉を投げつけて、祥子は環の反応を窺った。
きょとん、と面食らった表情をした環は、次第に言葉の意味を飲み込んで、それから心底おかしそうに笑った。
「あははっ、そうだよね。私の
渋滞に捕まって、車が緩やかに停止する。
「……私に、人形を人間に変える魔法は使えませんわ。あくまで、人形は己の意志によってのみヒトになるのです」
「過去に縋ってるって言いたいの? ……ま、そうかもね。若葉環になっても、私はずっと睦ちゃんのモーティスのまま」
退屈そうに毛先を巻き付けた指先が踊る。
「小学生の頃、環が睦に『友達の作り方』を教えていたこと、覚えていますか?」
「……覚えてるけど」
「では、心配ございませんわね。環、私とお友達になってくださいませ」
「はぁ? ……何のつもり?」
「貴方が自身を空っぽだと言うのであれば、私が貴方の中身を書き上げてみせますわ。私が与えるのではなく、貴方自身が本物になるのです。……異論は認めませんわ。Ave Mujicaのために何でもすると言ったのは貴方なのですから」
「Ave Mujicaはなくなったよ」
「ですから、今から取り返しに行きます。……そういえば、貴方からお借りした参考資料にもございましたわね。権力に中指を立てるのもロックン・ロールなのでしょう?」