『Ave Mujicaプロジェクトを凍結する』。青天の霹靂に、それでもどこか諦念を覚えてしまったのは、こんな幸運が長続きするわけはないと覚悟していたからだと思う。
Ave Mujicaとして仮面を付けて立ったステージは、ほんの少しだけ物足りなくて、思っていたよりもずっと、私の心を慰めた。戯曲……演劇にはあまり関心がなかったから、祥ちゃんに合格を貰うのには苦労したけれど、その苦労が報われるくらいには幸福を感じていた。
祥ちゃんが作った曲を歌う。私の心を掠める歌詞を、そして、環ちゃんの心を捕らえる歌を歌う。
アイドルになりたい、という子どもの頃の夢を思い出す。バンドのボーカルでしかも仮面をつけた状態の今、夢を叶えたと言うつもりはないけれど、憧れていた舞台に立っていることは確かだ。
観客一人一人の表情が見えた。私の歌で、私たちの演奏で、Ave Mujicaの曲で、心底楽しそうに心を動かされている人達がいる。これ以上の幸福はない、と思った。初音のことさえ忘れて、私の心はふわふわと浮かんでいた。
終劇に、環ちゃんが仮面を外して客席に放り投げた。変なことに使われないかな、と的はずれな心配が
私も仮面を外して、ドロリスとしての時間が終わる。
初音とよく似た顔を晒して、言葉を連ねる。過去が追いかけてきた、だなんて言葉を選んだ理由の半分は自嘲のためだった。
見下ろした環ちゃんと目が合った。
夢見心地で、だからやっぱり、夢から覚めてしまったんだと思う。
「凍結──って、Ave Mujicaは……」
「おしまいってことでしょ。社長の決定ってことは、もっと上から降りてきたんじゃない? ……それとも、初華が仮面を外したから?」
「そんなことは……」
「ないって言えんの? Sumimiのウイカとどっちがどっちなのか知らないけどさ、今1番らしい理由はそれしかないんだけど?」
呼び出しを受けた夜、環ちゃんはほとんど口をきかなかった。ずっと思考に耽っている様子で、けれどそこから活力みたいなものは感じ取れない。事務所を押しのけて強引にAve Mujicaを続ける、みたいな状況には進みそうになかった。だから私に「ごめんね」なんて言葉をかけたんだろう。
若麦ちゃんが苛立った様子で私と環ちゃんを見る。彼女の言うことはまさにその通りで、一番それらしい理由を挙げるとしたら私と初音が衝突してしまうことにあるのだろう。まして、初音の父親は──
「タマが仮面に拘ってたのって、実際のところ『これ』なんでしょ。音楽だけで評価されるべきなんてくだらない嘘を吐いて、私達に何を秘密にしてるのか教えてくれない?」
若麦ちゃんが環ちゃんに詰め寄る。環ちゃんはなにか言おうとして、掠れた声で僅かに呻いた。
「……前はこんなことなかったのに」
ぽつりと環ちゃんの言葉が零れる。その意味を上手く飲み込めないまま、私は己の過ちを回顧する。
初音の父親のことを、私は環ちゃんに話していなかった。それは環ちゃんが私に踏み込むことを望まなかったからだけれど、それでも私が話していれば、環ちゃんは上手くやれたかもしれない。
「若麦ちゃん。Sumimiのウイカは、私の姉なんだ。前に仲違いしちゃって、それから私の名前を使ってアイドルをやってるの。環ちゃんには、私が初音と話せるように協力してもらってた」
「ふーん。で、向こうに潰されたってわけ?」
「いいえ、初華ではなく、この会社の上層部の事情ですわ」
若麦ちゃんに初音の父親のことは話せないし、せいぜい伝えられるのはこれくらいだった。環ちゃんの予定ではきっと、Ave MujicaとSumimiが両方活動していくにあたって、私と初音が出会すことは避けられないだろうという考えだったはずで、第三者を巻き込んで私と初音の話し合いの場を設けることだって可能だったはずだ。それが狂ってしまったのはやっぱり、初音の父親が豊川定治であると知らないから。
その辺の事情を汲み取ってくれた祥ちゃんが話題を切り上げたところで、事務所の社長がミーティングルームを訪れた。
「えー、突然の方針転換ということで、皆さんには私から説明します。……と言っても、経営上の判断、ということになりますので、皆さんには詳細をお伝えすることはできません。ご了承ください。本日をもって、当社での『Ave Mujicaプロジェクト』は凍結となります。なお今後、楽曲の著作権等の取り扱いはこれまでに締結した契約に則りますが、皆さんと当社の契約に関しては取り急ぎ調整する用意があります。今後の対応についても協議させてください」
社長はあくまで事務的な態度で私たちに告げる。彼女が環ちゃんに向ける視線には同情のようなものが混ざっていたような気がするけれど、私にはそれ以上うかがい知れなかった。
SNSなんかの公式の声明に関して私たちに責がないことを明記するだとか、今後の活動に関して私たちに負債が行かないようにするような対応を祥ちゃんが求めて、その殆どを社長は受諾した。ファンクラブやその他決まっていた仕事の違約金なんかも発生するし、それを請求されると破産どころでは済まないかもしれない。
「若葉さんも、構いませんね」
「……契約更新の交渉の際、本人が望めば祥子ちゃんが同席することを認めて頂けますか」
「……それは、どのような意図で?」
「特に。対等な交渉を望むだけです」
「わかりました。面談者が望むのであれば、そして豊川さんが許すのであればそのように取り計らいましょう」
「……構いませんわ」
祥ちゃんと社長のやり取りにほとんど口を挟まなかった環ちゃんが最後にそれだけを求めて、祥ちゃんが頷いた。環ちゃんはずっと心神喪失に近いようなアパシーに陥っていた。
「タマ、アンタそれでいいの? 本気だってのは、口先だけだったワケ?」
「本気だったよ。本気でやって、負けただけ。にゃむちゃんとの約束は守るから、心配しないで」
「そうじゃなくてアンタは──……もうよか、勝手にせんね!」
口調は尖っていたけれど、若麦ちゃんは環ちゃんのことを随分気にかけているように見える。こういうところを見ると、環ちゃんは人たらしだと思う。本人が思うよりずっと、リーダーに向いているように思えた。
「その調整面談というのは、即日組んで頂けるんでしょうか」
「ええ。可能な限り皆さんを優先するようにします」
「ではできる限り早くお願いします。可能なら今すぐにでも」
「わかりました。では……そうですね、30分後に開始できるようにスタッフを呼んでおきます。……豊川さんは──」
「豊川さんは結構です。跡を濁すつもりもありませんから、すぐに終わります」
海鈴ちゃんがもう用はないとばかりに切り上げて、会議室を出ていった。それに続いて、社長と秘書も部屋を後にする。
「私は残る。お嬢様は協力してくれんの?」
「構いませんわ。……私が圧力になるとも思えませんが」
「ま、みすみす潰されてるワケだしねぇ」
私はどうするべきだろう、と考えた。
……初音のことを諦めたくない。
今回のことが初音の差し金だとすれば、この事務所に居たって初音と話すことは難しいだろう。けれど、廊下で初音を無理やりに捕まえることだってできるかもしれない。強引に話しかけても拒絶されるのなら、もう──
と、考えている内に環ちゃんが席を立った。
「……帰る。祥子ちゃん、にゃむちゃんと初華ちゃんのことお願い」
「承知しましたわ」
「アンタ、辞める気じゃないよね」
「わかんない」
小さな背中が、扉の向こうへ消える。若麦ちゃんがため息と共に背もたれに身体を預けた。
「追っかけてあげないんだ」
「飼えない野良猫に餌をやるのは罪でしょう?」
「あっちは飼って欲しそうにしてたけど」
「私は環と友人で在りたいのです」
「冷たーい」
言いながら、祥ちゃんは葛藤に襲われているようだった。
扉に視線を向けて、それから背ける。
「結局、どうして私たちが潰されたのか教えてくれない?」
「脅すつもりはございませんが、最低でも二度と芸能界で生きていけなくなるくらいの覚悟はお持ちでして?」
「じゃあいいや。……タマは知ってんの?」
祥ちゃんが私を見る。
私は首を横に振った。若麦ちゃんが吐き捨てるように笑う。
「ふぅん。かわいそ」
気付けば私は席を立っていた。
扉を開けて、環ちゃんを追いかける。事務所のエレベーターがじれったくて、従業員しか使わない階段を駆け降りる。
ふらふらと自失のまま歩いていた環ちゃんに、すぐに追いついた。
「初華ちゃん。前は訊かなかったけど、訊いてもいい?」
「う、うん……」
「私たちはどうして、初音ちゃんに負けたんだと思う?」
「……初音が、豊川貞治さんの娘だから」
「そっかぁ。最初からぜーんぶ間違ってたんだ。ほんと、馬鹿みたい」
どんな言葉をかければ良いのか迷って、結局浮かんでこなかった。軽率に吐いた言葉が、大切な人を酷く傷つけることを知ってしまって、私はすっかり臆病になった。
「ね、初華ちゃん。事務所、辞めない方がいいよ。初華ちゃんには才能があると思うし……立ち止まるとすぐに腐っちゃうから」
環ちゃんはそれだけ言って、口を噤んだ。
私は頷いてそれっきり。
若葉家に帰っても、重苦しい空気はそのままだった。環ちゃんはさっさと夕食を摂って自室に籠ってしまって、私は与えられた部屋で居た堪れずギターを触っていた。
立ち止まると腐る。
環ちゃんの言葉が、緩やかに私の背中を押していた。環ちゃんを抱き締めて眠ってしまえばと思うのに、意に反してギターに向き合っている。
Ave Mujicaの曲。Sumimiの曲。パパ──お父さんが教えてくれた曲。初音が好きだった曲。私が好きだった曲。今では聴かなくなった曲。
お手洗いに立つと、環ちゃんの部屋の前に睦ちゃんが座っていた。当たり前のように目が合う。……少しだけ、睦ちゃんは苦手だ。寡黙で無表情な睦ちゃんには、私の全てが見透かされているような気がする。
「初華、教えて。環のこと」
感情が読み取れない無機質な瞳に気圧されて、私は頷いた。
睦ちゃんは一度環ちゃんの部屋の方に視線を向けてから、地下のスタジオの方へと歩いて行ってしまった。
私は初音の出自を除いて、ほとんど洗いざらいを話してしまった。
話す内、私がどれほど環ちゃんに寄りかかっていたかという現実に改めて気付かされる。祥ちゃんは対等な友人であるために手を差し伸べないと言っていたけれど、逆に、守られるばかりだった私にも環ちゃんの友人たる資格はないと言われているのと同義だった。
「そう」
睦ちゃんの反応はそれだけだった。
「睦ちゃんは、どうして環ちゃんが祥ちゃんにこだわるのか知ってる?」
「
睦ちゃんがスツールに腰掛ける。視線で別のスツールを指し示されて、私も座った。環ちゃんとそっくりで、不思議なくらいに違う雰囲気を纏った彼女が私を見つめている。鏡写しのような二人は、決して仲が悪いようには見えないのに、どことなく距離を置いていた。
「環は、Ave Mujicaに向いてない。きっとまた削れていく」
発言の内容からして、睦ちゃんは環ちゃんの芸能活動に肯定的ではないらしい。その理由は、私にも何となくわかる。みなみさんの発言もそうだし、環ちゃん自身の口ぶりからしても、子役やバンドそのものを楽しんでいるわけではないことが容易に察せられた。
環ちゃんの容姿や能力は芸能活動にこれ以上ないくらい適していると思うけれど、それ以上にストレスが大きい仕事だということをこの数ヶ月で嫌というほど実感した。即日の発表で大荒れしているAve MujicaのSNSを覗けば、罵詈雑言が飛び交っている。
「……スタジオ、使ってもいい」
それだけ言い残して、睦ちゃんが階段を上がって行く。
ずっと警戒されているような感覚があったけど、それが和らいだような感覚。環ちゃんが傷付く要因の一つは間違いなく私であるのに、睦ちゃんは果たしてどんな捉え方をしたんだろう。
睦ちゃんへの印象が、少しだけ変わった。
年齢差がない双子であっても、睦ちゃんが姉で、環ちゃんが妹なんだと思った。少しだけ眩しい。
スタジオを一周して、飾ってある表彰状やトロフィー、アンプやアップライトピアノを眺める。睦ちゃんに許されたとしても、私はここを使う気にならないだろうな、と考える。睦ちゃんの信頼に報いられるような人間じゃない。
自室に戻る道すがら、またもや環ちゃんの部屋の前に座り込んでいる睦ちゃんと目が合う。隣に座ってしまおうか迷って、結局断念する。
初音との蟠りに決着を付けない限り、環ちゃんに寄り掛かり続けることになる。明日、絶対に初音と話す。祥ちゃんを巻き込んだって構わない。腹に決めて、ベッドに飛び込んだ。