祥子ちゃんは、心の底から笑顔だった。それこそ、私がAve Mujicaの時に見たことがないくらい。睦ちゃんの視線を通して見ていた時にしか、覚えがない。
心臓が跳ねる。
祥子ちゃんの言葉の重みが、否応なしに伝わってくる。
「CRYCHICをやり直すって……?」
「えぇ」
「お
「アルバイトはいたしますけれど……」
ぐるぐると思考が回る。
何を失敗した?
何を間違えた?
だって、睦ちゃんがどうやったって、そよちゃんがどうやったって、CRYCHICは復活しなかったのに。
祥子ちゃんがCRYCHICをやり直そうとしたのだって、睦ちゃんが壊れてしまったから仕方なく──
「そ、それならっ、バンドで稼ごうとは思わない?」
「それはメジャーデビューするという意味?」
「うん、祥子ちゃんなら、そういう人達を連れてくることだって──」
「買いかぶりですわ。それに、金銭的に困窮しているのは確かですが、食うに困るわけではありませんもの」
目の前が真っ暗になる、という言葉の意味がわかった。思考がピタリと止まって、自分が何を見ているのか分からなくなる。考えているようで、堂々巡りの暗闇に放り出されてしまった。
「それよりも、環、貴方に改めて感謝させてください」
「──いらない」
「……環?」
「私は、そういうのじゃない」
どうしたらいい?
どうすればいい?
どうすれば、祥子ちゃんがCRYCHICを諦めてくれるかを考えている。
どうしたら、CRYCHICを壊してしまえるだろうと考えている。
睦ちゃんがAve Mujicaに選ばれたって構わなかった。睦ちゃんと上手く代わってあげられる自信があったし、絶対に前よりも上手くやれた。
なのに、なのに、なのに。
Ave Mujicaが生まれないなんて聞いてない!
「──祥子ちゃん、私とバンドやろうよ」
私の
焦りが、私の操作を誤らせる。
「嘘、忘れて」
お芝居の練習をしていてよかった。
みなみちゃんに感謝しなくちゃ。
「とにかく、おめでとう。睦ちゃんをよろしくね」
CRYCHICを壊す算段を立てている。
きっと難しいだろうな。
そよちゃんを裏切ることも、睦ちゃんを害することも、私にはできそうもない。
それを許したとして、祥子ちゃんがそう簡単に折れるとも思えないし、Ave Mujicaを作る方向へ持っていくにはどうすれば良いのか、見当もつかない。
「環!」
「なに」
「……受け取って頂かなくても構いません。ですが、私が感謝しているということだけ、伝えておきます。貴方が──」
踵を返す。最後まで聞き届けることはしなかった。
結局、また私は選ばれなかったんだ。
睦ちゃんにはギターがあった。CRYCHICも、今の睦ちゃんに寄り添ってくれる。
じゃあ、私には、結局何が残っているの? お人形さんでなくなった私を、誰が必要としてくれるのだろう。
祥子ちゃんに名前を付けられて大きくなった
走り出さなくても、祥子ちゃんは追いかけて来なかった。
早歩きで上がった息を整えながら、駅の方へ歩く。
真っ直ぐに家に帰るべきだと分かっているのに、睦ちゃんに出くわすのが億劫だった。
環ちゃんだ、とすれ違う人達の声が聞こえる。普段通りこっそりと目を合わせてウィンクでも送れば、うん、ちゃんと私の思うままに私の身体は言うことを聞く。
環ちゃん、環ちゃん、環ちゃん。誰一人
「若葉環ちゃん、だよね?」
「うん。さっきからついてきてる貴方は──」
あの、と声を掛けられた。何処かで聞いたことがある声だ、と思いながら振り返る。しばらく同じ足音がついてきているのは分かっていたから、少し警戒していた。
「え?」
違和感と驚愕が同時に押し寄せる。
「初めまして、私は三角初華。すこし、お話できないかな」
Sumimiの初華だ、と通行人が写真を撮った。それに気まずい表情をして、“初華ちゃん”がマスクをつける。キャップを目深く被れば、確かにある程度は誤魔化せるかもしれない。
「お話、ね。いいよ。私も初華ちゃんに会いたかったところ」
降って湧いた幸運に、私の機嫌は幾分か持ち直した。
まだ、諦めない。
祥子ちゃんと初華ちゃんの関係は、実の所よく分からないままだった。
豊川の避暑地だか別荘地だかで、幼き日の祥子ちゃんと初華ちゃんが意気投合したらしい、という話は聞いたものの、逆に言えばそれくらいで。
Sumimiを続けながら、超過密スケジュールを押して初華ちゃんが祥子ちゃんに協力していたのかも、私がAve Mujicaを復活させようとしたときに同じくAve Mujicaを続けたそうにしていたのかも分からない。
「東京には最近来たの?」
「うん。お上りさんっぽいかな?」
「別に。歩き慣れてなさそうだからそう思っただけ」
「そっか。気を付けなきゃ」
私も初華ちゃんも、それなりに目立つ。駅で立ち話をするわけにはいかないけど、人に聞かれたくない話をするのにファミレスや喫茶店に入るのも馬鹿らしい。
ホテルのラウンジに入ると、初華ちゃんは露骨にそわそわし始めた。
「た、環ちゃん? 私、こんな高そうなところ……えっと、払えないかも……」
「いいから」
Sumimiで稼いでるのに? ってイジワルしようと思ったけど、やめておいた。
奥の方の席に座らせてもらって、紅茶とケーキのセットを2つ注文する。私はお金に困ってないけど、それでも高いなぁとは思ってしまう。初華ちゃんは顔をひきつらせていた。
ほとんど間を置かずにケーキと紅茶が届いたところで、本題に入る。
全く想定外のところで躓いた私に降って湧いた幸運を、逃すわけにはいかない。
「初華ちゃん、あなたは誰? Sumimiの初華ちゃんじゃないよね」
「……うん。でも、私の名前は三角初華。Sumimiの初華は、私のお姉ちゃんなんだ」
は?
飲み込めなくて、一瞬動きが止まる。
Sumimiの初華と、今目の前にいる三角初華ちゃんは違う。
Sumimiの初華は、三角初華ちゃんのお姉ちゃん。
初華ちゃんのお姉ちゃんが、初華と名乗って活動してる?
やっぱり意味がわからない。
Ave Mujicaのときもそういう話してなかったよね?
祥子ちゃんは知ってたの?
「お姉ちゃんは三角初音。私とはお父さんが違うんだけど……いや、それは一旦関係なくて……」
「わかった、じゃあ、初華ちゃんの目的と、私に何を求めてるのかを教えて」
深い所まで知ってしまえば、なし崩し的に巻き込まれる予感がした。それは良くない。本質的に関係がないのに巻き込まれた場合、最後の最後に放り捨てられるのは目に見えている。
せめて舵を取るのは私でなければ。
「私は、初音の目的を知りたい。初音が私の名前を使ってアイドルをやっている理由を。でも、私は初音に近付けなくて……祥ちゃんなら、と思ってたんだけど、声を掛けにくい事情があって……そしたら、」
「都合よく私を見つけた?」
「……うん。事務所が同じなら、と思って」
祥子ちゃんと話してたところまで見られてたのかな。祥子ちゃんも誰かにつけられてたら気が付きそうなものだけど……
「どうして欲しいの?」
「取り次いで欲しい」
「それで断られたら?」
「……」
「次は祥子ちゃん?」
初華ちゃんは目を伏せた。
初華ちゃんが言っていることが本当なのか、この場で確かめるすべは私には無い。
荒唐無稽な嘘を吐かれているのかもしれないけれど、嘘を吐くならもうちょっとマシな設定を考えるような気がする。
起こっていることは本当だけど、私がまだ聞いていないところに大きな爆弾がある、とか。
うーん、知りたくないな〜!
「……環ちゃんがダメだったら、一度実家に帰るよ。お金もないし」
「初華ちゃん、私と祥子ちゃんの話、聞いてた?」
「えっ。えっと、聞こえなかったけど……遠かったし」
「じゃあ、もう一つ。ギター弾ける?」
「うん。パパが好きだったから」
祥子ちゃんがAve Mujicaをやらないなら、糸の先を握る役割を私がやるしかない。
誰にも必要とされないのなら、どこにも居場所がないのなら、私が作る他ない。
やけっぱちになっている自覚はある。
空回りするだろうことも予想できる。
「私ね、祥子ちゃんとバンドがやりたいの。……協力してくれるよね?」
「交換条件、ってこと?」
「それもあるけど、初華ちゃんのためでもあるんだよ。だって、初華ちゃんが有名になったら、初音(?)ちゃんも無視できなくなる。だから協力して」
初華ちゃんは姿勢を崩して、深く考え込んでいるらしかった。
ケーキの鋭角にフォークを突き刺す。うん、甘くて美味しい。抹茶ケーキを選んだのは正解だった。
「祥ちゃんと……」
「ダメなの?」
「ううん。迷ってるのは、学校とお母さんのこと」
「転校しちゃうのはダメなの?」
「私一人じゃ決められないから。……少し、電話してくるね」
初華ちゃんを引き込めたら、海鈴ちゃんとにゃむちゃんを連れてくることは、おそらく可能だ。海鈴ちゃんはビジネスライクにいけるだろうし、にゃむちゃんに対しては私の芸歴が武器になり得る。……睦ちゃんほど上手くいくかは、わかんないけど。
“初華ちゃん”を引き込む方法が分からない以上、やるにしても手探りで進むことを覚悟しなければならなかったところに、初華ちゃんがやってきた。
なら、作れる。
私が、祥子ちゃんを頷かせることさえできれば──
「環ちゃん」
「どうだった?」
みなみちゃんでもなければ、普通の親がそんなことを言われたって了承するとも思えなかった。初華ちゃんから悪い返答がかえってくることは想定の範囲内で、実際に初華ちゃんのお母さんと話す必要があるかな、と思っていたんだけど。
「良いって。手続きとかお金の心配は残ったままだけど……」
「本当に? あとから学校が、とか言い出すのなしだからね」
「う、うん……」
放任主義なのかな、と流すには大きい問題のような気がした。
踏み込むべきか、それともやぶ蛇か。逡巡して、一旦棚上げする。私だって有効打は持っていないから。
「じゃあ、全部用意してあげる。初華ちゃんが目的を果たせるように私も努力する。だから、初華ちゃんも私を助けて。私を必要として」
初華ちゃんがキャップとマスクを脱いだ。
紫色の瞳は、私が覚えているドロリスのものよりも濁って見えた。
「……私、アイドルをやるのが夢だったんだ。意図しない状況ではあるけど……頑張るよ」
初華ちゃんがケーキにフォークを突き立てるのが、儀式のように見えた。
事実、初華ちゃんにとってそうなんだろう。私からの供与を受け取ることは、つまり。
「本当に、なんだってするよ。だから環ちゃんも、私を捨てないでね」
言葉には、匂い立つほどに本音の色が滲んでいた。
初華ちゃんがザクロソースのかかったケーキを口に運ぶ。
何故だか、目を逸らすことが出来なかった。
──首輪を着けられたのは、どっち?