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コートジボワール日誌

在コートジボワール大使・岡村善文・のブログです。
西アフリカの社会や文化を、外交官の生活の中から実況中継します。

続々・絵本と生活感覚

2009-05-20 | Weblog

ふたたび、絵本の紹介である。最初のページにあるバスに、ダカールという表示があるから、これはセネガルでのお話であろう。服装も、セネガル方面の人のものである。こんどの絵本は、絵は上手で綺麗に描いてある。

===「ファトゥ叔母さんのサンダル事件」(梗概) アワ・セク作、マリアンヌ・カウフマン絵===


ファトゥ叔母さんは、赤ちゃんの命名式に招かれた。
おしゃれな着物に身を包み、きちんとおめかしをして出かける。


履いたサンダルは、今年のメッカ巡礼が伝えた、
流行の最先端のモデルだ。


若いお母さんのお宅に着いたら、大げさなご挨拶をして、ソファーに腰掛ける。
お客たちのおしゃべりは楽しい。
あまり失礼にならないよう、そっと退席する。


玄関のところで、ファトゥ叔母さんはサンダルを探す。
叔母さんの新品のサンダルは、探しても探しても見つからない。
仕方がないので、汚れたサンダルを選んで履いて帰る。


家に帰って、汚れたサンダルを脱ぎ捨てる。
誰のサンダルかしら。らい病持ちのサンダルだったのかしら。
らい病持ちは、命名式には呼ばれないはずだ。
だから大丈夫、とは思えても、気持ちは収まらない。


怒りをこらえたファトゥ叔母さんを、マルティジュが見つける。
叔母さんが彼女に、起こったことを話す。
マルティジュは、私が何とかしようと約束。
友人のところに出かける。


友人たちの知恵を得て、命名式の家に戻って、捜査をすることにした。
叔母さんのサンダルを盗んだ犯人が見つかった。
その招待客は、そのサンダルを持ち、座るときも大事に横に置いている。


マルティジュは、ファトゥ叔母さんのところに戻る。
「叔母さん、汚れたサンダルをちょうだい。
叔母さんのサンダルと、取り替えてきてあげる。」
「あらそうなの。この汚れたサンダルが目の前からなくなるだけで、
私はもう満足だわ。」


命名式の家では、食事が始まった。
マルティジュは、犯人のお客のそばに陣取る。
そのお客は、一番おいしいお肉を逃さないように一生懸命で、
サンダルのことを忘れた。


その時を待って、マルティジュはそっと近づく。
汚れたサンダルを、叔母さんのサンダルと、取り替える。
叔母さんの美しいサンダルを携えて、そっと家を出る。


「ファトゥ叔母さん、やり遂げたわ。ほら、サンダルよ。」
「マルティジュ、取り返してくれて有難う。
今日このサンダルを始めて履いたばかりで、
代金の分割払いさえ、まだ払い始めていないところだったのよ。」

===(おしまい)===

例によって、私の観察である。

(1)ファトゥ叔母さんが履いた、金色で先が尖ったサンダルは、今年のメッカ巡礼でもたらされた流行最先端だ、という。メッカ巡礼というのは、宗教行事であるとともに、お土産を輸送する物流であり、流行や文化をも運んでいるのだ。

(2)人々は、玄関で靴を脱ぐ。日本人は、海外では、家の中でも皆靴を履いているのだと思っているけれど、実は世界では、家の中で靴を脱ぐ文化のほうが一般的なのではないだろうか。靴を履いたまま家に入るのは、西欧・北米に特有の文化と思われる。欧州でもコソボでは、皆靴を脱いで家に入っていた。

(3)ファトゥ叔母さんは、汚れたサンダルをらい病(ハンセン病)患者のものではないだろうか、と心配する。そして、らい病患者なら招待されるわけがない、とらい病への偏見が丸出しである。らい病よりももっと恐れるべき、不潔に由来する病気は、他にたくさんあると思う。そのアフリカでも、らい病への故なき恐怖心があるのだろうか。

(4)そもそも、自分のサンダルなのだから、ファトゥ叔母さんが、その犯人の女性のところに行って、これは私のだと主張して取り返してくればいいではないか。取られてしまったら、自分のものでも取り返せない。不思議である。

(5)マルティジュも不思議な行動を取る。犯人の女性のところに行って、談判して取り返せばいいではないか。それを、相手の隙を見て、サンダルをすり替えるという、姑息な手段に出る。これでは、彼女のほうこそ泥棒も同然である。そういえば、ファトゥ叔母さんだって、汚れたサンダルだからといっても、勝手に他人のサンダルを履いて帰ってはいけない。

(6)ファトゥ叔母さんは、サンダルごときを、分割払いのローンを組んで買っていたのである。よほど、庶民生活からみれば高価なのだろう。それにしても、そうした庶民生活の購買においても、ちゃんとクレジット販売があるとは、感心する。

なんというか、アフリカに来て驚くのは、自分の権利という意識、あるいはもっと進めると、正しいことが何かを主張するということに、人々があまりあくせくしないということである。むしろ、現状を見てそれを受け入れる、是非を問わず、それを仕方がないと受け入れる傾向がある。

それは、一方では、何とかこの逆境を抜け出してやるといったような、抵抗心や根性というものが、人々の中に生まれにくいということにつながっているのだろうか。内戦や飢餓といった災厄も、そういうものをもたらした責任を追及すべき対象が明らかなのに、諦めて従順に受け入れてしまうようにみえる。その一方で、欲しい物があればそれは自分の物。他人に権利があること、それを手に取ることが正しいことかどうかには拘泥しない。公用車がいつのまにか自家用車になっている。

こんな絵本の中にも、ちょっと日本とは違った社会を感じるのである。


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2 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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Unknown (パト・レ)
2009-06-04 17:18:37
絵本には、国民性が良く現れて面白いですね。
(5)の点については、サンダル泥棒も一応、命名式に招いてくれた人の客であり、親戚かも知れないので、ホスト・ホステスの顔をつぶさず、めでたい席の雰囲気を壊さずとの心遣いではないかと思われました。私の住むインドと似ているようです。
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Unknown (地球)
2009-06-25 00:20:55
creditで買うほど高価で流行のサンダルをたった一人で履いて・・・というも日本にはないような気がする。自己主張があるような、ないような。いずれにしたって事を荒立てずに覆水盆に帰ったのだから、みんなこれでいいのでしょう。
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