ようこそいらっしゃいました、とサヌー所長が手を差し出した。私は彼女と握手をしようとして、あっと竦んだ。手の平はあってもその先、指が全く無い。私は、顔ではにこやかに挨拶しながら、彼女の手の平ではなく手首を握っていた。彼女は、私の躊躇を意に介した様子なく、私を事務室のほうに導きいれた。
ベンカディ(Benkady)というNGOが運営する「障害者のための職業訓練所」は、ブルキナファソの西部、ボボ・デュラソ市の住宅街の一角にあった。昼下がりの中庭には、大きなマンゴーの木の下に、車椅子に腰掛けた人々が集まっていた。私は、皆に挨拶をしたあと、サヌー所長の事務室に入る。サヌー所長が両手を広げると、彼女の左手も手首の付け根から失われていた。この人には、両手に指というものが全く無いのだ。
「どうぞ」と所長が椅子を勧める。何人もいる私たちを見て、「あら、椅子が足りないわね。」と言うなり、彼女は事務室の外に出て、椅子を一つ自分で運んできた。どうやって、椅子を抱えたのだ。そして机に戻ると、大使にご挨拶をしなくちゃね、と言いながら、懐から紙を取り出して、両手で広げて読み始めた。両手で原稿を広げて、である。普通の人と何ら変わらない、滑らかな動き。私は呆気にとられて、演説の内容をよく覚えていない。
「貧しい村では、身体障害者は乞食をして生きていくしかないのです。」
所長の言葉は、婉曲や飾りの全くないものであった。
「でも、誰も人の温情で生きたい、などとは思っていない。ここに来る身体障害者の人々は、何とか人に頼らず生きていけないか、何とか自分の力で稼ぐことは出来ないかと、真剣な思いです。」
この職業訓練所では、そうした身体障害者の人々に、ミシンで裁縫をする技術や、機織の機械で布を織る技術を教える。そうした技術を習得すれば、何がしかの収入が出来て、自活ができるかもしれない。その希望を繋いで、沢山の人々が狭い部屋でひしめき合って学ぶ。
日本人の女性が、職業訓練所の活動を手伝っている。青年海外協力隊員の尾畑生子さんだ。尾畑さんは、1年前からここで、訓練を終えた女性たちに、実際に収入の向上を実現できるよう、いろいろな助言をしている。裁縫や機織を覚えたあと、それでどういう商品を作ると売れるのか。どうやって売ればいいのか。尾畑さんは、ハンドバッグや、テーブルクロスや、ブックカバーなどが売れるのではないかと、自分で作り方を研究して、女性たちと一緒に製作する。デザインを工夫し、刺繍などを加える。今はまだ、買ってくれるのは仲間の隊員くらい。でもこれから、何とかして販路を探したい。ブルキナファソの観光ホテルなどで、土産物として売れるようにしたい。
機織の部屋に入る。先生の指導に、訓練生たちは熱心に耳を傾け、こつこつと布を織る。足が不自由でも、両手が動けば、何とか機織が出来る。一人の女性は、小さな子供を連れていた。自分だけでも足が動かず大変なのに、この人は子供も養わなければならない。部屋の一番奥に、少し変わった形の機織機が置いてある。若い男性が座って、一心不乱に何やら作業に取り組んでいる。名前を聞くと、ヤクバ君という。
「無理だと言っているのに、ヤクバ君はとにかく教えてくれといってここに通って来ます。彼は、両足が動かないだけでなく、右手が畸形で使えません。左手だけでは、布は織れません。だから、教えても無駄なのです。」
サヌー所長の説明には、救いはない。甘い同情や慰めの言葉が、何の意味もないことを、一番知っているかのようだ。
「でも、俺はやるのだ、といって一日中、左手だけで織機に向かっています。精根尽きるまでやって、きっと不可能と悟るでしょうから、その時には別の技術を勧めることにします。」
聞こえているのかいないのか、ヤクバ君は、下を向いたまま、ひたすら糸を通そうと、左手で格闘している。
「ここに来る人々を支えているのは、働きたいという強い意欲です。それを助けるのが、私の仕事です。例え障害者であっても、誰もが、他の人々と同じように生きたいと、他の人々と一緒に生きたいと思っています。」
私が日本大使として来訪し、とても貧しいなりをした訓練生たちに、声を掛けて回っている。ところが、どの一人からも、支援が欲しい、金や援助をくれという話が出ない。私は感銘を受けた。この人々は、誰にも頼らず自分の力で生きたいと、心から思っているのだ。
尾畑さんがデザインし訓練生たちが製作したテーブルクロスなどを購入して、私は外に出る。サヌー所長が、暇乞いの手を差し出した。私は、今度こそ、彼女の手の平をしっかりと握った。 「障害者のための職業訓練所」
裁縫を学ぶ
尾畑さんと製品販売
機織りの訓練
ヤクバ君の努力
サヌー所長と尾畑さん(右側の2人)
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