【中島輝士 怪物テルシー物語(29)】ソウル五輪の前年の1987年の秋、19歳だった野茂英雄(新日鉄堺)は社会人野球の有望株が参加する新人研修会に招集されました。この研修会には入社1年目から3年目の選手が対象で、近い将来の全日本選手を発掘することが狙いでした。野茂が社会人の全国大会で登板したのは、大阪球場で87年10月26日から11月4日の日程で行われた日本選手権と記録に残っています。1試合に登板し打者2人と対戦したのみ。成城工業高時代は甲子園に出場したわけでもなく、いわゆる中央球界からはノーマークという存在だったはずです。
私が実際に見ていた印象では、まだまだ制球が安定せず、粗削りでした。それでも体が大きいしボールの威力は抜群でした。私はたまたまリーチが長かったこともあって、野茂の大きく落ちるフォークには当時は対応できていた方だと思います。
同じく有望株が参加する研修会に参加していた潮崎哲也(松下電器)も周囲の評判はすごく高かったですね。今では皆さんがご存じの、あのシンカーですよね。私が初めて対戦したのはオープン戦だったかな。まさに「なんじゃこら」な球筋ですね。見たこともないボールだし対応できない。ボールが消えましたね。慣れてくると長い腕で拾えるようにはなりましたが、あれはまさしく魔球ですよ。
最初に見た時の潮崎は体は大きくないし細いし、顔も少年みたいでね。これで本当に社会人野球の選手としてやっていけるの?くらいの印象でした。しかし、マウンドに上がるとすごかったですね。
野茂、潮崎の2人は新人研修会後に選ばれた30人のソウル五輪日本代表の第1次候補には入りませんでした。ただ、ソウル五輪が行われる翌88年に、日本代表の強化合宿や都市対抗でしっかり結果を残して、最終的にソウル五輪日本代表の20人に残りました。
オリンピック本番は9月19日からスタートで、8月末にはイタリアでの世界選手権大会や、日本での4か国対抗壮行野球(日本、米国、カナダ、豪州)と、結構なバタバタしたスケジュールをこなして韓国・ソウルに入りました。
野茂は自身初の国際試合だったイタリア世界選手権でキューバ戦に登板。堂々と真っ向勝負で実力の片りんを見せていました。4か国対抗戦では豪州戦、カナダ戦の2試合に登板し無失点。日の丸を背負った経験が浅くても堂々としたものでした。ソウル五輪での野茂は予選の台湾戦、準決勝の韓国戦、決勝の米国戦でそれぞれ好投しています。
本当にこれが若さだと思うんですが、投げるたびに成長して、重圧がかかる試合でも平気で投げていたような印象が残っていますね。確かキューバだったと思うんですけど、遠征した時にみんなが食事が合わなくて困ったことがあったんです。大事な大会期間中に体重が減るとか、そんなことではダメですからね。
みんなが食事に困って肉体の維持に苦労する中で野茂だけは平気な顔して太って帰ってきましたからね。当時は若かったとはいえ、やっぱり大物だったんですよ。メジャーで123勝もしてノーヒットノーランを2回ですか。ただものではなかったですね。












