安倍さんに教養がないことは、実は身近な人々のあいだでは“公然の秘密”だった。
だからこそ、彼の演説はいつも情緒とイメージ先行。論理も歴史的整合性も、後回しだった。
そしてもっと深刻なのは、それが「親しみやすさ」や「庶民感覚」として消費され、むしろ“知性のなさ”が政治的な魅力にすり替えられていったことだ。
こうしたリーダーの周りには、決まって“反知性”を売りにする“識者”が集まる。
まともな学術の世界では相手にされないような“専門家”たちが、ブレーンとして大きな顔をしはじめる。
政治が軽薄になればなるほど、言葉も知見も軽くなる。
だが、教養なき者が国の舵を握ることほど、国家にとって危ういことはない。
なぜなら、トップの“知の軽さ”は、そのまま社会全体の知の基準を引き下げるからだ。
リーダーが論理より印象を操り、歴史を歪め、レッテルで相手を封じていれば、やがて国民も「それでいい」と思い始める。
言葉の軽さ、思考の粗雑さ、無知の開き直り——
それが“この国の普通”になってしまう。
安倍政権で起きたのは、まさにこの知的劣化の連鎖だった。
“無教養な支配”が、“無知な服従”を育ててしまった。
その結果が、今の社会の空気だ。
教養とは、単なる知識量ではない。
それは、言葉の重みを知ること。歴史への敬意を持つこと。
そして、他者への想像力を決して手放さないことだ。
それを欠いた人間が、長きにわたり権力の座にいた——
その代償を、いま私たちは静かに、しかし確実に、支払わされているのではないだろうか。
私たちは、こういうリーダーを二度と選んではならない。