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コートジボワール日誌

在コートジボワール大使・岡村善文・のブログです。
西アフリカの社会や文化を、外交官の生活の中から実況中継します。

バウレ族のことわざ(3)

2009-01-29 | Weblog
あと少しばかり、ことわざを紹介する。

「雌鶏にも夜明けは分かるが、雄鶏の時の声を待つ」
女性は男性を尊重するべし、何事も男の判断を得て行うべし、という戒め。ちなみに、バウレ族では伝統的に、女性の力が強い。だからこそ、男の顔を立てるように、というのが教えになる。

「木の皮は普段は何の役にも立たないが、ある日塵を集めるのに使われた」
木の皮を、塵取りにして使ったというわけである。どんな人にも何らかの役割や、取りえがある、という意味。本には、ほかに同義のことわざとして、「どんな水でも火は消せる」というのが載っている。

「コトシェの枯葉が落ちる前でも、栗鼠は巣に眠る」
コトシェは熱帯の木で、朴の木に似て大きな葉をつける。その枯葉は栗鼠にとって巣作りに最適の材料である。しかし、コトシェの枯葉が無いからと言って、栗鼠は巣が作れないわけではなく、バナナの葉や椰子の葉でも作ることができる。最良の条件が揃っていなくても、物事は実現可能だ、という意味である。本には、息子がある日仕送りを止めた。この仕送りを当てにしてきた父親は、愕然として息子を非難しつつ、このことわざを引用し、お前の金がなくても何とかなる、と言うのだ、と書いてある。よく文脈の分からない話である。

「ヤモリはその手に応じて、妻に塩を配る」
ヤモリの手は小さい。小さいなりに、その手で少量の塩を配る。つまり身の丈に応じた生活をするべし、ということ。

「牛のいない村では、羊の足跡は大きく見える」
井の中の蛙大海を知らず、という意味かと思ったら、本にはこう解説してある。牛というものが存在することを知らなければ、羊でも十分満足できるのだ。だから、自分のところにあるものを受け入れて、満足しなさいということ。

「蝸牛の殻はそこに留まりたくても、中身が目覚めれば、動かざるを得ない」
親分がああするこうすると言えば、否が応でも従わざるを得ない。運命には逆らえない、という意味らしい。

「子栗鼠が母に付いて行きたくない時、母栗鼠の尻尾が目に入って痛いと言う」
自分のわがままを通すため、屁理屈をこねること。無理が通れば道理が引っ込む、といったところか。バウレ族では母親の権威は大きい。子供が母に付いていかない、などとはとんでもない話だ、ということである。

「象が屁をひったと誰が言うか」
コートジボワールでは、公衆の面前で放屁することは、教養の欠如を表すものとして、軽蔑の対象となる。一方で、象は森で最強の動物であり、権力者の象徴である。例え象が放屁しても誰も指摘できない、つまり権力に逆らうことは出来ない、権力者が気を悪くするような真実を述べてはならない、という意味である。

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さすが森の民だけあって、たくさんの動物が出てきた。概して、現状肯定のことわざが多い。バウレ族が豊かな土地に住む部族であることを反映しているのだろうか。日本語も、ことわざの豊かな言語である。日本語とバウレ語、それぞれのことわざの異同、それぞれの人生の知恵など、けっこう興味深いものがある。

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