ベナン第一の都市コトヌは、海岸べりにある。そのコトヌの漁港では、男たちが漁船から揚げる魚を、仲買人のおかみさんたちが仕分けて捌く。港の市場は女性たちの仕事場だ。600人以上を数える彼女たちの労働環境を改善するために、漁港に「女性の家」を建てたい。女性たちでつくる仲買人組合が、日本政府に援助を求めてきた。これに応じて、日本は770万円の資金を供与。昨年(2008年)4月に、「女性の家」は落成した。さて、私は大使として、日本のお金が有効に活用されているか、視察に出かけることにした。
「女性の家」は、漁港の水揚げ施設と並んで、空色の真新しい姿を誇っていた。建物は、託児所施設と、休憩室とで出来ている。仲買人のおかみさんたちは、ここに子供たちを預けておけば安心して仕事場に向かえる。そして休憩室では簡単な食事が出来て、身体を休めることが出来る。
日本の援助のたいへん感心なところは、ただ施設を供与しただけでは済まさないこと。この「女性の家」に、日本人スタッフを派遣している。伊良波藍里さん、江嵜浩さん、住吉香奈さん、功刀政司さんの4人の青年海外協力隊員である。彼らは、「女性の家」と託児所の運営、仲買人組合の営業や経理などへの指導、そうした支援をするために、この「女性の家」を根城にして活動している。こういうふうに日本は、建物だけでなく中身も面倒を見る。
といっても、現実はそんなに簡単ではない。漁港のおかみさんたちは、細腕どころか豪腕の女傑ぞろいである。日本の若者が運営を指導しましょうと出て行っても、あんた何しに来たと、にべも無い。もちろんベナン政府の水産局からは、是非日本人に来て指導をして欲しいと要望があったのだ。それに応えて派遣されたのに、現場に行くと話が違っている。それでも、そこでじっと我慢、おかみさんたちと時間をかけて信頼関係を築く。小さいところから提案して、運営に改善の余地があることを分かってもらう。そうして存在意義を認めてもらう。
功刀さんは統計の専門家である。女性仲買人組合の経理を、コンピューターなどを使って近代化することが仕事だ。伊良波さんと住吉さんは、「女性の家」と託児所の運営や、子供たちの情操教育に携わっている。子供たちに取り囲まれて、一緒に遊んだりして、いろいろなことを教えてあげる。そして江嵜さんは水産加工の技術者として、水揚げされる魚を、より付加価値の高い製品にして売る工夫を提言している。すでに春巻きや魚肉ミンチボールなどをつくって、スーパーマーケットで販売するという企画を開始している。こういう活動は、余計なお節介と見られることさえある。でもそうなのではなく、ほんとうに女性たちの生活改善に繋がっていることを理解し、実感してもらうまでに、忍耐と時間をかける。
「女性の家」には、二つの重要な付属施設がある。井戸と公衆トイレだ。これらの使い方にも、協力隊員の指導が要る。井戸は使い方をきちんとしないと、せっかくの水が病原菌などに汚染されてしまう。井戸の周りで汚水を流すということをしないように、また井戸に屋根をつけて雨水が入らないようにしなければならない。ところが井戸の直ぐ横で、女性たちが洗濯をしている。ただ駄目だと言っても、反発されるだけ。じっくり説いて、納得してもらう必要がある。屋根もまだ出来ていない。これらは今後の課題である。
以前は、公衆トイレは無かった。大小便は物陰で済ませ、それは漁港に垂れ流されていた。不衛生である。そこで、「女性の家」を建設するのに併せて、水洗トイレを設置した。皆が喜んで上手に使ってくれるだろう、と思ったら、一筋縄にはいかなかった。トイレットペーパーなど漁港の人々には高価で使えないから、新聞紙で拭く。便器がたちまち詰まった。「ちり紙は屑箱に」と貼紙をして、水洗トイレの円滑な利用を図る。さらにトイレを清潔に維持するために、運営をうまく考えなければならない。必ず1回50フラン(12円)の使用料を取って、そのお金でトイレ担当の人を雇うようにした。日本人の私たちは、トイレといえば水洗で、常に掃除されて清潔なのが当然と考えている。でも、それはすでに生活習慣が確立していて人々が使い方を知り、清掃の仕組みがあってこそである。そういう条件が整っていないこのコトヌ漁港で、水洗トイレを使えるようにするだけでも、トイレの文化を導入するところからはじめなければならない。その一つ一つを、協力隊員が目配りし、指導する。
協力隊員の努力は続く。何はさておき、漁港のおかみさんたちは陽気な人たちだ。私が着くや否や、魚の仕分け場に車座に集まって、マラカスのような楽器を鳴らしながら、お尻を振ってどんどこ踊り始めた。歓迎の踊りが、延々と続く。隣の市場では、レスラーのような立派な体格のおばさんが、太い腕とナタで魚をさばいている。踊りも、太い腕も、仕事振りも、たいへんな迫力だ。
彼女たちは私を取り囲んで口々に言う。「女性の家」が出来て、子供の世話を気にせず仕事が出来るようになった。子供が車道に出ていかないよう見張らないですむようになった。大変感謝している。日本人の協力隊員とも、仲良く楽しくやっている。コトヌ漁港は、女性たちの威勢で、大変な活気と繁盛振りである。協力隊員も、真っ黒に日焼けして頑張っている。太腕のおかみさんたちに揉まれ、やんちゃな子供たちに囲まれて、日本の若者たちも元気においては負けてはいない。
コトヌ漁港「女性の家」全景
「女性の家」の託児施設
塵紙はゴミ箱へ
魚市場で魚をさばく
踊る漁港のおかみさんたち
功刀さん、伊良波さん、住吉さんの3人。後ろは渡邉JICA所長
ひと昔前は日本からの対アフリカ経済援助というと、関係各省にはとにかく予算を消化するのが第一なのではないのか、と思わせるところがありました。日本人はお金をぽんとだして、政府高官同士が握手している写真が報道されれば、「あとは知りません。どうぞご自由に」という様なところがあったように思います。
私が住んでいた頃はアビジャンの国立病院で、日本製の高価な医療機器がホコリをかぶっていたりしました。
ワイロを払わない患者には医者が薬も出さないような国立病院で、一般の患者にオペレーション費用の高い機材など使うことはまず無いし、金がある人間や政府高官は病気になれば 地元の病院など使わずすぐヨーロッパに飛んでいく。大体 使いたくてもその技術を持った医療テクニシャンが育っていない、など、現場の事情が色々ありましたが それを日本のdecision makers に伝えるルートああるいはその意思が無かったように思いました。多額な予算がつぎ込まれた割には、アフリカの人々の間で日本に対する親近感は育ちませんでした。一方, 青年協力隊の人達は、電気もないような村で、地元の人達と草の根のレベルでしっかり結びつきを作っておられました。
現場に楽しそうに「視察」に出かけていく日本国大使が出て来てくれて本当に嬉しく思います。今後日本と西アフリカ諸国の関係が,より人間の温かみが感じられるようになるなら 素晴らしいですね。