絵本というのは、その土地の人々の風土を映し出して、面白いものである。その土地で、大人が子供に伝えたいと考えることが、凝縮して表現されている。だから、本屋に行くことがあると、絵本をさがして読んでみる。 先日こちらの本屋で見つけた絵本があるので、紹介しよう。
「大切な人形」 ジョルジュ・バダ作 ヘクター・ソノン絵
ボジャとテテは仲よし双子の兄妹。いつも一緒に手と手をつないで
ある日ボジャが病気になった。何も食べず、熱もひどく
テテはずっとボジャにつきっきり。イエス様にお祈りする
満月の夜、ボジャの息がかすかになって、目が白くなって、黒い布にくるまれた
お葬式の後も、テテは目を真っ赤にして泣いている
お坊さんがお人形を手渡して、「ほら、これがお兄さんのかわりだよ」
でもテテは皆と遊ぶ方が好き
ある朝、テテの人形がなくなった。一日中探したけど見つからない
テテのお母さんが、まじない師に尋ねると
「ボジャの魂が怒っているのじゃ。双子の神様にお供えをするのじゃ」
お母さんはお供えをしたけど、人形は出てこない
テテはますます悲しくて、遊ぶことも、ぐっすり眠ることもできない
ある日、テテはお母さんと市場に行った。なんとお人形が店に置いてある
テテは走り寄って、大きな声で、「お兄ちゃんを私に返して」
店の主人「お嬢ちゃん、これは売り物だから駄目だよ」
テテ「でも、あんたが私から盗ったんだわ」
お母さんも加勢に入る
「双子の兄さんの人形だから、返してあげて」
でも店の主人は言うことを聞かない
その時お店のお客が、「私が買ってあげるわ」
そのご婦人は、テテに人形を買い戻してあげた
「もうお人形は、隠しておくわ」テテはつぶやく
「私のベッドで、一緒にお休みなさい。いろいろ秘密のお話をしてあげる」
おうちに帰って、テテは人形を体にゆわえる
「もう誰もあなたを持っていけないわ。私達はずっと一緒なのよ」
=== (おしまい) ===
さて、若干牽強付会ながら、私の観察を記す。
(1) まず、話の始まりで唐突に子供が死ぬ。妹のイエス様へのお祈りもかいなく、そこに救いは無い。妹も少し泣いてから、兄の形見を忘れて、他の子供と遊びに行く。子供の死は、村の日常である。
(2) 母親にとって、問題の相談先は、まじない師である。父親は登場しない。妹がイエス様にお祈りするくらいキリスト教が広まっている一方で、呪術信仰は、いまだに村落に根強い。
(3) 店先の人形を見つけて、妹は「あんたが盗んだ」と言う。「盗む(voler)」は、窃盗したという意味ではなく、「私のところに本来あるべき(あって欲しい)ものが、別の人のところにある」という意味の動詞である。例え正当な権限(売買、労働、開発)に基くものであっても、人々にはそういう感覚で捉えられる。
(4) 母親は、自分の子供に人形を買い戻さない。まじない師にはお供えをする余裕があるのに、現金は出さない。現金を払うのは、別の客(ヨーロッパ人の中年婦人)である。
(5) 感謝の言葉はない。多額(1万フラン札が2枚描かれている)を払った女性客に、母親や妹がどう感謝したかのかしなかったのかは記されていない。少なくとも、絵本を見る限り、これは感謝すべき話なんだということは、読み取れない。
勧善懲悪、刻苦勉励、因果応報、信賞必罰、何かどこかにそういう教訓や道徳のたぐいを伝えようとする日本や西欧の絵本とは少し違うように思う。他の絵本もいくつか立ち読みしたが、同じように教訓が読み取りづらいものが多い。いや教訓どころか逆に、人生そんなに甘くないぞ、と思わせるものさえある。
もちろん絵本がこういうものであっても、何ら問題があるわけではない。ただ私としては、どうも物事を流れるままに受け入れ、批判精神や反省といったものにはあまりこだわらない、こちらの人々の生活感覚がにじみ出ているかな、と感じるのである。
ブログに写真が載るようになり、さらに充実した感があります。今年も健筆を期待しています。
以前の小説の紹介もそうでしたが、絵本の紹介も興味深いですね。日本人の感覚からすると、シュールとさえ思えるような内容です。(大人向けだったらまだわかりますが)
確かに何を読み取ればいいのか、絶句するような絵本です。これほどまでの異文化を理解するのは大変だと思いますが、それだけに面白さもあるような気もします。
ところでこの絵本、何だか突拍子もない内容ですが、絵が今風でオシャレなのに感心しました。主人公の少女のヘアスタイル、かなりデフォルメされて描かれていますが、かわいいです。しかし、この内容では、絵本に隠されている教訓みたいなものを、子供に説明できませんねぇぇぇ。「お人形が見つかって、良かったね。はい、終わり。」みたいに。。。
遅ればせながら、2009年も宜しくお願いします。