パリサイ人ということばは、ヘブル語のパラース(分離)から派生したことばである。サドカイ派、エッセネ派とともに、ユダヤの3大宗派の一つで、中流階級に属する者が多く、律法を厳格に守ることを特色とした。パリサイ派は、純粋に宗教的な党派で、復活や御使い、霊の教理も受けいれていたが、サドカイ派は、特権的な祭司階級に属する者たちからなる政治的な党派であり、考え方もリベラルで、理性的に受け入れられない教理は否定していた。イエスに出会う前は、パリサイ派の教師として活躍していたパウロには、両者の主張点の違いや関係の難しさは十分理解されていたことであろう。パウロは、この二つの党派の主張点の違いにつけこんだ。それが、ユダヤ人への宣教のきっかけとなると考えたのかもしれない。
しかし、事態は、激しい論争となり、パリサイ人の中には、「私たちはこの人に何の悪い点も見出さない。もしかしたら、霊か御使いかが彼に語りかけたのかもしれない」とパウロに組する者まで現れたという。こうして彼はユダヤ人の間に、復活を巡り、教理的な論争を引き起こすことには成功したが、自由にされたわけではなく、むしろ、カイザリヤへと護送される結末になる。
独房に入れられながら、パウロは後悔したのかもしれない。事態は最悪だと。しかしそれも神のご計画の内である。11節。「エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなければならない」と神はパウロを励まされた。私たちは、結果を気にしすぎるところがある。ああこんな結果になるんだったら、あんなことしなければよかった、と。しかし、あんなこともこんなことも神のご計画の内である。すべての結果は神のみ許しの中で起こっていると理解すべきである。
ともあれパウロは、先に弁明を許されていたが、23章の後半では、ただ、引き立てられていくだけである。彼は一言も弁明が許されずに、ただ運命に身を任せるほかなかった。事態はさらに悪化した。そんな場合にはどうしたらよいのか。
第一に、抗うことをやめることである。神に身を任せることである。抗えば抗うほどに、私たちはみじめな姿をさらけ出し、混乱し、冷静に物事を考えることができなくなるだろう。神の真実さにゆだね、私たちの重荷を神の御手にゆだねるとよい。
第二に、神の平安を求める時である。弓矢を貼りっぱなしにすれば弓矢がだめになる。人間も緊張しっぱなしであれば壊れてしまう。緊張から解き放たれる最初のステップは、神のみ言葉の中に静まることである。それは、ティーパックを熱いお湯につけることに似ている。カップにお湯を注いで、ティーパックをお湯につけると、次第に紅茶の色が広がり、香りが広がる。同じように、私たちのこころに、神のみことばのティーパックを付けていくなら、神のみことばの味と香りが私たちの心の中にじわじわと広がる。そのように完全に広がるまでに静かに、神の御言葉を味わうのである
パウロは、陰謀にさらされた。しかし、神はパウロを守られ、導かれる。パウロは、エルサレムから60キロメートルほど離れたアンテパトリスへと護送された。歩兵200人、騎兵70人、槍兵200人、全部で470人からなる大部隊である。一人の囚人の護送に随分な人数と思われるが、パウロに対する危険の大きさは相当なものだった、ということなのだろう。ただ、歩兵や槍兵は、最初のエルサレムから外に出るまでの危険なところだけ同行した、ということもありうる。また、26節からの千人隊長の手紙は、実際にルカがその手紙を入手したわけではなく、最もありそうな手紙を作文した、と言われている。確かにその可能性は否めないし、「次のような」(25節)は、次のような趣旨の、という意味であろう。ともあれ、主に身を委ねたパウロは、主に守られた、そこが大事なのである。そもそも考えてみれば、エペソから、エルサレムに戻らず、そのままローマへ行けばこんなことにもならなかっただろう。この期間たるや、数か月、数年のロスである。それでも神は、パウロがエルサレムに帰るのをお許しになった。そしてまたローマへと向かわせるという。人生には無駄に思えることが多い。しかし、おそらく、聖書には記録されなかった、つまり私たちには知らされなかった出会いと救いもあったのかもしれない。神のご計画は計り知れないものがある。また神は私たちが判断を誤ったと思うようなことをも用いてくださる。いつでも、主が私たちを最善に用いてくださるよう祈る心をもって歩みたいものである。
14/10/27 18:45