なんか一人だけ世界観が違う   作:志生野柱

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 ティンダロスの猟犬の刃物の如く鋭い牙が、フィリップの柔らかな肌と血管を食い破る、その寸前。

 

 近くで見ても、ティンダロスの猟犬の姿は全く判然としなかった。

 この狂った時間と空間の中でならまともに見られるのではないかと考えていたのだが、全く机上の空論だった。

 

 だがそんなことより、ティンダロスの猟犬が目と鼻の先に居るというのは、何もかもがどうでもよくなるぐらい不愉快だった。目も、鼻も、脳も、本能も、理性も、主観も、客観も、人間的価値観も、外神の視座も、フィリップ・カーターという存在を構成するあらゆる全てが、ただひたすらに不快感を叫んでいた。

 

 ティンダロスの猟犬。不浄なるもの。穢れを纏った醜悪なキュビズムの化身。

 その姿は理解不能であるが故に強烈に脳を混乱させ、身に纏う死と腐敗、埃と黴の悪臭が吐き気を催させる。

 

 こいつは──生きた汚物だ。

 

 「──()()()()()()()

 

 フィリップが極限の苛立ちと共に吐き捨てたのは、その名前だった。

 直後、世界は完全に停止した。

 

 身体を霧に変え、歪曲した空間の中で意図した通りに動くための「正解」を探していたミナ。愚かにも自らの行く手を阻んだ歪曲時間の存在を排除しようとしていたティンダロスの猟犬。飛び散る蒼褪めた脳漿。フィリップが流し、天井に向かって落下していた汗の雫。

 あらゆる全ては、時間の流れを忘れたように静止している。

 

 ルキアにも、ステラにも、ミナにも、勿論フィリップにも実現不可能な光景を、フィリップは不愉快そうに一瞥した。

 

 一瞬の後──時間の止まった状態で「後」という表現が正しいのかはさておき──フィリップは捻じ曲がった時間と空間の中で、しっかりと二本の足で立っていた。

 

 「そう。それでいい」

 

 フィリップが呟いたと同時に、時間は再び正常に作動し始めた。

 

 ティンダロスの猟犬がほくそ笑む。敵対者の喉笛を食い千切る瞬間は、奴らにとって至福のひと時だ。

 霧化したミナが正しい移動方向を見つけて、フィリップを庇う位置に移動する。だが遅い。霧化しての移動には身体能力由来の驚異的なスピードを発揮できないからだ。

 

 そして──ガチン! と、猟犬の牙が噛み合わされ、金属質な音が高らかに響いた。

 

 「フィル──!」

 

 猟犬の牙がフィリップの首を貫くところを目の当たりにして、ミナが彼女らしくもない慌てた声を漏らす。

 肋骨が折れようが内臓が傷付こうが即死でなければ血を分けて癒せるミナだが、首、特に頸動脈の損傷は治癒までの猶予時間が10秒そこらしかない。

 

 しかし、次にミナが見たのは、フィリップが首から大量出血して頽れる様ではなく、バックステップを踏んで下がり、ソードウィップ形態の蛇腹剣を空振りして整形する──攻撃態勢を取る姿だった。

 

 確かに猟犬の牙が貫いたはずの首筋は、全くの無傷だ。

 ミナはほんの一瞬の思考の後に、トリックに気付いた。

 

 拍奪の歩法だ。

 攻撃が当たったのに透けたように見えたのは、ミナの目と脳がフィリップの位置を誤認していたからだ。そしてティンダロスの猟犬が頸動脈を食い千切り損ねたということは、つまり、奴らもまた両目と脳で物体の位置を認識しているということ。そして、相手を狙って攻撃しているということだ。

 

 それなら戦える。

 時空歪曲は依然として続いているが、もはやフィリップには関係のないことになった。

 

 心なしか驚いたように見える猟犬の首筋に、三度目となる蛇腹剣の斬撃が食い込んだ。回避不能の一撃を躱されたことも、自分が反撃を喰らったことも即座には理解できなかった猟犬は、ただただ痛みに呻く。じわじわと再生していた傷は、またぱっくりと断面を開けた。

 

 「後退方向を見つけたのなら僕の後ろまで下がって、ミナ。攻守交替だ」

 

 フィリップの声は軽やかだった。

 弾むように楽しげで、一瞬だけ発した恐ろしいまでの怒気など片鱗すら感じさせない、遊ぶ子供そのものといった雰囲気を纏っている。

 

 その笑顔につられて、ミナも口元を綻ばせた。

 

 「えぇ、分かったわ。完璧にフォローしてあげる」

 

 ミナの笑顔は、それこそ猟犬のように獰猛なものだった。

 

 これがミナと猟犬の戦いで、フィリップが自分の後ろに隠れろと言ったのなら、彼女は頑として従わなかっただろう。

 だが、これはただの狩り。或いは夜の散歩みたいなものだ。ならばペットが自分の前に立つことに、何ら抵抗を感じる必要性はない。思うがままに笑い、遊び、戯れるだけだ。

 

 「──!!」

 

 猟犬が咆哮し、空間の歪曲が一段と強くなる。

 フィリップやミナの脳では、何がどうなっているのかを理解し言語化出来ないほどだ。今までもそうだったが、以前までのものが「歪み」だとしたら、これは「混沌」だった。

 

 だが──もはやフィリップにとって、時空の歪みは然したる問題では無くなった。

 

 「あれは虚仮脅しだ。ミナ、槍で僕を援護して」

 「そうなの? なら──」

 

 ミナは両腕を広げ、血の槍を展開する。

 総数は13。その一つ一つが城壁をも穿つ攻城兵装。ミナ自身の『ブラッドコフィン』が廊下をすっぽりと覆っていなければ、今度こそ塔を崩しかねない威力だ。

 

 しかし、そんな大火力の展開でさえ、数万の悪魔を一息で串刺しにすることも可能なミナにとっては児戯の範疇だった。

 

 「いいね! じゃあ──、ッ!」

 

 鋭い呼気で無駄な力を散らし、全速力で突貫するフィリップ。その周囲には14の節に分離した龍骸の剣を眷属のように従えている。

 

 呼応するように咆哮した猟犬が槍のような舌を伸ばして牽制するが、見当外れの場所を穿った。

 当たらない。目と脳で物を認識しているのなら、狙った攻撃は、フィリップには絶対に当たらない。

 

 蛇腹剣の一撃が猟犬の胴体に命中し、ぎゃりぎゃりぎゃり! と、金属質な音と共にオレンジ色の火花が散る。龍骸の剣に毀れはないが、猟犬の硬質な外皮の傷もまた浅い。

 

 それならそれでいい。

 フィリップの攻撃は特別な技ではなく、ただ剣を振っただけのものだ。猟犬の次元歪曲やルキアの『明けの明星』のような、確固たる自信を持った必殺技ではない。

 

 躱されたのならもう一度。効かなければもう一度。何度でも、何度でも、敵が死ぬまで繰り返すことが可能な通常攻撃だ。

 4メートルの間合いから繰り出される切り裂き抉り削ぐ連撃を、猟犬は躱したり受けたりしながら、じりじりと後退していく。蒼褪めた脳漿が血液の代わりのように飛び散るが、フィリップは一滴も浴びないように細心の注意を払い、その上で優勢を確保していた。

 

 狙い澄ました攻撃は当たらないし、大ぶりな攻撃はミナが放つ血で編まれた大槍が弾き飛ばしてくれるからだ。

 

 フィリップの心に、じわじわと安心感が湧いてくる。

 最大の武器でありイカサマ臭い性能を誇る次元歪曲を、同じくイカサマ臭い手段で無効化したとはいえ、あのティンダロスの猟犬を相手に戦えている。その自信はフィリップの口元を緩ませたが、その笑みが、フィリップから余裕を奪う原因となった。

 

 ティンダロスの猟犬は、その名の通り、尖鋭時空とも呼ばれるティンダロス領域で飼われている猟犬だ。地球に棲む犬とは似ても似つかないが、同じく飼い主の命に従って敵を追い詰めて狩り殺すためのモノ。尖鋭時空の中では、支配階級である住人たちに使役される手駒でしかない。

 

 しかし、意思無き傀儡ではない。

 人類の飼い慣らす猟犬が狩猟本能を利用されているように、ティンダロスの猟犬もまた、その種が持つ本能を利用して運用されている。

 

 狩猟本能や戦闘本能ではない。

 ティンダロスの猟犬が持つ最大のモチベーション。それは憎悪だ。

 

 人間が、動物が、魔物が。この曲がった世界に生きるありとあらゆるものが、憎くて憎くて堪らない。

 

 だから──フィリップの笑みは、奴らの神経を逆撫でするものだった。

 

 「──!!」

 

 舐めるな、とでも言わんばかりの、心胆を寒からしめる咆哮が上がる。

 

 手負いの獣が全力を振り絞る恐ろしさを、フィリップは狩人である父から聞いていたはずだった。ミナにとっては獣の捨て身など、踏み潰せばいいだけのことだった。

 

 しかし、猟犬の纏う空気が変わったことに気付き、警戒したのはミナだけだ。フィリップは既に猟犬の脅威判定を下方修正し、嘲笑と共に踏み潰すいつもの心に戻っていた。

 

 そして。

 

 「──、っ!?」

 

 蛇腹剣が美しい弧を描き、虚空を薙ぐ。研ぎ澄まされた金属が風を切る美しい音は、今はとても空虚に響く。

 確実に猟犬の首を捉えたつもりでいたフィリップは、驚愕に目を見開いた。

 

 避けられたわけではない。

 

 前は勿論、背後はミナが見ている。それから上下左右。

 何処を見ても、あの理解に苦しむ獣が見当たらない。……猟犬は忽然と消えていた。

 

 猟犬の消失と同時に、次元歪曲も消えている。視界はクリアだ。なのに見当たらない。動体視力に優れたミナにさえ、あの異常な姿を見つけられない。

 

 もしもミナの嗅覚が、戦闘開始以前から嗅ぎ続けていた悪臭によって麻痺していなければ、或いは気付くことも出来たかもしれない。だが結果として、ミナが猟犬を見つけたのは、奴が再び姿を晒した瞬間だった。

 

 ティンダロスの猟犬は、フィリップの手元から現れた。

 正確には、フィリップが手にした龍貶し(ドラゴルード)の刃部から。

 

 奴らは鋭角に潜み、角を通って移動し、そして出現する。それは技術ではなく生態であり、ティンダロスの猟犬であるなら呼吸や疾走の如く自然と扱える。唯一付随する条件も「角が120度以下であること」だけだ。

 

 剣の刃なんて、奴らにとっては誘導路みたいなものだった。

 

 「やば──」

 

 間抜けな声だ。そう思った。自分の声に笑ってしまうほど焦っていた。

 もっと間抜けだったのは、思わず拍奪の歩法で下がりながらも、剣を手放そうとしなかったことだ。出現元である剣から離れたら、拍奪の歩法で相対位置を誤魔化し、攻撃を透かせる可能性はあったのに──一緒に移動していては、相対位置認識欺瞞も何もあったものではない。

 

 猟犬は伸び上がり、今度こそフィリップの喉笛を噛み千切らんと大口を開ける。死体安置所の死臭が鼻を突いた。

 

 ずらりと並ぶ鋭い歯、粘度を持って滴る蒼褪めた涎、歪な形に折りたたまれた槍のような舌。迫り来る全てが強烈な忌避感を催させ、身体が本能に従って否応なく硬直する。心は全くの平常で、「怖い」とか「逃げよう」ではなく「気色悪い」という苛立ちを真っ先に抱いたというのに。

 

 心と体の齟齬はミナの城やシルヴァのいた森でも経験したことだが、ティンダロスの猟犬相手にその隙は致命的だった。

 

 ぶち、という衝撃。少し遅れて、鋭い風圧が顔を打った。

 

 「……あ」

 

 右腕に激痛が走る。

 ティンダロスの猟犬の上半身が飛び出た蛇腹剣がきりきり舞いで飛んでいく。赤い床に落ちたときに、べちゃっ、と耳障りな音を立てたのは、剣を握ったままの右腕がオマケで付いているからだ。

 

 「あ、アァ──っ!?」

 

 フィリップの右腕は、肩の先から十センチ程度を残して千切れ飛んでいた。

 傷の痛みと、12年間の人生でいつもそこにあった(モノ)が無くなった衝撃に、フィリップは何もかもを忘れて蹲り、ただひたすらに絶叫する。

 

 脇の下辺りを押さえてはいるが、止血を試みているわけではなく、ただ痛みが和らぐことを期待してのことだ。

 

 心臓が鼓動するごとにびちゃびちゃと血液が流れ落ち、毒々しく赤い廊下に鮮やかな色を混ぜた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

クトゥルフ神話要素の強さ塩梅

  • 多すぎる。もっとナーロッパ強くていい
  • 多いけどまあこのぐらいで
  • ちょうどいい
  • 少ないけどまあこのぐらいで
  • 少なすぎる。もっとクトゥルフしていい
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