「PL学園の生徒数…わずか39人に」高校野球“消えた名門”PL学園の今…聞こえた校歌のメロディ、封鎖されたPL花火大会の臨時改札「なぜ衰退したのか?」
春夏合わせて甲子園優勝7回。高校野球の超名門、PL学園野球部は今――同校を追い続ける記者がこの夏も大阪を訪ねた。封鎖されたPL花火大会用の臨時改札、聞こえてきた校歌のメロディ。名門はなぜ衰退したのか? 【全4回の1回目/2回目へ】 【実際の現地写真】「生徒数39人…PL高校の今の様子は?」現地を歩くと…「えっ…PL花火用の臨時改札が封鎖されている」「清原・桑田も当時いたグラウンドや寮の様子は?」現地写真30枚超を一気に見る 大阪の夏はかつて、PLの夏であった。 毎年、8月1日には国内最大級となる12万発を打ち上げるPL花火大会を開催し、会場となる富田林市一帯は数十万規模の人という人で埋め尽くされた。当日は近鉄電車が大阪阿部野橋駅から臨時電車を幾便も運行し、富田林駅には臨時改札が設けられたほどだ。
花火、甲子園…PLに熱狂した夏
PL花火大会は正式名称を「教祖祭PL花火芸術」といい、パーフェクトリバティー教団(PL教団)の初代教祖・御木徳一の遺言によって2代教祖・御木徳近が1953年にスタートした神事である。それゆえこの日には、PL教団の信者が全国から100台以上の大型バスに乗って教団聖地である富田林市を訪れていた。つまり、信者にとって花火大会の観賞はいわば聖地巡礼だったわけだ。 そして夏の全国高等学校野球選手権大会が始まればPL学園の硬式野球部が甲子園球場を席巻し、聖地でもどでかい花火(本塁打)を打ち上げた。最盛期は80年代だ。1983年に入学した桑田真澄と清原和博のKKコンビが5季連続で甲子園に出場し、2度、日本一に。1987年には立浪和義や片岡篤史らが春夏連覇を遂げた。アルプス席で巨大な人文字を描き、大阪の地図を描いたかと思えば一瞬にして日本列島の地図に転じるマスゲームのような応援も繰り広げ、絶大な人気を誇った。当時の野球少年たちは、ユニフォームの下にぶら下げたアミュレット(御守り)をギュッと握りしめ、祈りを捧げるPLナインの所作を真似したものだ。 ちなみに、花火大会の翌朝、PL学園野球部の選手たちは打ち上げ会場となる光丘カントリー倶楽部を練り歩き、花火の残骸を拾う通称「ガラ拾い」を行うのが慣例だった。だが、高校生にとって七面倒なこのガラ拾いが免除となる唯一の手段があった。野球部OBの宮本慎也氏は、かつて私の取材にこう証言している。 「夏の甲子園に出場することができたら、このガラ拾いは免除となる。PLの野球部の人間にとって、(大阪大会で敗退したことを意味する)あのガラ拾いだけは絶対にやりたくない、最も屈辱的なことなんです」 87年の春夏連覇に2年生ながら貢献した宮本氏は3年の夏、大阪大会で敗れ、その屈辱を味わうことになる。
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