斎藤茂太 旅の文学賞をいただいた
「斎藤茂太 旅の文学賞」という賞をいただいた。昨日、7月24日は授賞式だった。2016年に「斎藤茂太賞」として創設され、第10回を迎える今回から「斎藤茂太 旅の文学賞」に名前が改められたのだという。そこに「文学」という言葉があることの重みを、受賞の知らせをいただいてからの2ヶ月近く、ずっと考えていた。
ぼくが物書きとして仕事を始めたのは2007年のこと。特にどこかの編集部で働いていた経歴があるわけでもなく、右も左もわからない頃によく仕事をもらっていた雑誌のひとつが、扶桑社から出ていた『エンタクシー』という文芸誌だった。最初に『エンタクシー』に関わったのは、2007年夏号。評論家の坪内祐三さんが、古井由吉さん、赤瀬川原平さん、平成初期に『群像』の編集長をされていた渡辺勝夫さんの3名とそれぞれ対談をして、小特集を組む、という企画で、僕はその構成をする仕事を与えてもらった。その小特集は、70年代終わり頃からの純文学の変容について考える、というものだった。当時20代半ばだったぼくは、文学とは一体何だろうかと、おずおずした気持ちで収録の現場に同席していた。
ぼくが『エンタクシー』で担当していた仕事というのは、ほとんどが対談や座談会の構成役だった。そこで語られた言葉を文字に起こし、適宜編集し、ページに収まるように原稿にする。最初のうちは、それで原稿料をいただけるというのが不思議だった。別の言語で語られたものを日本語に翻訳しているならともかく、日本語で語られた言葉を日本語にまとめるだけで、お金をいただいてよいのだろうか、と。ただ、この構成の仕事というのが苦手な書き手もいるのだと、しばらく経って知った。「構成の仕事をしていると、『語り手はそこで何を言いたかったのか?』ということよりも、そこで語られていることに対して自分が言いたいことが浮かんでくるから、ちょっとやりづらい」。知り合いのライターの方がそう語っていて、そんなふうに感じる人もいるのかと意外だった。僕にとっては、自分が語りたいことよりも、「この人はどんなことを語るんだろう?」ということに興味があった。
『エンタクシー』では、西村賢太さんの対談連載の構成役も担当させてもらっていた。対談の収録が終わると、いつも西村さんと、編集の田中さんと一緒に酒場に繰り出した。「それで――はっちゃんはいつ、自分の作品を描くんだい?」一緒にお酒を飲んでいるときに、西村さんから何度かそんなふうに言葉を向けられたことがある。ただ、ぼくの中は「自分の作品を」という意識はまるでなくて、いや、そうですね、と言葉を濁してばかりいた。
その頃には『エンタクシー』だけでなく、『SPA!』で坪内祐三さんと福田和也さんの対談連載の構成も担当するようになっていた。『SPA!』は週刊誌だから、その連載だけで生活費は賄えるぐらいの原稿料をいただけた。それに加えて、季刊誌の『エンタクシー』が、3ヶ月に1度刊行される。だから、『エンタクシー』の原稿料が入ると、気の向くままに旅に出るようになった。取材という意識もまるでなく、「この旅を通じてなにかネタを手に入れよう」という考えもなしに、ただあちこちに出かけるようになった。
そうして移動を重ねるうちに、「これは自分が書いておかなければ」と思うテーマと出会って、本を書くようになった。最初に書いた『ドライブイン探訪』も、次に出した『市場界隈』も、基本的には聞き書きの本だ。だから、最初に仕事を始めた頃から一貫して、誰かの声を聞いて活字にまとめる「構成」という仕事を重ねてきたように思う。
ただ、そうして自分の著作を書いていくうちに、自分の中にある疑問が生まれた。聞き書きはとても大事な仕事ではあるのだけれども、聞き書きだけでその相手のことを、そのお店のことを、その土地のことをしっかり書いたと言えるのだろうか?
これは、ここ最近もずっと考えていることだ。なにか考えるヒントが欲しいとき、やっぱり坪内さんの本に手が伸びる。ここ最近は『まぼろしの大阪』を読み返していた。その冒頭に収録された「まぼろしの大阪」という一篇はこう書き出される。
東京が四十度を越えたという二〇〇四年七月末のある日の午後三時、私は、大阪にいた。
その日の大阪の最高気温は平年なみの三十六度だったというが、連日三十八度を越える東京にいた私は、その暑さが少しも気にならなかった。
むしろ、私は、その大阪らしい暑さをよく味わってみたかった。
大阪らしい暑さ。
明治生まれの画家・小出楢重は、「春眠雑談」という随筆の中で、それを「温気」という言葉で表現する。関東の場合、真夏であっても「何か一脈の冷気のようなものが、何処とも知れず流れている」けれど、「一晩汽車にゆられて大阪駅へ降りて見ると、あるいはすでに名古屋あたりで夜が明けて見ると、窓外の風景が何かしら妙に明るく白ばくれ、その上に妙な温気さえも天上天下にたちこめているらしいのを私は感じる」と。この随筆を引いたあと、坪内さんは「なるほど、夏の新大阪駅に降り立った時に、私が感じる独特の皮膚感、あれを『温気』というのか」と続ける。
東京の夏から、「何か一脈の冷気のようなもの」は今や完全に消えてしまった(例えば去年のように冷夏と呼ばれる夏であっても、それはただのまさに「冷夏」にすぎない)。
東京の夏も熱帯的になってきたと言う人がいるが、それは違う。もっと人工的で、耐えがたい暑さだ。
それに対して、大阪の夏の暑さには小出楢重のいう「温気」がまだ残っている。
こうした文章を読むにつけ、考え込んでしまう。自分はこんなふうに土地と向き合って言葉を綴っているだろうか、と。誰かの声と出会って、それを聞き書きとして記録した上で、自分はその土地に何を感じ取ることができるのか、自分の目は何を見出すことができるのか、もっと突き詰めて考えなければならないんじゃないか。そこから生まれたのが、「観光地ぶらり」だった。
この企画を相談するなら、森山さんしかいない、と最初から思っていた。森山さんと出会ったのは、ぼくがまだ学生だった頃だ。大学4年生の頃に、ぼくは単位交換システムで(最初はただ「誰でも単位がもらえる」という話を聞いて)坪内祐三さんの授業を受講するようになった。
授業があるのは、水曜の5限。授業が終わると、坪内さんは希望する学生を、近くの「金城庵」というお蕎麦屋さんに連れて行ってくれた。そこには坪内さんの担当編集者の方達もよく顔を出されていて、そのひとりが森山さんだった。当時森山さんは『QJ』の編集長をされていて、ぼくが友人たちと『HB』というリトルマガジンを創刊したときには、編集長を退任されたばかりの森山さんにインタビューさせてもらった。そして、森山さんが編集長となってリニューアルされた『マンスリーよしもとPLUS』という雑誌が、ぼくが20代だった頃によく仕事をさせてもらっていたもうひとつの雑誌だった。
森山さんと打ち合わせをしたのは、2022年7月11日。その日は西村賢太さんのお別れの会がひらかれた日で、普段はほとんど着ることのない黒のスーツを引っ張り出し、汗だくになりながら待ち合わせ場所へと向かった。待ち合わせ場所というのは、新宿の京王ビアガーデンだった。ビールで乾杯して、企画の相談をした。その時点で、ぼくの中ではタイトルは「観光地ぶらり」以外ないと思っていた。森山さんはすぐに「やりましょう」と快諾してくださった。
「観光地ぶらり」と言いながら、ぼくの「旅」は全然ぶらりとしていない。とにかく事前に調べ物をするし、細かく予定を組んでしまう。それなのに、「ぶらり」という言葉を選んだのは、田中小実昌のことがどこか頭にあったからだ(『観光地ぶらり』の広島の章では、田中小実昌を引用してもいるけれど、その段階では本の中で田中小実昌を引くことは考えてもいなかった)。田中小実昌が、訪れた土地を直観的に掴み取っていたように、自分がその土地に何を見出すことができるのかを考えたいと思って、ぶらり、という言葉が浮かんできたのだった。それは、あえて言葉にするとすれば、自分なりに文学とは何かと、自分なりの文学とは何かと考える試みでもあったような気がしている。
そうして書き綴った『観光地ぶらり』が、「文学」という名を冠した賞をいただけたことは、大変光栄であるのと同時に、背筋がのびるような思いがする。昨日の授賞式のあと、選考委員の椎名誠さんが「どんどん書いてください」と声をかけてくださったけれど、とにかく書ける限り書き続けていくしかないのだと思う。副賞としていただいた30万で、今度はどこに行こうかと考えている。
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