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渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

写真

2025年07月29日 | open




ネット上に出る写真では
自分が手掛けるウェブ以
外で、「あ、これ俺が撮っ
た写真」てのがたまにあっ
たりする。
人はいろいろ画像を使っ
て何かを伝えたい時があ
るが、著作権とか版権と
か肖像権とか一切抜きに
して「誰が撮ったか」と
いうのを写真をアップし
て使う人間は忘れがち。
「そのお前の写真、誰が
撮影したのよ」という感
じで。特に人物写真。
自分が写る写真を使って
何かを表現したり主張し
たり広めたりする時に、
自分を撮ってくれた人の
事を忘れて使ってるとい
うのは、結構深い所では
駄目だと思うよ、俺は。
人としての心の立ち位置
が。
法的権利がどうのこうの
ではなく。
今の時代、撮られた人の
ほうのことばかりが肖像
権とか法的にどうのこう
のいわれる事が多いけど、
撮った人の事に目を向け
て、特に自分の写真など
についてはその時の状況
と周囲と撮影してくれた
人の事を振り返る事も大
切なんじゃないかな。
そこを自分で自分が見え
るかどうかというのは、
本当のところで人と人の
繋がりを自分がどう捉え
てどう行動しているかと
いう反証でもあると思う。
まさに、自分が写されて
いる写真は自分を写す鏡
であってさ。

俺のこの上掲画像は古い
付き合いの野外遊戯仲間
が撮影してくれた。
真夏に遊戯仲間が集まる
キャンプ場のテン場付近
にカワサキのバイクで入
って行った時のものだ。
全く撮影された事を知ら
なかったが、あとから画
像を貰った。
結構気に入ってる。

人は自分が何かやる時、
自分だけの力でそれがで
きたかのように勘違いし
やすい。他人が関与して
くれているからその行動
ができたという事を頭か
ら完全に忘れがち。
それはある意味、人の世
で人間アルアルなのだろ
うが、ふと冷静に自分と
人を見つめる事も大切な
んじゃないかな。
特に自分の写真だよね。
「誰が撮ってくれたのか」
というのはホントに忘却
しがちだが、おいらはで
きる限り心に刻んで、そ
の人の事を忘れないよう
にしているよ。
これはかなりの大昔から。
昭和30年代の東京オリン
ピックの頃から(笑

 


 
 


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