【プレイバック’15】実は30人が亡くなっていた!? 群馬大病院医療事故〝問題医師〟を直撃した!
外部調査委員会は病院の責任も指摘
’15年8月に外部メンバーによる調査委員会が発足、その調査によって、X医師が群馬大病院に着任した’07年から’14年の間に他にも12人の死亡例があったことが明らかになり、死亡者は計30人となった。また、同委員会が’16年7月に出した報告書では、X医師の問題については病院のガバナンスに原因があったと結論付けた。
医療事故の原因については、それまではX医師の個人的な資質について取り沙汰されることが多かったが、群馬大病院の構造的な問題が指摘されたのだ。
同病院は全国の大学病院でも珍しい、同一病院に異なる外科が存在するシステムだった。前身の前橋医学専門学校時代からあった第一外科にくわえて、1954年に分派する形で第二外科(臓器病態外科学分野)が開設された。以降、2つの外科は同じ病院内で対立してきた。この問題については『FRIDAY』’15年3月27日号でも指摘しており、取材に対してある群馬大医学部OBは次のように証言している。
《「手術数や珍しい症例での競い合いは日常茶飯事です。歴史のある第一に比べ、第二はベンチャー企業というイメージ。それだけに、第二の医師には『一発当てて大出世を狙う』と言う者もいた。『群大は最先端』と誇っていた腹腔鏡手術なども、そんな空気の中で乱発されたように感じられます。会見で陳謝していた野島美久(よしひさ)病院長はじめ上層部も、第一と第二の患者不在の張り合いは承知していましたが、一部の有志が改善を訴えても、黙殺されるばかりだったそうです」》
’18年8月、遺族会との間で和解が成立し、病院側はあらためて体制の不備と医療ミスを謝罪した。和解に際して病院側は再発防止策を遺族会との「約束条項」に盛り込むことも約束した。X医師は’16年の外部調査委員会の報告書を受けて大学側から懲戒解雇相当(’15年3月で自主退職していたため)となっている。
その後の群馬大病院は地道に自主改革への道を歩んできたようだ。第一、第二外科の統合もそうだが、とくに画期的なのが患者へのカルテの開示だという。一般の病院でもカルテを見ることができるが、申請が必要で閲覧できるのは治療が終わって一定期間経った後、という例が多い。だが、群馬大の場合は患者が希望すれば、自分の電子カルテにアクセスできてリアルタイムで閲覧できる。これは国内の病院ではほとんどないそうだ。
だが、この先進的な制度が実現した陰には、多くの患者が理不尽に命を落とすことになったこの事故の存在があったことを忘れてはならないだろう。群馬大病院の敷地内には『誓いの碑』が建てられ、毎年9月の医療安全週間には関係者らが集まって手を合わせているという。