朝、平和のミサが始まる前に、大聖堂を訪れた。大聖堂は、ひとたび中に入ると、それが模したといわれるローマのサンピエトロ寺院とは本質的に異なる構想のもとに造られていることがわかる。ヨーロッパの伝統的な教会建築が、暗く荘厳な雰囲気にあるのに対して、この大聖堂の内部は光と色彩に包まれている。
大聖堂の全ての壁面が、全面のステンドグラスで飾られている。外の日の光が、多彩な色とともに運び込まれる。ステンドグラスには、旧約・新約の聖書の物語が光り輝いている。そして、ドームの最上部には、聖霊を象徴する羽を広げた鳩が描かれ、その鳩から無数の輪が、見上げる人に向かって広がって降りてきている。ドームは余りに高いので、どこに場所を移そうが、聖霊が常に自分の真上にあるように見える。これは巨大な交響楽だ。これほどの規模で、このように全方位から人を包みこむ芸術作品を、かつて見たことはない。
ミサが始まるのを待つ間、静かなお祈りが繰り返される。参列の人々がだんだんに会堂に集まってくる。溢れる光に包まれながら、ゆったりと過ぎる時間。日ごろの雑念を捨てて、心を透明にする時間が演出されている。しばらく待っていると、会堂の外から何やら賑やかな軍楽隊の演奏が聞こえてきた。そして、バグボ大統領が、真っ白なシャツを着ただけの姿で現れた。大統領は最前列に座り、それを合図にミサが始まる。
ミサは、カトリックの典礼どおりの、万国共通の式次第で進む。しかし、聖歌はコートジボワール流で、太鼓のリズムや、踊りの音楽に乗りながら、「キリエ・エレイソン(主よ憐れみ給え)」などを歌っている。参列者も、手拍子で音楽に合わせて体を動かしている。ここには原罪、苦難、懺悔、審判そうしたものは見当たらない。愛、救済、復活、平和、明るいテーマばかりだ。磔刑のキリストの像は、どこにも掲げられていない。何といっても、ここは聖マリアの大聖堂である。
バチカン大使が、説教壇に上がる。会堂を埋めた聴衆に語りかける。「平和の王子」によるイスラエルの再統一を預言した、旧約聖書の「イザヤ書」から引用して、コートジボワールの平和について説く。
「これまでの対立を克服し、国民和解と平和にむけて、全てを許す心を持たなければなりません。これは、この国の全ての人々、とくに国を支える全ての責任ある人々が、自らの務めであるとして負わなければならない義務なのです。そして、その許す心と寛容の気持ちを持つことで、人は神に近づくことになります。」
なんと、バグボ大統領を前に説教をしている。ここは教会なのだから、大司教と同格のバチカン大使が説教をしていて、何ら不思議はないのである。それでも、バグボ大統領を聴衆において、国民和解の心構えについての説教というのは、なかなか得難い機会だ。
「神に祈りましょう。選挙の前にも、その最中にも、そしてその後にも、この国が決して暴力に覆われることのないように。」
バグボ大統領は、手を前に組んで、神妙に聞いている。
聖餐式のお祈りがあって、平和の挨拶を交わしましょう、と促された。周りに座っている人々と、言葉を交わして握手をする。バグボ大統領が席を立って、われわれ大使連中の席にやってきた。各国大使とともに、私も「こんにちは」と、握手をして挨拶をする。「こんにちは」と大統領、微笑む。いつもは警護の人々や取り巻きの人たちに囲まれ、緊張感を周囲に漂わせている大統領が、この教会堂の席では、白シャツ姿で一人。
何とも不思議な、和やかな雰囲気である。この大聖堂を浪費と呼ぶのはたやすいが、その浪費があったお陰で、今ここに、このような時間と、人々の出会いが実現している。一国の運命を握る大統領が、寛容を説くメッセージを聞いている。ステンドグラスの壮麗な光に包まれて、人々は日常から離れて内省する機会を得る。この途方もない大空間は、明らかに生命を持っている。この大聖堂は、単なる記念碑や虚飾ではなく、人々が集まり、人々が何かを生み出している、生きた建物である。
大聖堂の全ての壁面が、全面のステンドグラスで飾られている。外の日の光が、多彩な色とともに運び込まれる。ステンドグラスには、旧約・新約の聖書の物語が光り輝いている。そして、ドームの最上部には、聖霊を象徴する羽を広げた鳩が描かれ、その鳩から無数の輪が、見上げる人に向かって広がって降りてきている。ドームは余りに高いので、どこに場所を移そうが、聖霊が常に自分の真上にあるように見える。これは巨大な交響楽だ。これほどの規模で、このように全方位から人を包みこむ芸術作品を、かつて見たことはない。
ミサが始まるのを待つ間、静かなお祈りが繰り返される。参列の人々がだんだんに会堂に集まってくる。溢れる光に包まれながら、ゆったりと過ぎる時間。日ごろの雑念を捨てて、心を透明にする時間が演出されている。しばらく待っていると、会堂の外から何やら賑やかな軍楽隊の演奏が聞こえてきた。そして、バグボ大統領が、真っ白なシャツを着ただけの姿で現れた。大統領は最前列に座り、それを合図にミサが始まる。
ミサは、カトリックの典礼どおりの、万国共通の式次第で進む。しかし、聖歌はコートジボワール流で、太鼓のリズムや、踊りの音楽に乗りながら、「キリエ・エレイソン(主よ憐れみ給え)」などを歌っている。参列者も、手拍子で音楽に合わせて体を動かしている。ここには原罪、苦難、懺悔、審判そうしたものは見当たらない。愛、救済、復活、平和、明るいテーマばかりだ。磔刑のキリストの像は、どこにも掲げられていない。何といっても、ここは聖マリアの大聖堂である。
バチカン大使が、説教壇に上がる。会堂を埋めた聴衆に語りかける。「平和の王子」によるイスラエルの再統一を預言した、旧約聖書の「イザヤ書」から引用して、コートジボワールの平和について説く。
「これまでの対立を克服し、国民和解と平和にむけて、全てを許す心を持たなければなりません。これは、この国の全ての人々、とくに国を支える全ての責任ある人々が、自らの務めであるとして負わなければならない義務なのです。そして、その許す心と寛容の気持ちを持つことで、人は神に近づくことになります。」
なんと、バグボ大統領を前に説教をしている。ここは教会なのだから、大司教と同格のバチカン大使が説教をしていて、何ら不思議はないのである。それでも、バグボ大統領を聴衆において、国民和解の心構えについての説教というのは、なかなか得難い機会だ。
「神に祈りましょう。選挙の前にも、その最中にも、そしてその後にも、この国が決して暴力に覆われることのないように。」
バグボ大統領は、手を前に組んで、神妙に聞いている。
聖餐式のお祈りがあって、平和の挨拶を交わしましょう、と促された。周りに座っている人々と、言葉を交わして握手をする。バグボ大統領が席を立って、われわれ大使連中の席にやってきた。各国大使とともに、私も「こんにちは」と、握手をして挨拶をする。「こんにちは」と大統領、微笑む。いつもは警護の人々や取り巻きの人たちに囲まれ、緊張感を周囲に漂わせている大統領が、この教会堂の席では、白シャツ姿で一人。
何とも不思議な、和やかな雰囲気である。この大聖堂を浪費と呼ぶのはたやすいが、その浪費があったお陰で、今ここに、このような時間と、人々の出会いが実現している。一国の運命を握る大統領が、寛容を説くメッセージを聞いている。ステンドグラスの壮麗な光に包まれて、人々は日常から離れて内省する機会を得る。この途方もない大空間は、明らかに生命を持っている。この大聖堂は、単なる記念碑や虚飾ではなく、人々が集まり、人々が何かを生み出している、生きた建物である。
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