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コートジボワール日誌

在コートジボワール大使・岡村善文・のブログです。
西アフリカの社会や文化を、外交官の生活の中から実況中継します。

神様の値段

2008-11-21 | Weblog

ヨーロッパで買ったガイドブックのどれにも、好意的な書き方はされていない。現代人の感覚からは、やはり壮大な浪費と映る。いったい、いくらのお金が費やされたのか。ヤムスクロの大聖堂の施主であるウフエボワニ大統領は、生前そう質問されたとき、いつもこう答えたという。「神様には値段は付けられない。」

コートジボワールの多くの人々は、この大聖堂を誇らしく思っている。莫大な建設費は、貧困撲滅や開発のために使うべきではなかったのか。そう聞かれると、コートジボワールの人は次のように答えるのだという。
「シャルトルの大聖堂が建ったとき、フランスに貧困が無かったというのか。カンタベリー大聖堂が建ったとき、英国は十分豊かだったというのか。」

それでも、欧米の人たちは心理的反発を隠さない。法王ヨハネ・パウロ2世が、1990年にここヤムスクロを訪れて、ウフエボワニ大統領から、大聖堂及び広大な敷地の寄贈を受けた。実はヨハネ・パウロ2世は「乗り気ではなかった」のだ、といくつかの本に記されている。

11月15日は、コートジボワールの休日「平和の日」。首都ヤムスクロの大聖堂では「平和のミサ」が行われる。バチカン大使が、今年の平和のミサを主宰するというので、私をはじめ、何人かの大使たちを招待してくれた。私は着任後初めて首都を訪れ、そしてヤムスクロの大聖堂を間近に見る機会を得た。

ミサの前日に、ヤムスクロに入った。アビジャンから車で230キロ。ヤムスクロに近づくと、道路は広くなり、人の往来が活発になる。そして、唐突に、地平に横たわる巨大な伽藍とドームが見えてくる。首都とはいえ、国会や政府の省庁は未建設で、大きな建物といえば高層ホテルが一棟と、国際会議場が建っているだけである。商店や銀行などの建物は、せいぜい3階建てのありきたりの建築。町全体に広がるほとんどの民家は、粗末な家屋である。だから、ヤムスクロの大聖堂は荘厳で美しいのではあるが、確かにその大きさのあまり、このヤムスクロには場違いな印象がある。

さて、ヤムスクロに到着したのは既に夕刻になっており、暮れゆく空を背景に、卵の殻を伏せたようなドームが美しい輪郭を描いていた。大聖堂を管理する総責任者の、スクザ神父の出迎えを受ける。スクザ神父はポーランド人。ここ大聖堂にもう17年間勤めているという。今晩は、敷地内の迎賓館の一室に泊めてもらうことになっている。バチカン大使も、先に到着していた。

夜がとっぷり深けると、夕食を囲んで、スクザ神父、バチカン大使、ほかの神父さんたちと一緒に話をする。神父さんたちの食事とはさぞかし堅苦しいものだろうと思っていたら、食前のお祈りがある以外は、普通の食事である。ビールもワインも飲むし、煙草も吸っているので安心する。スクザ神父のところに電話が入る。明日のミサに、バグボ大統領が出ることになったという。

大聖堂についての説明を聞く。この大聖堂は、1986年から3年余をかけて完成した。ローマのサンピエトロ寺院とほぼ同じ構成、頂点までの高さが158メートルの世界一のドームと、数多くの円柱が立ち並ぶ前庭を持つ。巨大円柱は386本に及ぶ壮大な構築物だ。そして直径90メートルのドームの内部は、パリのノートルダム寺院の鐘楼部分がすっぽり納まってしまうほどの高さと空間である。

スクザ神父が言う。
「大聖堂を囲むこの土地は、150ヘクタールあります。これだけの土地が、ウフエボワニ大統領により法王に寄贈されました。だから、ここは法王庁の領土、しかもその面積がバチカン市国そのものよりもはるかに広い領土なのです。」(注:バチカン市国は44ヘクタール)
ローマで万が一何かあったら、法王はこちらに引っ越して来れますね。
「そうなれば、カトリック信者が大挙して聖地ヤムスクロに礼拝に来るから、コートジボワールはさぞかし発展するでしょう。」
スクザ神父は笑って言う。それは冗談としても、この大聖堂寄贈で、コートジボワールは明らかに、バチカンとの紐帯を強めたといえる。

夕食での話題は、2002年の南北分裂の時の話に及ぶ。ヤムスクロの100キロ北にある主要都市ブアケを、反乱軍が制圧した。北部の部族の人々による軍である。ブアケに住んでいたバウレ族の人たちは、身の危険を感じて南に向けて逃げた。南北の境界線は、ヤムスクロとブアケの間に引かれた。

コートジボワール人のクナン神父が語る。
「あれほどの悲惨を、自分が人生において体験するとは思わなかった。ブアケでは反乱は鎮圧されたと放送されたから、一時は反乱軍の味方を追い出そうとした。そうしたら、実は鎮圧などされてなくて、本格的に反乱軍が乗り込んでくることが分かった。それからは、パニックになった。バウレ族の人々は、何もかも棄てて、とにかく南に逃げた。自分がバウレ族だと分かるから、身分証明書も捨ててきた。大量の人々が、ヤムスクロに流れ込んできた。皆、着のみ着のままだった。その日から、大聖堂では徹夜の救援活動が始まった。」
この聖地においても、「危機」は容赦なく訪れ、大聖堂は救いを必要とする人々を収容した。命からがら逃げてきた人々の目に、大聖堂はどのように映ったことだろう。

観光で訪れる人々は、伽藍しか見ない。大聖堂とともに生きている人々は、そこに過去の蓄積を見、未来の夢を託す。歴史とともに、経験とともに、人々の心に大聖堂の価値が積み重なっていく。それこそが、「神様の値段」といえるものなのだろうか。

(続く)

 ヤムスクロ大聖堂遠景

 近づくと大きなドーム

 ドームはノートルダム寺院がすっぽり入る大きさ

 ローマのサンピエトロ大聖堂と同じ柱列がある。

 建物に近づくと、床は総大理石

 壁はステンドグラスで覆われる。

 堂内のステンドグラス

 光に囲まれた堂内

 聖母子像

 キリスト像

 最後の晩餐

 ウフエボワニ像(手前)


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1 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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世界ふしぎ再発見 (銀座のおけいはん)
2008-11-21 20:32:16
とても楽しく拝見いたしました。日本ではいろいろと忙しく、コートジボワール流に考えることも必要なのかもしれないと、ふと考えました。(段取りしないこと)神様とか宗教は人間から切り離して考えられないものなので、そこから考えれば日本の檀家制度は画期的なのか?とも考え、このブログを拝見することで、「再発見」することが多いと思うのは私だけでしょうか?!     
  
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