学校給食事業の式典があるので、日本大使に来てくださいという招待状が来た。招待状の片側には、スポンサー企業などのロゴと並んで、日の丸が堂々と印刷してある。日の丸を背負った話なら、もちろん出席しなければ。しかしながら、この学校給食事業とは何だ。日本政府が、現在そのような事業にお金を出しているはずはないのだが。調べてみると、私の全くの不勉強であり、次のようないい話があることが分かった。
コートジボワールでは、独立以来、初等教育の義務教育化を進めてきた。ところが、農村部では、なかなか子供たちが学校に来ない。来ても、学力が上がらない、あるいは中途でやめてしまう、そうした問題があった。子供たちが勉学に集中できない事情、それは何より、子供たちは腹ぺこだったのだ。
農村では、子供たちも貴重な労働力である。畑では、両親の仕事の手伝いをしなければならない。女の子は、畑に出ている母親の代わりに、家で留守番をして、食事の準備や子供の面倒など、家事をしなければならない。多くの村々にとって、小学校は遠く離れており、子供たちは数キロの道のりを歩いて通う、それだけでも子供たちの小さな体には負担である。こうした重労働と勉学とを両立させるため、学校給食が重要な課題となった。
さて、それでは解決策だ。学校給食の食堂を各地に建設して、そこに政府から食料を支給しよう。そういう短絡な発想に飛びつかなかったのが、コートジボワールの人たちの偉いところだ。単に食堂や食料の問題ではない。食堂を建てても、そのうち倉庫になってしまう。政府の食料供給に頼ると、政府補助金が無くなればそれでおしまい。金の切れ目が事業の切れ目。おそらく数年もすれば、制度は形骸化し、学校給食は途絶えてしまうだろう。
コートジボワールの人たちが、学校給食が永続的な事業として続くように編み出した方式。それは驚くなかれ、地元住民による食糧供給の自給自足である。食堂を建てるとともに、近くに土地を確保して農地に開拓し、5年間かけて学校給食に必要な食料を、全て村内生産でまかなうようにするというのである。
事業が開始された。村ごとに給食委員会が創設され、母親を中心とする女性生産グループが運営を任された。母親は子供たちのこと、子供に食べさせる食事のことを、いつも考えているから、運営には真剣に取り組む。政府は、この給食委員会に対して、食料ではなく、コメの種籾や肥料や農機具を供与し、生産指導を行った。それも、最初の1回目だけ、という限定つきだ。あとは、種籾や農機具の買い替えなど、全部給食委員会が自律的に計画していかなければならない。
この「学校給食自給自足」事業は、コートジボワール政府によって、1999年以来、積み重ねられている。そして、日本政府はこの事業を評価し、2003年および2004年に、合計23億フラン(4億7千万円)の資金供与をした。このてこ入れによって、事業は大きく拡大して定着した。子供たちの出席率が向上し、中途退学が格段に減った。卒業試験合格率も5%の幅で向上している。子供たちの栄養状態も改善した。
村々では、給食委員会が成果を競い合うようになり、今や自発的な事業として、家畜・野菜の生産、保健衛生改善事業などを行うようになっている。1989年には277ヶ所しかなかった学校給食の食堂は、2008年には5046ヶ所に増えた。これらの食堂で食事をする生徒は、全国で135万人。給食委員会は、804を数え、合計2060ヘクタールを耕し、全部で4300万トンの食料を生産する、本格的な農業生産組合になった。
日本はその駆け出しの頃に資金援助をしたから、国民教育省の担当部局は、日本をこの事業の育ての親のように考えてくれている。そういうわけで、今もって日本大使が式典に呼ばれ、パンフレットにはいつも日の丸が掲げられる。これまた、私の手柄ではなく、この事業を見つけてきた昔の大使館員や、この計画にお金を付けることを決めた担当者たちの手柄なのであるが、日本に感謝してくれるというなら喜んで式典の賓客として出席しよう。そういうわけで、私は出かけていった。
(続く)
コートジボワールでは、独立以来、初等教育の義務教育化を進めてきた。ところが、農村部では、なかなか子供たちが学校に来ない。来ても、学力が上がらない、あるいは中途でやめてしまう、そうした問題があった。子供たちが勉学に集中できない事情、それは何より、子供たちは腹ぺこだったのだ。
農村では、子供たちも貴重な労働力である。畑では、両親の仕事の手伝いをしなければならない。女の子は、畑に出ている母親の代わりに、家で留守番をして、食事の準備や子供の面倒など、家事をしなければならない。多くの村々にとって、小学校は遠く離れており、子供たちは数キロの道のりを歩いて通う、それだけでも子供たちの小さな体には負担である。こうした重労働と勉学とを両立させるため、学校給食が重要な課題となった。
さて、それでは解決策だ。学校給食の食堂を各地に建設して、そこに政府から食料を支給しよう。そういう短絡な発想に飛びつかなかったのが、コートジボワールの人たちの偉いところだ。単に食堂や食料の問題ではない。食堂を建てても、そのうち倉庫になってしまう。政府の食料供給に頼ると、政府補助金が無くなればそれでおしまい。金の切れ目が事業の切れ目。おそらく数年もすれば、制度は形骸化し、学校給食は途絶えてしまうだろう。
コートジボワールの人たちが、学校給食が永続的な事業として続くように編み出した方式。それは驚くなかれ、地元住民による食糧供給の自給自足である。食堂を建てるとともに、近くに土地を確保して農地に開拓し、5年間かけて学校給食に必要な食料を、全て村内生産でまかなうようにするというのである。
事業が開始された。村ごとに給食委員会が創設され、母親を中心とする女性生産グループが運営を任された。母親は子供たちのこと、子供に食べさせる食事のことを、いつも考えているから、運営には真剣に取り組む。政府は、この給食委員会に対して、食料ではなく、コメの種籾や肥料や農機具を供与し、生産指導を行った。それも、最初の1回目だけ、という限定つきだ。あとは、種籾や農機具の買い替えなど、全部給食委員会が自律的に計画していかなければならない。
この「学校給食自給自足」事業は、コートジボワール政府によって、1999年以来、積み重ねられている。そして、日本政府はこの事業を評価し、2003年および2004年に、合計23億フラン(4億7千万円)の資金供与をした。このてこ入れによって、事業は大きく拡大して定着した。子供たちの出席率が向上し、中途退学が格段に減った。卒業試験合格率も5%の幅で向上している。子供たちの栄養状態も改善した。
村々では、給食委員会が成果を競い合うようになり、今や自発的な事業として、家畜・野菜の生産、保健衛生改善事業などを行うようになっている。1989年には277ヶ所しかなかった学校給食の食堂は、2008年には5046ヶ所に増えた。これらの食堂で食事をする生徒は、全国で135万人。給食委員会は、804を数え、合計2060ヘクタールを耕し、全部で4300万トンの食料を生産する、本格的な農業生産組合になった。
日本はその駆け出しの頃に資金援助をしたから、国民教育省の担当部局は、日本をこの事業の育ての親のように考えてくれている。そういうわけで、今もって日本大使が式典に呼ばれ、パンフレットにはいつも日の丸が掲げられる。これまた、私の手柄ではなく、この事業を見つけてきた昔の大使館員や、この計画にお金を付けることを決めた担当者たちの手柄なのであるが、日本に感謝してくれるというなら喜んで式典の賓客として出席しよう。そういうわけで、私は出かけていった。
(続く)