ブルキナファソ大使は、この国に、ブルキナファソ人が250万人から300万人いる、と言う。殆どの人が、移民労働者としてプランテーションに出稼ぎに来て、そのまま生活の地をコートジボワールに定めた人たちだ。ちなみにコートジボワールの人口は、1800万人であるから、人口の6分の1近くになる。同じように、マリからの移民労働者も数多くいて、その他の国からの人々も入れると、外国人労働者が居住人口に占める割合は、なんと26%にのぼる(1998年調べ)。驚くなかれ、コートジボワール国内に生活する4人に一人は、外国人なのだ。
日本で話題になる「外国人労働者問題」とは、桁が違う。よくこれだけの外国人を許容しているものだ。つくづくコートジボワールの寛容さに感心する。この国の外国人受け入れは、60年代から80年代にかけて、カカオやコーヒーのプランテーションを拡大していく過程で、必要な労働力を外国人労働者に頼ったことにはじまる。故ウフエ・ボワニ大統領は、経済成長達成の原動力として、外国人労働者を積極的に歓迎した。
実際のところ、アフリカの他の国の例に漏れず、国境は人為的に引かれたものであり、コートジボワールの北部に住む人々は、ギニア、マリ、ブルキナファソとの国境の向こうに住む人々と、同じ部族であった。どちらの国の国民であるか、という意識もなく、いつの頃からかコートジボワールに移動してきた人々も多かった。そういう人々を区別したり、排除したりするというようなことは、あまり人々の意識に上らなかった。
外国人が長期に滞在していても、不法滞在とされることはなかった。そして、何と外国人も、選挙に参加することが認められていたのである。といっても、当時はウフエ・ボワニ大統領の政党、コートジボワール民主党(PDCI)の一党しかなかったし、大統領選挙の候補はウフエ・ボワニ以外には居なかったわけだから、外国人であろうがなかろうが選挙には余り意味はなかった。
そうした外国人に寛容な姿勢が、大きく変容していく。80年代、カカオの価格の下落により、コートジボワールの経済は停滞、社会の不満が学生運動などを通じた民主化要求に発展する。頼りのフランスも、ミッテラン大統領が「経済援助の是非は、民主主義がどれだけ実現しているかを見て決める」と宣言し、コートジボワールの民主化を求めるようになる。ウフエ・ボワニ大統領は、ついに一党制を放棄し、複数政党制に移行する決断をする。それで、1990年の大統領選挙で、はじめてPDCI以外の政党が認められ、ウフエ・ボワニ大統領に対抗する候補者が出た。コートジボワール人民戦線(FPI)のバグボ党首であった。
この民主化の動きが、どうして外国人政策に関連するのか、と思えるだろう。それはこういう次第だ。独立以来、はじめて対抗馬のいる本物の選挙を行うことになって、皆が真剣になった。有権者をきちんと定義しなければということになり、選挙人名簿をつくって、投票権を有するコートジボワール人と、そうでない外国人を区別することになった。外国人は、コートジボワール政府の発行する、滞在許可証を持っていなければならない、ということになった。
外国人には身分証を発行し、彼らは投票できないとするのは、当たり前の決定であるように思える。ところが、ここは日本と違ってコートジボワールである。戸籍制度が古くからあって、自国民と外国人を峻別できる国とは事情が違う。長い歴史の中で国境のあっちとこっちを行き来し、国境のどちらにも親戚が居るような人々を、誰々が自国人、誰々が外国人と、簡単には区別できはしなかった。そこを無理にでも区別しよういう動きがはじまった。その根底には移民排斥の感情があり、それが政治に利用された。
ブルキナファソから来て定着していた人々と、ブルキナファソと民族を共通にする、コートジボワール北部の人たちが、この政治に最も大きく翻弄されることになる。
日本で話題になる「外国人労働者問題」とは、桁が違う。よくこれだけの外国人を許容しているものだ。つくづくコートジボワールの寛容さに感心する。この国の外国人受け入れは、60年代から80年代にかけて、カカオやコーヒーのプランテーションを拡大していく過程で、必要な労働力を外国人労働者に頼ったことにはじまる。故ウフエ・ボワニ大統領は、経済成長達成の原動力として、外国人労働者を積極的に歓迎した。
実際のところ、アフリカの他の国の例に漏れず、国境は人為的に引かれたものであり、コートジボワールの北部に住む人々は、ギニア、マリ、ブルキナファソとの国境の向こうに住む人々と、同じ部族であった。どちらの国の国民であるか、という意識もなく、いつの頃からかコートジボワールに移動してきた人々も多かった。そういう人々を区別したり、排除したりするというようなことは、あまり人々の意識に上らなかった。
外国人が長期に滞在していても、不法滞在とされることはなかった。そして、何と外国人も、選挙に参加することが認められていたのである。といっても、当時はウフエ・ボワニ大統領の政党、コートジボワール民主党(PDCI)の一党しかなかったし、大統領選挙の候補はウフエ・ボワニ以外には居なかったわけだから、外国人であろうがなかろうが選挙には余り意味はなかった。
そうした外国人に寛容な姿勢が、大きく変容していく。80年代、カカオの価格の下落により、コートジボワールの経済は停滞、社会の不満が学生運動などを通じた民主化要求に発展する。頼りのフランスも、ミッテラン大統領が「経済援助の是非は、民主主義がどれだけ実現しているかを見て決める」と宣言し、コートジボワールの民主化を求めるようになる。ウフエ・ボワニ大統領は、ついに一党制を放棄し、複数政党制に移行する決断をする。それで、1990年の大統領選挙で、はじめてPDCI以外の政党が認められ、ウフエ・ボワニ大統領に対抗する候補者が出た。コートジボワール人民戦線(FPI)のバグボ党首であった。
この民主化の動きが、どうして外国人政策に関連するのか、と思えるだろう。それはこういう次第だ。独立以来、はじめて対抗馬のいる本物の選挙を行うことになって、皆が真剣になった。有権者をきちんと定義しなければということになり、選挙人名簿をつくって、投票権を有するコートジボワール人と、そうでない外国人を区別することになった。外国人は、コートジボワール政府の発行する、滞在許可証を持っていなければならない、ということになった。
外国人には身分証を発行し、彼らは投票できないとするのは、当たり前の決定であるように思える。ところが、ここは日本と違ってコートジボワールである。戸籍制度が古くからあって、自国民と外国人を峻別できる国とは事情が違う。長い歴史の中で国境のあっちとこっちを行き来し、国境のどちらにも親戚が居るような人々を、誰々が自国人、誰々が外国人と、簡単には区別できはしなかった。そこを無理にでも区別しよういう動きがはじまった。その根底には移民排斥の感情があり、それが政治に利用された。
ブルキナファソから来て定着していた人々と、ブルキナファソと民族を共通にする、コートジボワール北部の人たちが、この政治に最も大きく翻弄されることになる。
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