「ロベールとキャタピラー」は、村落社会において、部族どうしの交流がどのように進み、諍いがどのようにして起きるのか、一つの例を描き出している。
コートジボワールの国内対立には、北部の部族から移住してきた人々が、プランテーション開拓に従事して、徐々に経済的実力をつけてきたことに、ひとつの遠因がある。もともと土着地主であった南部の部族の人々との間に、土地所有権争いが生じるようになった。南部の人々の間に、北部の人々を排斥する気持ちが生まれ、それが政治的に利用されて、とうとう南北分裂に至った。
コートジボワールの国歌は、「おお希望の地、もてなしの国」と歌い始める。国民の父と尊敬された、故ウフエ・ボワニ大統領は、70年代、「象牙の奇跡」と呼ばれる経済成長を指導した。その鍵は、周辺国からの移民の活力をプランテーション開拓に投入することであった。移民労働者は、「もてなしの国」に歓迎され、コーヒーとカカオの生産が彼らの勤労によって拡大した。獲得した外貨は、教育に投資された。そして「土地は耕す者に帰属する」と宣言された。
小説に出てくるように、開墾に成功し、経済力を身につけていった移民労働者たちのおかげで、村にはしだいに貨幣経済と現代文明が浸透していき、気がつくと、彼らがいつのまにか、生活の生命線を支配するようになっていった。そうした、よそ者支配への反発。しかし、そこには単に経済的な力関係の変化というだけでなく、文化的・社会的な価値観の違いというものがありそうだ。
昔から、貧しくてもそこらのバナナさえ取っていれば生活できた村。南の穏和な気候のもとでは、人々は日々をのんびりと過ごし、酒を飲み、語らい、祭りや宴会が何にも優先という生活を送ってきた。そして、土地は父祖の代から自分たちのものという、強い誇りを持っている。一方で、砂漠や痩せた土地に住む北部の人々は、毎日を必死で働いて生き延びる文化を持っている。だから、勤勉でねばり強い。いろいろ無理強いを言われても、ひたすら忍従して、こつこつと働いた。
刻苦勉励や質実剛健、勤労の精神は、日本人の我々からみれば、奨励されこそすれ、非難されるなどということはありえない。軍配は北部の人々に上がる。しかし、平穏な生活を過ごしてきた村にとっては、彼らが一生懸命働くことで古くからの秩序が崩壊していくのであって、経済発展への志向も、村の調和を侵犯するもの受け取られる。だから、自ら豊かになるために働く彼らは、「泥棒」なのである。
それでも、第一世代にはまだ、お互いの立場への理解や尊敬があったし、異なる価値観への尊重の気持ちがあった。子供や孫の世代になると、経済格差・社会差別などの不条理だけが実感され、感情的な民族対立に繋がっていく。移民問題は第二世代になって激化する、ということは、私自身フランス在勤時代に実感した。親は自らの選択で移民となったので、あらゆることを受け入れ、あらゆる配慮をすることが当然であった。子供たちは、そうは行かない。そして、感情は政治に利用される。
「ロベールとキャタピラー」は、こうした問題を描きながら、何ら解決を示していない。社会の発展にともなって部族間の交流が進むとともに、その諍いも顕在化してくるという現実は、コートジボワールの人々にとって、国民和解をすすめるうえで、現在進行形の困難な課題なのである。
コートジボワールの国内対立には、北部の部族から移住してきた人々が、プランテーション開拓に従事して、徐々に経済的実力をつけてきたことに、ひとつの遠因がある。もともと土着地主であった南部の部族の人々との間に、土地所有権争いが生じるようになった。南部の人々の間に、北部の人々を排斥する気持ちが生まれ、それが政治的に利用されて、とうとう南北分裂に至った。
コートジボワールの国歌は、「おお希望の地、もてなしの国」と歌い始める。国民の父と尊敬された、故ウフエ・ボワニ大統領は、70年代、「象牙の奇跡」と呼ばれる経済成長を指導した。その鍵は、周辺国からの移民の活力をプランテーション開拓に投入することであった。移民労働者は、「もてなしの国」に歓迎され、コーヒーとカカオの生産が彼らの勤労によって拡大した。獲得した外貨は、教育に投資された。そして「土地は耕す者に帰属する」と宣言された。
小説に出てくるように、開墾に成功し、経済力を身につけていった移民労働者たちのおかげで、村にはしだいに貨幣経済と現代文明が浸透していき、気がつくと、彼らがいつのまにか、生活の生命線を支配するようになっていった。そうした、よそ者支配への反発。しかし、そこには単に経済的な力関係の変化というだけでなく、文化的・社会的な価値観の違いというものがありそうだ。
昔から、貧しくてもそこらのバナナさえ取っていれば生活できた村。南の穏和な気候のもとでは、人々は日々をのんびりと過ごし、酒を飲み、語らい、祭りや宴会が何にも優先という生活を送ってきた。そして、土地は父祖の代から自分たちのものという、強い誇りを持っている。一方で、砂漠や痩せた土地に住む北部の人々は、毎日を必死で働いて生き延びる文化を持っている。だから、勤勉でねばり強い。いろいろ無理強いを言われても、ひたすら忍従して、こつこつと働いた。
刻苦勉励や質実剛健、勤労の精神は、日本人の我々からみれば、奨励されこそすれ、非難されるなどということはありえない。軍配は北部の人々に上がる。しかし、平穏な生活を過ごしてきた村にとっては、彼らが一生懸命働くことで古くからの秩序が崩壊していくのであって、経済発展への志向も、村の調和を侵犯するもの受け取られる。だから、自ら豊かになるために働く彼らは、「泥棒」なのである。
それでも、第一世代にはまだ、お互いの立場への理解や尊敬があったし、異なる価値観への尊重の気持ちがあった。子供や孫の世代になると、経済格差・社会差別などの不条理だけが実感され、感情的な民族対立に繋がっていく。移民問題は第二世代になって激化する、ということは、私自身フランス在勤時代に実感した。親は自らの選択で移民となったので、あらゆることを受け入れ、あらゆる配慮をすることが当然であった。子供たちは、そうは行かない。そして、感情は政治に利用される。
「ロベールとキャタピラー」は、こうした問題を描きながら、何ら解決を示していない。社会の発展にともなって部族間の交流が進むとともに、その諍いも顕在化してくるという現実は、コートジボワールの人々にとって、国民和解をすすめるうえで、現在進行形の困難な課題なのである。
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