太平洋戦争末期の1945年、京都府各地は多くの空襲被害を受けた。戦後「京都は空襲を受けなかった」と誤った認識が流布したこともあるが、実際には府内に50回以上の空襲があり、400人以上(諸説あり)が犠牲になった。当時の京都新聞は、地元の空襲をどう報じたのか。戦時中の京都新聞紙面からは、被害実態を隠ぺいし、報道の役割を放棄した新聞の姿が見えてきた。

■55回襲来、400人超犠牲 死者数、場所は報じず

 京都府の空襲被害を網羅的に調査した書籍「かくされた空襲と原爆」(1993年、小林啓治・鈴木哲也著)などの資料によると、1945年1~8月、京都府は少なくとも55回(うち4回は発生日不明)の空襲を受けたとされる。

 被害は近隣の大阪市や神戸市に比べて少ないが、京都市と舞鶴市、伊根町では各50人以上が犠牲となり、小規模な空襲も含めると計400人以上が亡くなった。

 地元の空襲被害を京都新聞はどう報じたのか。45年1~8月の京都新聞紙面を同書をベースに新しい資料も加えて照合すると、55回のうち、爆撃や銃撃などの攻撃があったことをわずかでも報道していたのは、

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