🏡第2章:ステラおばさん、家を買う|鎖の先に見えた終の棲家
第2章:数字の跳ねる音が、未来を縛った。
2-1:会社に削られる日々、猫の爪音で始まる朝
バリバリ…ッ
障子越しの朝の光がまだ青白い。
猫のサユリが飼い主の枕で爪とぎをする音だけが、静かな部屋に響いていた。本日のサユリアラームは耳元の爪とぎ音。その小さな振動に救われながら、私は首に絡まった充電ケーブルの先のスマホを手に取る。住宅ローン審査の通知が光っている。
入社3年目の会社。
昇給はない。むしろ減っていた。
ポートフォリオには誇れる代表作もなく、あるのは不採用案件の墓標と、改訂を重ねた痕跡だけ。前職では、深夜残業も厭わず大型プロジェクトを回していた。だが、更年期の入り口にさしかかった体には、もう無理が効かない。
転職はスカウトサイト経由だった。東京と札幌にオフィスを構える小さな制作会社。オファー年収は現収の1.4倍、アートディレクター待遇。期待されていた。だが業績は横這い。僅か1年で降格しリードデザイナーへ。年収は60万減った。そのタイミングでサユリの体調が悪化し、原則、週2日出社3日リモートのところを、出社日を週2から週1へ。評価が下がったのは当然かもしれない。それでも、理解ある会社だと思いたかった。
副業は禁止。会社に相談すれば、「何か特別な事情でも…?」と小耳にはさんだ部下から詰められる始末。退職者が続出する現場。タイトな運用案件、兼務のアジャイル、次々押し寄せる差し込み。私の「役職」は剥がれたが、「責任」だけは残っていた。
それでも辞められない理由がある。
この会社を出たら、勤続年数がリセットされ、ローンは通らなくなる。母の老い、同性パートナーとの暮らし、サユリの命──
守りたいものはすべて、この会社の給与明細に紐づいている。
そんな中で迎えた土曜。
不動産担当とのZoom面談のタスクがカレンダーに残っていた。住宅ローン、本審査。未来のための書類づくりだ。
2-2:数字が跳ねる瞬間、視界がにじむ
ダウンロードした住宅ローンアプリを開き、担当の指示に従って淡々と入力していく。名前、生年月日、住所、借入残高、勤続年数。画面は静かだ。だが指先にはじっとりと汗が滲む。
家の価格は土地代込みで1,980万円。東京では郊外ですらこの価格では到底叶わないだろう。火災保険、手数料、そして副業コンサル数本と義父の負債の肩代わりをした、おまとめローン分を上乗せする。気がつけば、画面の下部にはこう表示されていた。
2,620万円。
数字が跳ねた音が、頭の奥で反響する。視界が少しだけにじんだ。吐き気、というより眩暈に近い。ローンという名の呪文が、私の未来をじわじわと巻き込んでいく。
21年ローン。
35年にすれば月の支払いは減る。だが年齢的に無理があるし、人生そのものが拘束される気がした。「住宅ローンのために会社を辞められない人たち」の気持ちが、ようやく理解できた。魔がさして中央線にでも飛び込みたくなるわけだ。私も異世界転生したいよ。ハイカーストのインド人か、資産家の猫に。
次に訪れるのはPDF地獄。
三井住友、楽天、PayPay──UIも仕様もまるで統一されておらず、ログインするだけで一苦労。何故、金融系アプリはこうもダークパターンが多いのか。PayPay銀行に至っては、必要なPDFが見つからず、アプリの画面をスクショで乗り切り、後からPCサイト経由で提出することになった。
不動産の担当者は「たぶん問題ないと思います」と言った。けれど私の中では、不合格の未来と、通過の未来とが、まるで二重写しのように交差していた。このローンが通らなければ、私はまた「どこにも辿り着けない人」になる。その予感だけが、画面の向こうからにじむように伝わってくる。
2-3:縛られる未来と、それでも選んだ家
書類の提出が終わると、ふっと力が抜けた。
画面に映るのは、今申請したばかりの物件。
築古の中古住宅。だが、リノベ済みで状態は良い。北海道らしい広さの4LDK、日当たり良好、母が喜びそうな吹き抜けのリビング、車庫付き。札幌市とはいえ郊外なので、ここ最近、住民を震撼させている熊の出没には一抹の不安は残るが…。
2階に8畳の部屋がひとつ余る。
あそこをゲストルームに構えるのもいいかもしれない。普段は猫部屋にして、サユリのキャットタワーを置こうと思った。齢6歳にして胆管肝癌を患い、ターミナルケアで余命を2年も延長して頑張ってくれているサユリ。腫瘍が重いのか、もう高いところには滅多に上らなくなったけれど、彼女が好きだった陽の当たる場所に。
ミニマリストとインダストリアルなタイニーハウスに憧れ、ローコスト狭小住宅の動画ばかり眺めていた私には、大きすぎる家だった。だけど、この家なら「終の住処」として生きていける気がした。ここで母と、パートナーと、そして猫と暮らしたい。そのためならあと20年、働いてもいいと思えた。
審査が通れば、すべてが動き出す。
札幌オフィスへの移動、23年分のモノの断捨離、元旦那とのヒトの断捨離。人生終盤の断裁線が、ついに引かれようとしている。
ローンという鎖に繋がれながら、それでも私は前を向いていた。
この家で、静かに老いていく未来に、うっすらと光を見ていた。
🏡ステラおばさん、家を買うシリーズ



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