人間の身分制度から除外された人々…非人と差別された「穢多」の仕事とは
「穢多(えた)」という言葉をご存知でしょうか。
主に死牛馬の処理、皮革業、刑吏の下働きや下級警察業務に従事した人々を指し、江戸時代には身分制度を表す際にも用いられました。
しかし、穢多は人間の身分制度に属さず、穢多非人とよばれる人外として扱われたのです。
これには当時の宗教観がかかわっていました。
※本記事の内容は様々な方に魅力を感じていただけるよう、筆者が足を運んだ歴史スポットとともに史実を大筋にした「諸説あり・省略あり」でお届けしています。
穢れ多き者
穢多は、「穢(けが)れが多い」と書きます。
穢れとは、江戸時代の日本人が信仰した神道の教えに登場する避ける又は排除すべきもの。
血の穢れ、罪穢れ、死の穢れなど複数の種類が存在しました。
とくに当時の人々は血の穢れを嫌い、月経期間中や出産時など出血中の女性は専用の古屋「忌(いみ)小屋」に隔離されたのです。
また、日本の中心宗教を担った仏教でも生き物の殺生や死体に触れることは穢れた行為として非難されました。
このほか、穢れに該当する行為をした人と接触すると穢れが伝染すると考えられており、穢れに触れた者は神に伝染させないようにするため、神事や祭事への参加を禁じられたのです。
しかし、穢れと非難される行為とはいえ、人は生き物を殺して食事をしたり、生き物の死体から皮を剥ぎ取り革製品を製造をしたりする必要がありました。
この民衆から嫌われた仕事に従事したのが、穢れ多き者「穢多」とよばれた人々なのです。
彼らは死牛馬の処理、皮革業、刑吏(刑を執行する人)の下働きや下級警察業務に従事ほか、寿命を終えた人の死体処理も行いました。
穢多の仕事は非常に重要なものでしたが、庶民は穢多を非難して「非人(人ならざるもの=人外)」と差別。穢多が定住する区域を指定し、隔離して穢れが伝染することを防ごうとしました。
岡山藩と穢多
徳川綱吉が発令した「生類憐みの令(1685年〜1709年)」が廃止された直後、幕府・各地方の藩が増えすぎた野犬を処分する「野犬狩」を開始。とくに岡山藩(岡山県)では頻繁に野犬狩が施行されています。
この野犬狩を行ったのも穢多でした。穢多は民衆が嫌う仕事を押し付けるのにうってつけの存在だったのでしょう。
彼らの便利さに気づいた幕府や各藩は穢多の戸籍を管理。脱走を許さず、生まれた瞬間から死ぬまで穢多として労働させました。
岡山藩では幕府領の倉敷を避けた場所に穢多村を設置し、処刑人としての役割を担わせるためだけに帯刀を許可させたのです。
しかし、帯刀は武士身分に許された高貴なる存在の証明。そのため、1756年に「穢多非人などに平人より身分高ぶる者がある、以後相慎み礼儀正しくせよ(市政提要)」との命令が下ります。
これは当時から身分制度の崩壊がはじまったことを証明しており、それからしばらくもしないうちに日本全体の身分制度は廃止へ。穢多は皮や動物の名が入った苗字を与えられたのですが、しばらくしても差別されたため、穢多身分だったことを隠すための苗字改変が行われたといいます。
今回は岡山藩の穢多事情を中心に紹介しました。
岡山にかぎらず穢多は日本中に存在し、多くの地域で非人として差別されたといわれています。
生まれた地域や苗字で差別することは決して許されることではありません。
現代を生きる私たちが同じ過ちを繰り返さないよう、意識を改善して後世に伝えていく必要があるでしょう。
穢多の資料は滅多にみられませんが、もし岡山城のような江戸時代の歴史的建造物を訪れた際は本記事を思い出し当時を偲んでみてください。