「目的地見えないから楽しい」 元NHK武田アナ、妻と「大海原へ」

富田祥広

 「NHKで緊急ニュースを担当していた時は、誇りとやりがいを感じていました」

 フリーアナウンサーの武田真一さん(57)は、穏やかな表情でスポットライトを浴びていた。客席の約580人が静かに耳を傾ける。

 「でも、いつも家にいなかった。家にいてもピリピリしていた。専業主婦の妻は育児ノイローゼ気味になりました。そして、だんだん私も――」

よし、俺の出番だ

 熊本市出身。高校で友人とバンドを組み、ギターを弾いた。筑波大に進み、広告会社への就職を考えた。

 「当時、糸井重里さんなどコピーライターが話題で、私も音楽をやって詞を書いていましたので、言葉で何か伝える仕事につきたいなと」

 そんな時、NHKを受験する友人に誘われて、一緒にNHKを受けた。「志望したのはディレクター職。ところが『アナウンサーとして採用します』と言われまして。ただ、言葉で表現する仕事という意味では面白そうだなと思いました」

 熊本、松山での勤務を経て東京へ。数年後、正午のニュースの担当になった。アメリカ同時多発テロ事件、日朝首脳会談と拉致被害者の帰国、イラク戦争、新潟県中越地震……。国内外から届くニュースをスタジオから伝える日々が続いた。

 「休みの日も大きなニュースが飛び込んでくると『よし、俺の出番だ』という感じで。妻と幼い子がいる家に、いつまでも帰らない。そんな状況が7年ほど続きました」

もう嫌だ、つらい

 ところが、ある朝、ついに糸が切れた。

 交通機関で大きな事故が発生したという連絡が携帯電話に入った。「もう嫌だ。つらい。逃げ出したい。そんな気持ちでした。知らず知らずのうちに、私も心をすり減らしていたんです」

 いったい誰に向けて放送しているんだろう。そんな思いを強くした頃、先輩にこう言われた。

 〈プライドとか、組織の評価とか気にせず、あなたのこれからにとって何が一番良いことなのかだけを考えなさい〉

 「その言葉に吹っ切れました」。沖縄勤務を希望し、約9年勤めた東京を離れた。

 米軍基地問題、沖縄戦の記憶……。伝えるべきことはたくさんあった。地域の人たちのために、地域の人たちを取材し、地域の人たちに伝えた。地域の人たちから「見たよ」と声をかけられた。

 「ローカルの仕事こそニュースの本質だと思いました。私にとって一番良いことは、現場でしゃべること。沖縄に行って本当に救われました」

 そして、家族も。「妻も子どもたちも、沖縄で元気と活力を取り戻していったんです」

 2年後、再び東京へ。「NHKニュース7」のキャスターなどを務め、東日本大震災の発災直後は、津波が押し寄せる様子をスタジオから実況中継した。2021年に大阪へ赴任。その頃には、めざす道が見えてきた。

きょうも2人で来ました

 23年2月、約33年間勤めたNHKを早期定年退職し、フリーアナウンサーに。「大海原にこぎ出すような気持ちでした。目的地が見えないから、旅は楽しいんですね」

 妻と2人で個人事務所を立ち上げた。「妻に、社長になってほしいとお願いしました。マネジメントもしてもらい、妻は今、刺激的で面白い日々を送っていると思います」。少し間をあけて、言葉をつないだ。

 「妻は大学を卒業後、就職した新聞社を4年間で辞め、30年間ずっと専業主婦でした。外で働けないことに、いろんな思いを持っていたと思います」

 今年6月。武田さんは鳥取県倉吉市での講演で、妻と笑顔で並ぶ写真を大きなスクリーンに映し出した。「今は24時間、妻と一緒です。きょうも2人で来ました。ケンカもします。でも、ずっと一緒に過ごしております」。客席に笑顔が広がった。

 講演は、男女協働をテーマに鳥取県が開いた催しの一環で、武田さんは「これまでの働き方、これからの生き方」と題して講演。

 「家事や育児は女性がすべきだ」「リーダーには男性が向いている」といったアンコンシャス・バイアス(無意識の思い込み・偏見)やワーク・ライフ・バランスをキーワードに、質疑応答も含めて約1時間半、自らの経験を語った。

 現代社会は女性の負担が多い。そう思う気持ちとどう付き合っていけばいいでしょうか――。そう問われ、こう答えた。

 「やっぱり言葉じゃないかな。負担に思うことを相手に伝え、相手も受け止める。互いに胸の内を開いて言葉を交わすことで、乗り越えられることがあると思います」

 客席に向けて、柔らかくほほ笑んだ。

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この記事を書いた人
富田祥広
鳥取総局
専門・関心分野
国内社会、ルポルタージュ