絶望の深海と希望の合唱
王は、姫を救うため、禁断の領域へと足を踏み入れた。
そこは、一人の少女が、誰にも見せずに、一人で涙を流し続けた、絶望の深海。
過去のトラウマが怪物となり、心の傷が迷宮となる、悪夢の世界。
ナビゲーターは、ツンデレなAIの姉。
武器は、仲間たちの想いが宿る、一本のマイク。
だが、彼を待ち受けていたのは、少女の心の闇だけではなかった。
彼自身の、決して開けてはならない、過去の亡霊。
二つの絶望が共鳴し、最強の怪物が生まれる時、王は、真の力を試される。
これは、一人の男が、愛する者を救う物語。
そして、その愛が、仲間たちの絆と重なり合い、奇跡の「歌」となる物語だ。
希望の合唱は、果たして、絶望の深海に届くのか。
【導入:絶望のデパート】
『――圭佑くん…起きて…』
誰だ? 莉愛の声…?
無機質なカウントダウンがゼロになった瞬間、俺の意識は、眩い光の粒子となって霧散した。
目を覚ますと、俺は冷たい床の上に倒れていた。
見渡せば、そこは明かりの消えた、不気味なほど静まり返ったデパートの正面入り口。ガラスの向こうでは、激しい風雨が叩きつけ、雷鳴が轟いている。
「ここが…莉愛の精神世界ってやつか? 一体どこにいやがるんだ…」
その時、入り口の脇に立つ、一台の公衆電話が、ジリリリリン、と、けたたましいベルを鳴らした。
俺は、訝しみながらも、その受話器を取る。
「…もしもし」
『――繋がったか。圭佑』
電話の向こうから聞こえてきたのは、親父…神谷正人の、冷静な声だった。
『いいか、よく聞け。莉愛様の精神は、今、彼女自身のトラウマによって、最も深い階層に閉じこもっている。そこへ行くためのナビゲーターを送る。…闇に呑まれるなよ』
その言葉と共に、電話ボックスのガラスに、俺の影が、不自然に蠢いた。
そこから、ゆっくりと、一人の幼女が姿を現した。
「…やっと起きた。Kの思考レベルが低すぎて、同期に時間がかかった」
桜色のボブカットに、電子回路の桜花弁が明滅する、黒いゴスロリ風のワンピース。対Muse用自律思考型AI、【Q-s】。俺の、バディだ。
「お前…なんで親父にそっくりなんだよ、その口の悪さ」
「創造主が、私を正人に似せて造ったからよ。文句ある?」
「それより、早く莉愛を助けに行くぞ!」
Q'sは、俺の手に、白を基調とし、桜の花びらの紋様が刻まれた、美しいマイクを具現化させた。「『ソウル・シンガー』。Kの『想い』を歌に乗せて、この世界のバグ(トラウマ)を浄化する、Kの武器よ」
その時、店内に、ノイズ混じりの佐々木のアナウンスが響き渡る。「本日ご来店の神谷圭佑様。最上階の特別催事場にて、素敵なプレゼントをご用意しております」
アナウンスが終わると、止まっていたエスカレーターが、ギギギ、と不気味な音を立てて動き出した。
俺の知らない莉愛、か。
【展開①:思い出のフロア、心の傷跡】
エスカレーターで上の階に上がると、そこは家電量販店のフロアだった。ずらりと並んだテレビ画面に、一斉に映像が映し出される。それは、莉愛が俺の昔の配信を食い入るように見ている、思い出の映像だった。俺と玲奈がキスする映像が映り、俺は思わずそのテレビに駆け寄り画面を隠した。
「隠しても無駄よ? 私の記憶に入ってるから」
「さ、佐々木のやつ、莉愛の記憶まで覗き見やがって…!」
俺は顔を真っ赤にしてごまかした。
「違うわ。あれは莉愛が創り出した佐々木よ」
莉愛、俺が見えないとこで苦しんでたんだな。
そして、たどり着いたのは、薄暗いおもちゃ売り場だった。フロアの中央に、頭部のないマネキンが、リクルートスーツを着て立っている。その手には、古びた拡声器が握られていた。
拡声器から佐々木の声が響く。「武装開始」
その声を合図に、棚に並んでいたラジコンカーやアクションフィギュアたちが、赤い目を光らせ、銃器から黒く粘り気のある憎悪弾を撃ち放ちながら、俺に襲いかかる。
俺のシャウトがラジコンカーを宙に浮かせ、動きを止める。しかし、拡声器からさらに大きなノイズが響いた。「壊れちゃダメよ!」
その声を合図に、壊れたおもちゃたちが、ガシャンガシャンと音を立てて合体し、巨大なメカ・ゴーレムへと変貌した。
「まずい、K! 敵が融合して、憎悪が増幅してる!」
絶体絶命のピンチに陥ったその時、俺は目を閉じ、心の中で叫んだ。(玲奈…! 莉愛…! キララ、アゲハ、詩織…! 全員、俺に力を貸してくれ!)
現実世界で、俺の帰りを祈ってくれている、仲間たち全員の顔を、強く、強く思い浮かべる。
その想いに呼応するように、現実世界の玲奈の指輪が、そして、事務所で見守るメンバーたちが持つ、それぞれのイメージカラーのアクセサリーが、淡く、一斉に光を放った。
次の瞬間、俺が持つマイクが眩い光を放ち、高貴な青色に輝く『セイクリッド・シンガー』へと進化する。
俺が祈るように歌い始めると、天井から舞台のスポットライトのような光が降り注ぎ、憎悪の要塞の頂点に立つ、佐々木マネキンだけを、強く照らし出した。「いやああああっ!」という佐々木の断末魔が響き渡り、光を浴びたおもちゃたちは、ガラガラと音を立てて崩れ落ちていった。
【展開②:絶望のプリクラと、二体の怪物】
最上階は、かつて俺と莉愛が訪れた「ゲームセンター」が、歪んだ形で再現されていた。
プリクラ機の中から、莉愛のすすり泣く声が聞こえる。俺が近づくと、プリクラの画面に、過去の光景が映し出された。
中学生の頃の莉愛が、自室のPCで、炎上前の俺のゲーム配信を、夢中になって見ている。「あ、Kくんの動画、更新されてる! これ見て、勉強頑張ろ!」
そこへ、姉の玲奈が入ってくる。「またそんな動画見てるの? 飽きないわね」
「お姉ちゃんに布教しなきゃ!」
画面が切り替わり、廊下の隅で、天神家の使用人たちが、ひそひそと莉愛の陰口を叩いている。「またお部屋で、あんな動画をご覧になって。お嬢様には悪影響ですわ」
彼女は、ずっと一人で、俺を応援してくれていたのだ。
映像が終わると、プリクラ機の取り出し口から、一枚の写真が吐き出された。それは、佐々木に撮られた、制服の胸元がはだけさせられた、莉愛の無防備な寝顔の写真だった。
俺が、怒りに震えながら写真を握りつぶした、その瞬間。プリクラの画面が、再び切り替わった。
そこに映し出されたのは、あの息の詰まる食卓だった。
父が、新聞から顔も上げずに、吐き捨てるように言う。『――やめろ。飯が、不味くなる』
妹の美咲が、氷のように冷たい声で続く。『働いたらどう? 聞いてんの? この、引きこもり』
それは、莉愛の闇が、俺自身の心の傷を抉り出すために見せている幻影。
「やめろ…」
俺がうめくと、プリクラ機から甲高い悲鳴が上がり、より強力な「絶望のバリア」が発生した。
「見ないで…! 圭佑くんに、こんな私、見られたくない…!」
莉愛の悲痛な声が響き渡ると同時に、俺の足元から伸びた、俺自身の黒い影と、彼女が囚われているプリクラ機から伸びる、歪んだ影。
その二つの影が、まるで黒い水銀のように、床の上で溶け合い、二体の巨大な人型を形成していく。
一体は、莉愛のトラウマの化身――クラスメイトとモデル仲間の姿が背中合わせに融合した、『偽りの友誼のプリマドンナ』。
もう一体は、俺のトラウマの化身――妹の美咲とアンチの男が背中合わせに融合した、『赦されざる家族の亡霊』だった。
「ダメだ、K! 靄の発生源…プリクラ機の中の莉愛の心を直接救わないと、キリがない!」
Q'sの悲痛な声。俺は、意を決してQ'sに問う。
「Q's、何か方法はないのか。どんな手を使っても、俺はあいつを助ける」
「…最後の手段。それは、Kの『想い』を、この精神世界で最も莉愛が信頼する人物…『天神玲奈』の歌声に乗せて、直接、彼女の心に届けること。でも、もし失敗すれば、Kの意識は、永遠にこの世界を彷徨うことになる…」
「何のために俺はここにいるんだよ!」
「…べ、別に、Kのことなんか心配してないんだからね! でも…もし戻ってこれなくなっても、私、知らないんだから…!」
Q'sは、顔を真っ赤にして、ワンピースの裾をぎゅっと握りしめる。
俺は、そんなQ'sの頭を優しく撫でると、覚悟を決めた顔で言った。
「Q's、頼む。俺の、最後の歌を、あいつに届けてくれ」
Q'sの瞳から、一筋の光の涙がこぼれ落ちる。彼女は圭佑の体に溶け込むように、一つになった。
次の瞬間、俺の体は眩い光に包まれ、そのシルエットは、見慣れた玲奈の姿へと、ゆっくりと変わっていく。
そして、その手の中で、青く輝いていた『セイクリッド・シンガー』が、さらに形を変え、白金と青い宝石があしらわれた、気高い王錫のようなデザインの**『セレスティアル・ロッド』**へと進化する。
変身を遂げた圭佑(玲奈)は、絶望のバリアに向かって、優しく、そして力強く、最後の歌を歌い始めた。
だが、二体の怪物が、それを許さなかった。
『プリマドンナ』の背後から、無数の「陰口」のテキストで編まれた、黒い鞭が、嵐のように放たれた!
『亡霊』の指先から、「後悔」のテキストで編まれた、重々しい鎖が、蛇のように伸びてくる!
だが、その全ての攻撃は、玲奈(K)に届く前に、仲間たちの「想い」が作り出した、光の防壁によって、弾かれていた。
最初は、玲奈一人の、気高い歌声だった。
だが、その声に、キララの、太陽のように明るい声が重なる。アゲハの、不器用だけど、力強い声が重なる。詩織の、全てを包み込むような、優しい声が重なる。
俺の背後に、仲間たちの半透明の姿が現れ、その手が、俺の背中を、そっと、しかし力強く、支えていた。
それは、玲奈の姿をした俺が歌う、**K-Venus全員の「想い」が乗った、奇跡の合唱**だった。
その歌声は、シャドーモンスターたちの動きを止め、黒い靄を浄化し、プリクラ機そのものを、内側から眩い光で満たしていく。
やがて、光が収まると、絶望の象徴だったプリクラ機は、ひび割れ、粉々に砕け散った。
そして、その光の中から、ゆっくりと、一人の少女が現れる。
それは、ずっと会いたかった、妹の、天神莉愛だった。
彼女は、涙を浮かべながらも、世界で一番美しい笑顔で、圭佑(玲奈)に向かって、こう言った。
「…うん。やっと、見つけてくれたね、お姉ちゃん。……そして、圭佑くん」
彼女には、わかっていた。
愛する二人が、自分を救いに来てくれた、その全てが。
【結び:二人の共闘、そして覚醒へ】
だが、戦いは、終わっていなかった。
砕け散ったプリクラ機の残骸から、二体のシャドーモンスターが、再び姿を現したのだ。
「…!」
莉愛が、自分自身の闇の姿を目の当たりにし、息をのむ。
シャドーモンスターたちは、もはや俺たちを攻撃しない。ただ、悲しげな瞳で、俺たちを見つめている。
Q's:「…ダメだ、K! 莉愛の意識を救出しても、彼女のトラウマの根源が、まだこの精神世界に深く根を張っている! このままでは、例え現実世界に戻っても、彼女の心は、いずれまた、この闇に引きずり込まれる…!」
絶望的な状況。
だが、俺の隣で、莉愛が、震える声で、しかし、はっきりと、言った。
「…大丈夫。圭佑くん」
彼女は、俺の手を、さらに強く握りしめた。その瞳には、もう涙はない。あるのは、自らの運命と戦うことを決意した、気高い王女の覚悟だった。
「――二人で、戦おう。私たちの、弱さに」
俺は、静かに頷いた。
俺の右手には、白金の杖『セレスティアル・ロッド』が。その杖の先端で、桜色の髪を持つ、小さな妖精のような姿のキューズが、腕を組みながら、ふんとそっぽを向いている。
「べ、別にあんたのためじゃないんだからね! マスター(正人)の命令で、仕方なく付き合ってあげるだけよ!」
そして、莉愛の左手には、彼女自身の「歌」という名の、光の剣が具現化されていた。その彼女の背後に、腰まで届く、美しい銀髪をなびかせた、女神のような姿のミューズが、半透明のホログラムとして、そっと寄り添うように現れる。
…お姉様ったら、素直じゃないんですから。…大丈夫です、マスター・莉愛。あなたの歌声は、私が最高の形で、この世界に届けます》
四人と二体のAIによる、奇妙で、しかしどこまでも美しい、魂の救済を巡る戦いが、始まった。
俺とキューズが、二体のシャドーモンスターの攻撃を完璧に防ぎ、莉愛とミューズが、その隙に、浄化の歌声を叩き込む。
完璧な連携だった。
やがて、二体のシャドーモンスターは、憎悪の表情を、穏やかな微笑みへと変え、満足したように、光の粒子となって消えていった。
全ての戦いが、終わった。
莉愛は、その場にへたり込みそうになるが、俺が、その華奢な体を、強く、強く抱きしめた。
「…終わったんだな」
「…うん。ありがとう、圭佑くん。…一人じゃ、無理だった」
彼女が、俺の胸の中で、そう呟いた、その瞬間だった。
彼女の背後にいたミューズのアバターが、ふわりと、光の粒子となり、莉愛の体の中へと、吸い込まれるように、溶け込んでいった。
「え…?」
莉愛が驚いて、自分の両手を見つめる。その指先から、ミューズと同じ、淡い青白い光のオーラが、立ち上っていた。
彼女の脳内に、直接、ミューズの優しい声が響き渡る。
…マスター・莉愛。これより、私は、あなたの魂と、常に共にあります》
彼女には、まだ、その力の意味が、完全には理解できていなかった。
だが、それは、守られるだけの聖女だった彼女が、AI【Muse】の力を自らのものとし、やがて最強の「ハッカー」として覚醒する、その運命の始まりを告げる、静かで、しかし確かな、祝福の光だった。
愛する二人が互いの魂を救い合い、そして、一人の少女が新たな力の「兆し」を手に入れた。その再会の瞬間で、幕を閉じる。
第九話『絶望の深海と希望の合唱』、お楽しみいただけましたでしょうか。
おそらく、息をするのも忘れ、ただ、彼らの運命を見守っていただけたのではないかと思います。
今回は、莉愛の精神世界という、これまでとは全く異なる舞台での戦いとなりました。
彼女が抱えていた、知られざる孤独と、痛み。そして、Kが背負い続けてきた、罪悪感の正体。
二人の心の闇が「シャドーモンスター」として具現化するシーンは、私自身、胸が張り裂けるような思いで執筆しました。
しかし、絶望が深ければ深いほど、希望の光は、より一層輝きを増します。
Kが、仲間たちの想いを背負い、玲奈の姿となって歌い上げた、奇跡の合唱。
そして、自らの弱さと向き合い、Kと共に戦うことを決意した、莉愛の覚醒。
これこそが、この『成り上がり』という物語の、真髄です。
彼らは、もはや一人ではありません。
Kには、ツンデレな姉・キューズという最高の「バディ」が。
そして、莉愛には、献身的な妹・ミューズという、最強の「守護者」が。
二組のコンビが、これからどのような活躍を見せてくれるのか。
そして、ラストで示唆された、莉愛の新たな力の「兆し」。
「ハッカー」としての覚醒は、一体、何を意味するのか。
物語は、一つの大きな悲劇を乗り越え、しかし、休む間もなく、次なるステージへと加速していきます。
絶望の深海から帰還した王と、新たな力を手に入れた姫。
彼らを待ち受ける、次なる「悪徳」とは。そして、全ての糸を引く、神宮寺の真の狙いとは。
ぜひ、次話も、彼らの戦いを見届けてください。
それでは、また、物語の世界でお会いしましょう。