覚醒の王
絶望の淵から、一人の男が這い上がろうとしていた。
彼の名は、神谷圭佑。かつてネットの片隅で、誰にも届かない叫びを上げていた、孤独な青年。
しかし、運命は彼を見捨てなかった。
天神玲奈、そして莉愛。
二人の女神がもたらした嵐は、彼を安住の地から引きずり出し、新たな世界へと誘う。
それは、誹謗中傷と炎上が渦巻く、エンターテイメントという名の戦場。
だが、彼はまだ知らない。
自らの内に眠る、巨大な才能の存在を。
そして、その才能が、やがて世界を揺るがす伝説の始まりとなることを。
これは、一人の青年が「王」として覚醒する、その序章の物語。
二つのキスが、彼の運命の扉を、今、こじ開ける。
【静:嵐の前の食卓】
エラーで配信が切れ、静寂が訪れた。
俺は今しがた唇に触れた玲奈の柔らかい感触と、モニターに表示された天文学的な同接数に、完全に思考が停止していた。
「……どういうつもりだ?」
やっとのことで絞り出した声は、自分でも驚くほど冷たく響いた。
「俺みたいな男と絡んで、炎上したいのか!? あんたまで、俺みたいに不幸になりたいのか!?」
俺が受けた心の傷が、膿のように溢れ出す。人間なんて信じられるものか。
玲奈は潤んだ瞳で俺を見つめ返すと、少し怒ったように言った。
「……勝手なこと言わないでよ。神谷さんがアイドルプロデュースするって言うから、嫉妬しただけよ…責任、取ってよね?」
「……帰らせてもらう。世話になったな」
その言葉の真意を測りかねた俺は、自らの不器用な優しさを、拒絶という刃に変えて、彼女と、この甘すぎる城から逃げ出そうとした。
決意して玄関の扉を開ける。
その先に、彼女が立っているとは、思いもせずに。
「お姉ちゃん! 配信見てたよ!? ズルいっ!」
鬼の形相で仁王立ちしていたのは、学校帰りの莉愛だった。ブレザーの着こなしが完璧な彼女は、ぷんすかと頬を膨らませ、俺と姉を交互に睨みつける。
「モデルの撮影、早く終わらせてタクシーで飛んできたんだから!」
「お姉ちゃんがキスでKくんを落とす気なら、私は手料理で胃袋を掴むから! お姉ちゃん、昔から料理だけは壊滅的にヘタなんだからねっ!」
そのあまりに子供っぽい宣戦布告に、玲奈は「そ、そんなことは…」と狼狽えている。
修羅場の真ん中で呆然と立ち尽くす俺の、その緊張感をぶち壊すように、
ぐぅぅぅぅぅ…。
俺の腹の音が、情けなく響き渡った。
その音に、張り詰めていた空気がふ、と緩む。莉愛がぷっと噴き出し、涙を拭いながら笑った。
「…そっか。お腹空いてるんだ。任せて!」
彼女はキッチンに駆け込むと、冷凍庫から取り出した有名店のロゴ入り高級冷凍ハンバーグを焼き始め、その上に完璧な半熟の目玉焼きを乗せ、特製だというデミグラスソースをたっぷりとかけた。「はい、お待たせ! 私の愛情たっぷり、手作りハンバーグだよ!」と、満面の笑みで差し出す。
その温かいハンバーグを前にした瞬間、俺の目から、訳もわからず涙が溢れ出した。止まらない。
(…ああ、そうか。俺は、ずっと、人の温もりを知らなかったんだな…)
画面の向こうの、顔も分からない奴らの悪意ばかりを相手にして、自分の心がここまで冷え切っていたことに、今、初めて気づいた。誰かと食卓を囲む温かさ。自分のために作られた料理の匂い。そんな、当たり前の日常を、俺は心のどこかでずっと求めていたのだ。
「え、どうしたの? Kくん?」莉愛が慌てて俺の顔を覗き込む。
「……莉愛の優しさが、身に沁みたのかしら」隣で見ていた玲奈の瞳も、潤んでいた。
「……ありがとう」
俺は、嗚咽交じりに、それだけを言うのが精一杯だった。
「もー、口開けて、Kくん」
莉愛はハンバーグを小さく切り分けると、俺の口元に持っていく。俺が素直に口を開けて食べると、肉汁とデミグラスソースの優しい味が口いっぱいに広がった。
「……美味い」
「でしょ! だから、男でしょ? もう泣かないの!」
莉愛は、そう言って俺の頭をわしゃわしゃと撫でた。
食事の後、未成年である莉愛は家に帰る時間になった。執事の車が迎えに来るまで、俺たちは三人で大理石の玄関ホールで待機する。やがて現れた黒塗りのセダンに乗り込む直前、莉愛は俺の前に立つと、ぐっと背伸びをして、俺の唇にチュッと軽いキスをした。
「……これで、おあいこだね、お姉ちゃん」
悪戯っぽく笑い、彼女は車に乗り込んでいった。
数時間後、玲奈が風呂に入るシャワーの音が遠くに聞こえる。俺はリビングのソファに深く沈み込み、スマホを弄っていた。エゴサするとSNSは、俺と天神姉妹の三角関係の話題で、凄まじい熱量で盛り上がっていた。
「先に出たわよ」
玲奈が、上質なシルクのパジャマ姿でリビングに現れた。濡れた髪をタオルで拭いている。その仕草が、やけに艶っぽく見えた。
「なんか、ありがとうな」
俺はぎこちなく礼を言うと、逃げるようにバスルームに向かう。
「何やってんだろな、俺は」
湯船で今日の記憶を巡り、俺は呟いた。
玲奈は俺を豪華な主寝室へと案内した。キングサイズの、巨大なベッドが鎮座している。
「……なあ、玲奈さん」
「何かしら?」
「悪いんだけどさ、こんなデカいベッド、落ち着いて寝れないんだ。別の部屋、ないか?」
俺の庶民的な一言に、玲奈は一瞬、何かを言いたそうに口を開きかけたが、すぐに寂しさを隠すような微笑みに変えて言った。
「……そう。わかったわ。こちらの客室を使って」
案内された部屋のドアの前で、彼女は少し俯きながら立ち尽くしている。
「どうしたんだ?」
「……何でもないわ。おやすみなさい、神谷さん」
そう言い残し、彼女は自分の部屋へと向かう。シルクのパジャマに包まれた、その華奢な背中を、俺は何も言えずに見つめていた。
【動:覚醒の兆し】
翌朝、玄関ホールで二人を見送った俺は、一人でゲリラ配信を開始した。
「よう、お前ら。昨日の続きだ。今日は、この城のルームツアーでもするか」
『K、今日の服オシャレじゃん』
「だろ? 昨日、天神姉妹にコーディネートしてもらったんだ」
『うらやまw』
俺はシルバーのカードキーを手にルームツアーを敢行。トレーニングジム、プール、そしてシアタールームの豪華さに、コメント欄と共に俺もテンションが上がる。配信に夢中になるあまり、俺はシルバーカードキーをシアタールームのテーブルに置き忘れてしまった。
チャイムが鳴り、配信をエラーで切った後、機材を運んできた業者をスタジオルームに案内するが、ドアが開かない。ポケットを探ってもシルバーカードキーはない。ダメ元で莉愛のピンクゴールドのカードキーをかざすが、やはり開かない。
「カードキーのシステム、全然わかんねえ!」
俺はそう嘆きながらシアタールームまで全力でダッシュし、シルバーカードキーを掴んで戻ってきた。
昼過ぎ、玲奈に教えてもらった住所を頼りに、俺はタクシーで桐島弁護士の事務所へ向かった。
到着すると、ガラス張りのエントランスで、桐島本人が待っていた。重厚なデスクの革張りの椅子からすっと立ち上がった彼の姿を見て、俺は思った。
前も思ったけど、スーツが似合う男だな…
「お嬢様たちが来るまで、まだ少し時間がある。よければ、昼飯でもどうです? 近くに、美味い手打ちうどんの店があるんですが」
事務所からうどん店まで、俺たちは会話もないまま歩いた。
店内で、うどんをすすりながら桐島が尋ねてきた。
「ところで神谷さん。玲奈様とは、うまくいってるんですか?」
「え? ああ、まあ…昨日は、別々の部屋で寝てました」
俺は恥ずかしさで頭の後ろを掻いた。
桐島は、箸を止め、呆れたように言った。「…恋人、なんですよね? 一緒に寝ないんですか?」
「で、ですよね…。風呂も、一人で入ってます」
「…そこはまあ、時間をかけていいでしょう」
「…よくスーツ、汚さずに食えますね」俺が感心して言うと、桐島は顔も上げずに答えた。「仕事の合間に食べるのが日常ですから。汚さずに食べるのが、プロというものです」その、あまりにも当然な正論に、俺は何も言えなくなった。
店を出て事務所に戻ると、ちょうど玲奈と莉愛が到着したところだった。広々としたオフィスで、桐島がノートパソコンの画面を俺たちに見せる。
「神谷さんへの誹謗中傷に関する発信者情報開示請求は、すでに着手しています」
桐島が淡々と説明する中、玲奈は腕を組み、鋭い視線で画面の情報を分析している。莉愛は退屈そうに脚をブラブラさせていたが、自分の炎上の話題になると、悔しそうに唇を噛んだ。俺は、自分の運命が決まる話に、固唾を飲んで画面に食い入っていた。
「桐島、どれくらいかかりそう?」
「二ヶ月でなんとかします」
「もっと早くできないの?」
「お嬢様、これが限界です」
帰り際、俺は尋ねた。「爆破予告の犯人って、わかりますか?」
桐島は、黒縁メガネの奥の瞳を光らせた。「心配はご無用です。…抜かりはありません」
事務所からの帰り道、俺はタクシーを呼ぼうとする莉愛の手を制した。
「もう、逃げる必要はないだろ? 三人で、手を繋いで歩こうぜ」
俺が手を差し出すと、二人は幸せそうに微笑んでそれを握った。道中、「Kさんですか?」と声をかけてきた女子高生ファンと、俺は気さくに握手を交わし、一緒に写真を撮った。「アンチに負けないでください!」という声援に、俺は少し照れながら手を振る。その光景を、玲奈と莉愛は、少し離れた場所から、どこか誇らしげに、しかし、ほんの少しだけ複雑な表情で見つめていた。
向かったのは、都心の一等地に佇む高級ブランドのブティックだった。
莉愛にされるがままに着替えて試着室から出ると、俺は大きな姿見に映る自分を見て、思わず呟いた。
「…似合ってねえな」
その一言をきっかけに、姉妹のコーディネートバトルが始まった。「絶対こっちのストリート系が似合うって!」「いいえ、莉愛。神谷さんには、もっと落ち着いた、知的なスタイルの方がお似合いよ」
やがて決まった服を手に、俺は試着室へと向かう。
(服を変えたくらいで、ほんとに印象なんて変わるもんかねえ…)
そんなことを呟きながら、ヨレヨレのTシャツと色褪せたジーンズを試着室で脱ぎ捨て、新しい服に袖を通す。
俺が試着室から出てくると、さっきまで騒がしかった玲奈と莉愛が、息を呑んで固まった。
そこに立っていたのは、もはや製氷工場で働いていた頃の、陰鬱なオーラをまとった男ではなかった。体に吸い付くようなシルエットの、上質な黒のセットアップ。インナーには、遊び心のあるプリントTシャツを合わせ、足元はシンプルな白のスニーカーで外している。自信のなさを隠すように丸まっていた背筋は堂々と伸び、何かに怯えていた瞳は、今は、全てを見透かすような鋭い光を宿していた。それは、まさに、これからエンタメ業界に君臨する、若き「王」の風格そのものだった。
その変貌ぶりに、莉愛が目を輝かせた。「Kくん、モデルとかどうかな?」
「いいじゃない。うちの系列のモデル事務所に、マネージャーとして話を通しておくわ」
「…マジかよ」俺の呟きは、二人の熱狂にかき消された。
その時、俺の口から、無意識に言葉がこぼれていた。
「…玲奈さん。あなた、普段はスカートが多いけど、その服も素敵ですが、あなたの本来の魅力を、少しだけ隠してしまっている気がします。あなたは、もっと…強くて、華やかな色が似合う。こういう…」
俺が選んだ大胆なドレスを手に取ると、玲奈は試着室へと向かった。出てきた彼女は、まるで「月」から「太陽」へと変貌したかのように、圧倒的なオーラを放っていた。
「…似合ってる、かしら?」恥ずかしそうに頬を染める彼女に、俺は見惚れていた。
「莉愛も。制服も可愛いけど、君の元気さを活かすなら、もっとポップな色使いで、少しボーイッシュな要素を入れた方が、ギャップで可愛さが際立つと思う。例えば、キャップを逆さにかぶって、ショートパンツで健康的な脚を見せるとか」
制服姿の莉愛も、俺のアドバイス通りに着替えて試着室から出てきた。
「わ、すごい! これ、気に入った!」
彼女は、ただの美少女から、誰も敵わない「無敵のアイドル」へと昇華されていた。
これまで俺がネットの世界で、何千、何万というコンテンツを見てきた経験。その膨大なデータが、俺の脳内でプロデュース能力として蓄積されていたのだ。それだけじゃない。今時の流行りにうるさい、妹の美咲。あいつがいつもリビングに置きっぱなしにしているファッション雑誌が、自然と目に入っていた。そのページで、莉愛が特集されている記事を偶然見つけて、『このモデル、すごいな』と呟いたら、『お兄ちゃん、今さら!? 超人気じゃん!』と、美咲に呆れられた記憶が、不意に蘇る。俺は、美咲とのくだらない口喧嘩に負けたくない一心で、流行りの服や、コーディネートの基本を、こっそり勉強していたんだ。
俺は、この時初めて、自分の中に眠っていた「才能」の存在に気づいた。それは、孤独なネットサーフィンと、生意気な妹との何気ない日常、その両方から生まれた、歪で、しかし確かな光だった。
「お姉ちゃん、圭佑くんすごい…!」
莉愛は興奮した様子でスマホを取り出すと、変貌を遂げた俺たち三人の姿を撮影し、こう呟いてSNSに投稿した。
『新生Kスケ、爆誕! プロデューサーは、神でした。#KスケPの神コーデ』
その投稿は、瞬く間に拡散された。
【静:運命の夜】
夜。リビングでは、玲奈がノートパソコンに向かい、驚異的な速さでキーボードを叩いていた。その隣で、俺と莉愛は固唾を飲んで画面を覗き込んでいる。
カタカタカタ…ターン!
小気味良い最後のエンターキーの音と共に、玲奈が静かに告げた。
「――できたわ」
モニターに映し出されていたのは、洗練されたデザインと、俺たちの理念が完璧に表現された、Kスケ『ガチ恋彼女オーディション』特設応募サイト、だった。
「すげえ…」
「お姉ちゃん、さすが!」
俺と莉愛は、思わず感嘆の声を漏らした。
その時、莉愛のスマホが鳴った。「あ、爺がお迎えに来たみたい。私、もう帰るね」
莉愛は名残惜しそうに立ち上がると、俺に向かって悪戯っぽくウインクした。「オーディションの報告、楽しみにしてるからね!」
そう言い残し、彼女は上機嫌で玄関へと向かっていった。
静かになったリビング。
「お風呂、沸かしておくわね」玲奈はそう言うと、バスルームの方へと消えていった。
「あ、いや、俺が…」呼び止めようとしたが、声が出なかった。彼女はまだ、ブティックで買ったばかりの、大胆なドレスを着たままだ。その、普段とは違う艶やかな後ろ姿を、俺はただ見送ることしかできなかった。
一人残された俺は、広すぎるソファに深く腰掛け、テーブルの上に無造作に置かれていたゲーム雑誌を、夢中になって読み漁った。まるで、自分の部屋にいるかのように。
やがて戻ってきた玲奈は、俺の隣に座り、ノートパソコンの画面をこちらに向けた。
時計の針が、運命の0時を指そうとしていた。
SNSの熱狂を背に、玲奈がサイトを公開する。
その、直後だった。
ピコン、と静かな通知音が響く。サイト公開と同時に、一件の応募通知が届いたのだ。
その応募者のプロフィール画面を開いた玲奈が、息を呑んで俺にモニターを向けた。
【氏名】佐々木 美月
【応募動機】神谷さんの切り抜きを見て好きになりました。私を覚えてますか?
そこには、スーツ姿で控えめに微笑む、佐々木さんの顔写真があった。美月、か。
俺は、もはや怯えるだけの被害者ではなかった。
SNSの熱狂が、世間が、そして何より隣にいる女神たちが、俺に自信を与えてくれていた。
俺は、プロデューサーとして、自らの「過去」と対峙する時が来たことを知った。
「…オーディションに、呼んでくれ」
それは、怯えていた青年の言葉ではなかった。
自らの物語の舵を、自分の手で握ると決めた、覚醒した王の第一声だった。
「俺は、もう誰かの犬にはならない。俺が、俺の物語の舵を切るんだ」
俺は、隣に座る玲奈に向き直ると、静かに、だがはっきりと告げた。
「玲奈さん。俺は、あんたたちを、世界一のアイドルにしてみせる。だから、あんたも、俺を世界一のプロデューサーにしてくれ」
俺の言葉に、玲奈は一瞬目を見開いた後、満面の笑みで、まるで太陽のように、美しく微笑んだ。
「――ええ。喜んで、プロデューサー」
第四話『王の覚醒、あるいは二つのキス』、お楽しみいただけましたでしょうか。
今回は、我らが主人公・Kこと神谷圭佑が、プロデューサーとしての才能の片鱗を見せ、そして、過去の自分と決別する、非常に重要なエピソードとなりました。
玲奈と莉愛、二人のヒロインに振り回されながらも、彼女たちの存在が、皮肉にも彼を「王」の座へと押し上げていく。この奇妙で、しかし運命的な関係性が、この物語の大きな魅力の一つです。
ハンバーグのシーンで、Kが流した涙。
あれは、ただの優しさに対する感謝ではありません。
彼がずっと無意識に求めていた「人の温もり」と、それから目を背けさせていた「ネットの悪意」との間で揺れ動く、彼の心の叫びそのものです。