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渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

湘南藤沢 ~私の第二のふるさと~

2025年07月27日 | open



私は東京目黒で生まれ、
の島のある湘南藤沢と
古い
国際港湾都市横浜で育った。


藤沢市にある湘南の江の島
は3才頃から小学
生低学年
の頃まで、父と共に毎週

ように行ってた。ほんと毎
週。少年野球や柔剣道をや
るようになって
からは海に
行くのは足が遠
のいた。
だが、湘南海岸にはひとし

おの思い入れがある。


今でこそ、ややまともに
なった海だが、1960年代
はどぶ川のような海だっ
た(笑
国内の公害が最大だった

頃の時代。
この海岸は鎌倉市になる。


入学した小学校からの帰
り道、この左手にある現
在不動産屋さんの建物の
所には、アイスやジュー
スを売っている酒屋さん
があった。境川の川沿い。
小学生たちはそこで通学
帰りに買い食いをしてい
た。セブンアップとペプ
シが大人気だった。
ペプシの王冠の裏をはぐ
るとアタリで現金もらえ
るという時代(笑
巨人・大鵬・玉子焼きの
時代。あたしゃ5才の時
から阪神ファンだったが。
今から60年前の事だ。


この坂は結構きつい坂。
60数年前から変わらない。
この坂を登り切ったと
ろの藤が丘一丁目に
住ん
でいた。

幼馴染たちは、この公団
団地内に多くいたが、街
中にも大勢いた。
蕎麦屋の倅や学校の隣り
に家があったり、学校付
近の商店街の子たちだっ
たり。


江の島湘南海岸に面した
神奈川県藤沢市というの
は、縦に長い市だ。
伏せたライオンを縦にし
たような形をしている。


藤沢はJR東海道線(湘南
車)と小田急線の駅が
ある。
江ノ電の駅も。

藤沢駅から江の島の海岸
では4キロを切る距離
だ。
横浜市がかなり広く、南
までせり出していて、
湘南
海岸から数キロの地
点まで
が横浜市となって
いる。
藤沢市よりもずっと南部
で横浜市は伸びている
形。
狭い鎌倉市のすぐ上(北)が
もう横浜市になる。
ただ、藤沢市内は湘南ナン
バーだが、鎌倉市は横浜
ンバーのままだ。

これは保守派議員の横槍
よって県西部内陸部が
湘南
ナンバー地域にされ、
鎌倉
のみ横浜ナンバーで
残され
た。

鎌倉の人たちは地元鎌倉
湘南にひとかどならぬ
愛着
があるので、湘南ナ
ンバー
が誕生したのに自分の居住
地が除
外されたのにはわだ
かま
りみたいなのもあるの
はなかろうか。

湘南ナンバーの誕生は、
は1970年代から噂され
てい
たが、実現しない夢
物語の
ように云われてい
た。
ある意味、伝統のハマナ
よりも待望されたのが
湘南
ナンバーだった。

私もずっとハマナンのバ
クだったが、湘南ナン
バー
にはある種の憧憬と
同時に
懐かしみがある。

湘南の海が、私にとって
別な海だからだ。


東京・神奈川とずっと海
ある街で育ったが、一
時期
埼玉県に転住して一
番ショ
ックだったのは、
それは海
が無い事ではな
かった。
埼玉県から見える富士山が
とんでもなく小さいのだ。
「なんだ?あれ」という程
小さくて「ほえ~」となっ
た。
それと驚いたのが、関東
野という所に初めて住
んだ
ので、自転車でどこ
までも
行ける事だった。

東京山の手、神奈川湘南、
横浜は丘陵地帯でもある
で、坂だらけだ。

チャリンコは下りて坂を
すのが当たり前だった。
横浜などは道路の先が階段、

とかいう道も多かったりす
る。
ところが埼玉は違った。
どこまでも平坦地。
あれにはおったまげた。
海が無い事よりも、富士山
がとんでもなく遠くて小さ
く見えた事と、チャリでど
こまでも行ける事に驚いた。
そして、東京・神奈川は大
好きだが、埼玉県の大宮以
南の人たちは温かい人たち
ばかりだった。
これは母とも時々話すが、
もう一度住みたい町、とい
う話題になるといつも大宮
が出て
来る。まじでいい人
だらけ
の市だった。今は大
都会に
なったけどさ。
大宮駅西口がこんなだった
頃の半世紀前のオハナシ。
私の学生時代の1980年代の
初期でも大宮駅の西口はこ
んな感じだった。
この写真は多分1974年頃。

この写真右側の屋根の隣り
に駅前交番があった。大宮
駅構内で朝鮮高校生と日本
人の高校生の集団乱闘が始
まると、ここから警官が数
名すっ飛んで行くのが日常
だった。
埼玉県の川口市や大宮市は
神奈川県の川崎市と空気が
よく似ていた。
決して殺伐としているので

はなく、仲間や他人思いの
強い熱いハートの人が多く
いる町だった。大宮は良い。

今は大宮駅西口は巨大都市
になってしまった。大変化。
現在の大宮駅前西口。
なんだこれ?(笑
これは未来でつか?

ええ、1974年からは50年後
の未来です(笑


神奈川県の藤沢駅周辺は再
開発計画が
あるらしいが、
駅前の商業施設等は60年前
とさ
ほど現在も変わってい
ない。

大宮は横浜郊外から引っ越
した時にさえ田舎だな~と
いう感
じだったが、藤沢は
戦後早
くから東京ベッドタ
ウン化
された先進シティだ
った。

今でこそ藤沢は古臭い街に
見える
が、60年前は最新の
文化的な
住宅エリアとして
ピカピカ
していた街が湘南
の玄関口
の藤沢だった。
いわゆる戦後の「中産階級」

という勤め人で占められた
ような町だった。
そして、民度は60年以上前
から著しく高い地方都市だ
ったという歴史の実像があ
った町が藤沢だった。
都内の文化人たちも好んで

多くが移り住んだのが藤沢
という町でもあった。
私の子ども時分からの印象

は「知的な町」というもの
があった。
この頃ね。

(昭和40年-1965年/さいか屋
の屋上遊園地にて)
幼稚園児の制服ではない。
出かける時は普段いつもこ
んな服だった。お洒落をこ
いているのではない。単な
る外出時の普通の身だしな
み。大人の父親はスーツを
着て、母親もフォーマルな
服で家族でデパートに行く。
首都圏の戦後の庶民はそれ
だったし、藤沢でもそうい
う戦後都市部の庶民の風俗
がごく普通の光景だった。


60年前とあんまし変わって
ねぇだよな、藤沢。
この街もとてもいいとこ。
住むにはかなり良い。
横浜市内よりいいかも。



 
 


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