私は東京目黒で生まれ、江
の島のある湘南藤沢と古い
国際港湾都市横浜で育った。
藤沢市にある湘南の江の島
は3才頃から小学生低学年
の頃まで、父と共に毎週の
ように行ってた。ほんと毎
週。少年野球や柔剣道をや
るようになってからは海に
行くのは足が遠のいた。
だが、湘南海岸にはひとし
おの思い入れがある。
今でこそ、ややまともに
なった海だが、1960年代
はどぶ川のような海だっ
た(笑
国内の公害が最大だった
頃の時代。
この海岸は鎌倉市になる。
入学した小学校からの帰
り道、この左手にある現
在不動産屋さんの建物の
所には、アイスやジュー
スを売っている酒屋さん
があった。境川の川沿い。
小学生たちはそこで通学
帰りに買い食いをしてい
た。セブンアップとペプ
シが大人気だった。
ペプシの王冠の裏をはぐ
るとアタリで現金もらえ
るという時代(笑
巨人・大鵬・玉子焼きの
時代。あたしゃ5才の時
から阪神ファンだったが。
今から60年前の事だ。
この坂は結構きつい坂。
60数年前から変わらない。
この坂を登り切ったとこ
ろの藤が丘一丁目に住ん
でいた。
幼馴染たちは、この公団
団地内に多くいたが、街
中にも大勢いた。
蕎麦屋の倅や学校の隣り
に家があったり、学校付
近の商店街の子たちだっ
たり。
江の島湘南海岸に面した
神奈川県藤沢市というの
は、縦に長い市だ。
伏せたライオンを縦にし
たような形をしている。
藤沢はJR東海道線(湘南電
車)と小田急線の駅がある。
江ノ電の駅も。
藤沢駅から江の島の海岸ま
では4キロを切る距離だ。
横浜市がかなり広く、南部
までせり出していて、湘南
海岸から数キロの地点まで
が横浜市となっている。
藤沢市よりもずっと南部ま
で横浜市は伸びている形。
狭い鎌倉市のすぐ上(北)が
もう横浜市になる。
ただ、藤沢市内は湘南ナン
バーだが、鎌倉市は横浜ナ
ンバーのままだ。
これは保守派議員の横槍に
よって県西部内陸部が湘南
ナンバー地域にされ、鎌倉
のみ横浜ナンバーで残され
た。
鎌倉の人たちは地元鎌倉と
湘南にひとかどならぬ愛着
があるので、湘南ナンバー
が誕生したのに自分の居住
地が除外されたのにはわだ
かまりみたいなのもあるの
ではなかろうか。
湘南ナンバーの誕生は、実
は1970年代から噂されてい
たが、実現しない夢物語の
ように云われていた。
ある意味、伝統のハマナン
よりも待望されたのが湘南
ナンバーだった。
私もずっとハマナンのバイ
クだったが、湘南ナンバー
にはある種の憧憬と同時に
懐かしみがある。
湘南の海が、私にとって特
別な海だからだ。
東京・神奈川とずっと海の
ある街で育ったが、一時期
埼玉県に転住して一番ショ
ックだったのは、それは海
が無い事ではなかった。
埼玉県から見える富士山が
とんでもなく小さいのだ。
「なんだ?あれ」という程
小さくて「ほえ~」となっ
た。
それと驚いたのが、関東平
野という所に初めて住んだ
ので、自転車でどこまでも
行ける事だった。
東京山の手、神奈川湘南、
横浜は丘陵地帯でもあるの
で、坂だらけだ。
チャリンコは下りて坂を押
すのが当たり前だった。
横浜などは道路の先が階段、
とかいう道も多かったりす
る。
ところが埼玉は違った。
どこまでも平坦地。
あれにはおったまげた。
海が無い事よりも、富士山
がとんでもなく遠くて小さ
く見えた事と、チャリでど
こまでも行ける事に驚いた。
そして、東京・神奈川は大
好きだが、埼玉県の大宮以
南の人たちは温かい人たち
ばかりだった。
これは母とも時々話すが、
もう一度住みたい町、とい
う話題になるといつも大宮
が出て来る。まじでいい人
だらけの市だった。今は大
都会になったけどさ。
大宮駅西口がこんなだった
頃の半世紀前のオハナシ。
私の学生時代の1980年代の
初期でも大宮駅の西口はこ
んな感じだった。
この写真は多分1974年頃。
この写真右側の屋根の隣り
に駅前交番があった。大宮
駅構内で朝鮮高校生と日本
人の高校生の集団乱闘が始
まると、ここから警官が数
名すっ飛んで行くのが日常
だった。
埼玉県の川口市や大宮市は
神奈川県の川崎市と空気が
よく似ていた。
決して殺伐としているので
はなく、仲間や他人思いの
強い熱いハートの人が多く
いる町だった。大宮は良い。
今は大宮駅西口は巨大都市
になってしまった。大変化。
現在の大宮駅前西口。
なんだこれ?(笑
これは未来でつか?
ええ、1974年からは50年後
の未来です(笑
神奈川県の藤沢駅周辺は再
開発計画があるらしいが、
駅前の商業施設等は60年前
とさほど現在も変わってい
ない。
大宮は横浜郊外から引っ越
した時にさえ田舎だな~と
いう感じだったが、藤沢は
戦後早くから東京ベッドタ
ウン化された先進シティだ
った。
今でこそ藤沢は古臭い街に
見えるが、60年前は最新の
文化的な住宅エリアとして
ピカピカしていた街が湘南
の玄関口の藤沢だった。
いわゆる戦後の「中産階級」
という勤め人で占められた
ような町だった。
そして、民度は60年以上前
から著しく高い地方都市だ
ったという歴史の実像があ
った町が藤沢だった。
都内の文化人たちも好んで
多くが移り住んだのが藤沢
という町でもあった。
私の子ども時分からの印象
は「知的な町」というもの
があった。
この頃ね。
(昭和40年-1965年/さいか屋
の屋上遊園地にて)
幼稚園児の制服ではない。
出かける時は普段いつもこ
んな服だった。お洒落をこ
いているのではない。単な
る外出時の普通の身だしな
み。大人の父親はスーツを
着て、母親もフォーマルな
服で家族でデパートに行く。
首都圏の戦後の庶民はそれ
だったし、藤沢でもそうい
う戦後都市部の庶民の風俗
がごく普通の光景だった。
60年前とあんまし変わって
ねぇだよな、藤沢。
この街もとてもいいとこ。
住むにはかなり良い。
横浜市内よりいいかも。