第17話 怠惰の海と夜瑠のレクイエム

【導入:魂の共鳴と、言葉の鎖】

 タワマン最上階の一室。

 夜瑠は、自室の机に置かれたノートパソコンの前で、静かに椅子に座っていた。

 画面に映し出されているのは、数年前、彼女自身が、国民的人気アイドルグループ**『ルナティック・ノヴァ』**の絶対的センターとして、ドームのステージに立っていた頃のライブ動画だった。

 完璧なパフォーマンス、熱狂する観客。そこは、かつて引きこもりだった彼女が、血の滲むような努力の末に掴み取った、しかし、最近、神宮寺のでっちあげのスキャンダルによって失ってしまった、二度と戻らない、輝かしい世界だった。


 カチリ。彼女は、マウスをクリックし、動画を一時停止した。

 画面には、ライトを浴びて、最高の笑顔で輝いている、過去の自分がいる。

「…もう、私には、戻れない場所…」


 彼女が、自嘲するように呟いた、その瞬間だった。

 ブツン、と、部屋の電気が、全て消えた。

「え…?」


 暗闇の中、彼女のノートパソコンの画面だけが、不気味な光を放っている。

 そして、スピーカーから、声が聞こえ始めた。


『…あいつ、センターのくせに、愛想悪いよね』

 それは、かつて、楽屋裏で囁かれていた、メンバーたちの陰口だった。

 文字となったその言葉が、パソコンの画面から、黒いタールのように溢れ出してくる。

『枕営業だろw』『早く辞めろよ、ブス』

 今度は、ネットの掲示板に書き込まれた、無数の誹謗中傷。


 ゴッ! という鈍い音と共に、部屋の壁が内側から突き破られた。

 そこから現れたのは、無数の「陰口」と「誹謗中傷」のテキストが、まるで茨のように絡み合って形成された、禍々しいデータの鎖だった。

 鎖は、生き物のようにうねり、逃げ惑う夜瑠の足首に、腕に、そして心臓に、きつく、きつく絡みついていく。

「いや…! やめて…!」


 身動きが取れなくなった彼女の目の前に、ノイズ混じりの、ショッキングな映像がオーバーラップした。

 ――薄暗い研究室。拘束された男が、何かを注入され、絶叫している。神宮寺らしき男の、冷たい笑い声。

 それは、ベルフェゴールが、神宮寺によって人工ウイルスモンスター兵器の被験者にされる、地獄の記録だった。

 そして、鎖の中心から、あの底なしの虚無に満ちた声が、響き渡った。

『…お前も、同じか…。『言葉』に、心を殺された、哀れな魂よ…』


 その声に、夜瑠の意識が、暗く、冷たい絶望の底へと、引きずり込まれようとした、まさに、その時。

 ハッと目を覚ますと、そこは自室のベッドの上だった。いつの間にか眠ってしまっていたらしい。だが、あの悪夢は、あまりにも鮮明だった。

 彼女は、荒い息をつきながら、スマホを握りしめた。

(…あの人も、私と同じ…ううん、それ以上に、苦しんでいる…)

 彼女は、ベッドから飛び降りると、クローゼットから一眼レフカメラを取り出し、その首にかけた。

「…行かなければ」


 彼女は、すぐさま司令室へと向かった。

「私も、行きます」

 モニターの前で指揮を執っていた俺は、血走った目で駆け込んできた夜瑠を見て、驚いた。

 キララが「夜瑠ちゃん…?」と心配そうに呟き、詩織も驚いたように目を見開いている。

「夜瑠!? お前は【防衛チーム】だろ!?」

「いいえ。私が行かなければ、ダメなんです。あの人は…私と同じ匂いがするから」

 その瞳には、有無を言わせぬ、強い意志の光が宿っていた。俺は、その気迫に押され、静かに頷くしかなかった。

 夜瑠がダイブギアを装着する。スイッチを入れた瞬間、再びあの絶望の声が脳内に響き、彼女は激しい頭痛に顔をしかめた。


【展開①:電子の海の攻防】

 目眩く光の奔流の中を、俺たちのアバターは突き進む。

 俺たちが降り立ったのは、K-PARKの深層に隠された、秘密の電脳潜水ドックだった。

 その中央、係留アームに固定されているのが、俺たちが乗り込む、白銀の流線型ボディを持つ、未来的な小型潜水艇『ノーチラス』だ。

「うわー! カッコいい! 冒険みたいだね!」キララが、子供のようにはしゃいでいる。

「…気を抜くな。ここから先は、本物の戦場だ」俺は、そんな彼女を軽く嗜めた。


 今宮が、コンソールの発進ボタンを押す。

 すると、潜水艇の前方を塞いでいた巨大な円形のハッチが、まるで巨大なカメラの絞りが開くように、幾重にも重なった装甲板を回転させながら、ゆっくりと開いていった。 潜水艇の二つの巨大なヘッドライトが、前方の電子の海を、強く照らし出す。

 潜水艇は、音もなく、漆黒のデータポートから、広大な電子の海へと滑り出した。


『パシフィック・ウォール』の内部は、情報という名の海流が渦巻く、海底にそびえ立つ、光のデータ要塞のようだった。青白い光の柱がサンゴ礁のように林立し、サーバー間を移動するデータ群が、発光する魚の群れのように俺たちの横を通り過ぎていく。


「来たぞ!」

 俺の警告と同時、周囲のデータが凝縮し、無数のセキュリティプログラムが、鋭い牙を持つ、凶悪なアンコウやウツボのような姿をした、水棲ウイルスモンスターとなって襲いかかってきた。

「雑魚は私に任せな!」

 アゲハのマイクが、瞬時に変形し、先端に巨大な拡声器型のアタッチメントが装着される。 彼女がそこにデスボイスを叩き込むと、物理的な衝撃波として視認できるほどの、強力な低周波が電脳の海を震わせ、敵を一掃した。


 だが、その時だった。

 ウイルスたちの残骸の中から、一体だけ、全く異質な存在が姿を現した。

 それは、攻撃的なウイルスとは似ても似つかない、ステンドグラスのように美しい翅(はね)を持つ、巨大な蝶の姿をしたプログラムだった。

 蝶は、俺たちを攻撃するでもなく、ただ、哀しげに燐光を放ちながら、一筋の光の道を残しながら、さらに深い闇の中へと消えていった。


「…なんだ、こいつは…?」俺が戸惑っていると、司令室の莉愛から通信が入る。

『圭佑くん、気をつけて! そのデータパターンは…莉子ちゃんの魂に、酷似しているわ…!』

「…いいえ、おそらく、これは道標です」

 夜瑠が、静かに呟いた。「あの人が、私たちを呼んでいる」

 彼女に導かれるように、俺たちは、蝶が残した光の道を進んでいった。

 その道の先、巨大な洞窟のような空間の入り口を、一体の巨大なウイルスモンスターが、門番のように塞いでいた。それは、巨大なアンコウの頭部に、無数のウツボの胴体を絡みつかせたような、おぞましい姿をしていた。

「こいつを倒さないと、先に進めねえってわけか!」

 アゲハが真っ先に飛び出し、あんじゅと詩織が完璧な連携でサポートする!

 怪物が、最後の抵抗として、その提灯から最大出力の破壊光線を放とうとする、その瞬間。

「――させない! フラッシュ!」

 夜瑠が叫ぶと、彼女の一眼レフカメラから、太陽光のような眩い閃光が放たれ、怪物は断末魔の叫びと共に消滅した。


【展開②:怠惰の王、ベルフェゴール】

 幾度かの激しい戦闘の末、ついに、俺たちは最深部のコアサーバー――巨大なアクアドームへとたどり着いた。

 そこは、巨大なドーム状の空間だった。壁面は全てガラス張りになっており、その向こう側を、先ほど遭遇した水棲ウイルスモンスターたちが、まるで巨大な水族館のように、ゆったりと泳いでいる。


 だが、ドームの中心、ベルフェゴールがいる玉座へと続く道は、巨大で、継ぎ目のない、完璧な球形の防壁によって、完全に閉ざされていた。

 その時だった。先ほど、俺たちの前から姿を消した、あの美しい蝶が、どこからともなく現れた。

 蝶は、球形の防壁の、一点に、ふわりと、舞い降りる。

 ゴゴゴゴゴ…重々しい音と共に、完璧な球形だった防壁が、巨大なカメラの絞りが開くように、幾重にも重なった装甲板を回転させながら、ゆっくりと開いていった。

 ハッチが開いたのだ。玉座へと続く、唯一の道が。


「行くぞ」俺の言葉に、メンバーたちは静かに頷き、潜水艇から降り立つ。

 その中央、巨大な玉座のようなサーバーラックの上に、一体の悪徳が座っていた。

 そして、その玉座の周囲には、無数の「家族写真」のデータが、ホログラムのように、ゆっくりと回転しながら浮遊していた。

 笑い合う夫婦。生まれたばかりの赤ちゃん。公園で遊ぶ、幼い少女。その全てが、幸せの絶頂を切り取ったかのような、温かい光景だった。


 その中央で、骨と皮だけのように痩せこけ、死人のように蒼白い肌をした、『怠惰』の王、ベルフェゴールがいた。

「随分とひ弱じゃねえか」アゲハが、顎をしゃくりながら挑発する。

「ちょっと、アゲハちゃん!」あんじゅが、慌てて彼女の腕を引っ張ってなだめた。

「…来たのか」

 彼は、俺たちを一瞥すると、億劫そうに呟いた。「…ここは、私の『思い出』の場所だ。…静かに、眠らせてくれないか」


【結び:道化の挑発と、夜瑠のレクイエム】

 その静寂を破ったのは、空間を無理やり引き裂いて乱入してきた、武装ゴブリン姿の田中だった。

「よぉ、圭佑。また会ったな」

 田中は、ベルフェゴールが唯一大切にしていた「家族写真」のデータを、ショットガンで、無慈悲に、一枚、また一枚と、データノイズの藻屑へと変えていく。それらは、ただの写真ではない。彼の精神を安定させるための、一種の封印だったのだ。

「どうした? これでお前の『思い出』は、全部終わりだぜ? …さあ、これで、ようやく俺と遊ぶ『やる気』になったかよ? 怠惰の王様よぉ!」


「…きさまぁ…!! よくも…! よくも、私の『宝物』を…!!」

 それまで虚無の塊だったベルフェゴールの瞳に、初めて、燃え盛るような、純粋な「怒り」の炎が宿った。

 彼の体から、黒いオーラが爆発的に溢れ出す! 痩せこけていた体は、みるみるうちに筋骨隆々の巨体へと変貌し、皮膚は黒い甲殻に覆われ、関節からは鋭い棘が突き出し、その背からは、カマキリの鎌と、トンボの翅を組み合わせたような、禍々しくも美しい、黒い昆虫の翅が生える。その顔は、もはや人間のそれではなく、複数の昆虫のパーツを繋ぎ合わせたような、異形の怪物と化していた。それは、神話に登場する破壊神を彷彿とさせる、神々しくも絶望的な姿だった。


 俺たちメンバーは、この壮絶な光景に、ただ立ち尽くすことしかできない。

 だが、夜瑠だけは、違った。

「…彼は、苦しんでいます。私が、光の元へ還しましょう」

 彼女は、ベルフェゴールの絶望を、その怒りを、その悲しみを、誰よりも痛いほど理解できた。

 それは、かつて自室に引きこもり、世界の全てを憎んでいた、過去の自分自身の姿だったからだ。


 その神話の破壊神を彷彿とさせる、神々しくも絶望的な姿を前に、田中は、それまでの不敵な笑みを凍りつかせ、ガチガチと歯を鳴らし始めた。

「ひっ…! な、なんだよ、お前…! ただのデータの塊のくせに…!」

 彼は、完全に狼狽し、ショットガンを乱射するが、その弾丸は、ベルフェゴールの黒い甲殻に、カン、カン、と虚しい音を立てて弾かれるだけだった。

「話が違うじゃねえか! 神宮寺様ぁぁぁっ!!」

 田中が、最後の助けを求めるように絶叫した、その瞬間。彼の目の前に、ベルフェゴールの巨大な手が、影となって覆いかぶさった。

「――神宮寺ィィィィッ!!」

 ベルフェゴールは、その名を、全ての憎しみを込めて叫ぶと、田中のアバターを、一切の躊躇なく、蟲のように、完全に握りつぶした。

 田中は、断末魔の叫びすら上げることなく、光の粒子となって消滅した。


 そして、怒りをぶつける相手すらも失い、無限の絶望に沈む王が、ゆっくりと、こちらを振り返った。

「アアアアアアアアアアアァァァァァァ!!!!」

 ベルフェゴールが、天を仰いで、慟哭の咆哮を上げた。その破壊の音波に呼応するかのように、アクアドームの外側を泳いでいた、巨大なワニのウイルスモンスターが、狂ったように興奮し、ガラス壁に頭から突進してきたのだ!

 ガラス壁に、巨大な蜘蛛の巣状のヒビが、一気に広がっていく!

「――させないっ!」

 最初に動いたのは、キララだった。彼女は、覚醒した【アフェクション・ローブ】をはためかせ、癒やしの歌で、ガラスのヒビをみるみるうちに修復していく。破壊と、修復。まさに、一進一退の、ギリギリの攻防だった。


 ベルフェゴールが、その絶望の全てを込めて、俺たちに止めを刺しようと、巨大な腕を振り上げた。

 その、あまりにも哀しい瞳を見た、その瞬間。

 夜瑠のアバターに、変化が起きた。

 彼女が首から下げていた一眼レフカメラが、まばゆい白銀の光を放ち始め、彼女の魂と一体化するように、そのフォルムを変えていく。


「…夢で、お会いしましたね」

 夜瑠は、その覚醒したカメラを、静かに構えた。

「あなたと私は、似ているのかもしれません。だから…これは戦いじゃない。私の、鎮魂歌(レクイエム)です。…聴いてください」


 俺は、その姿を見て、全てを理解した。

 そして、インカムに、静かに、しかし迅速に指示を飛ばした。

「今宮! 浮遊ライブカメラを、ありったけ、ここに集めろ!」

「あんじゅ! この薄暗いアクアドームを、夜瑠のためだけの、最高のステージにライトアップしろ!」

「ミューズ! BGMは、夜瑠のソロ曲、『〇〇(曲名)』だ。最も、静かで、優しいアレンジで流せ」


 ここは、もはや戦場ではない。

 一人の傷ついた魂を救うための、たった一人だけの、聖なるソロライブのステージだ。

 その光景は、全世界へとリアルタイムで配信されていた。

『行けっ! 夜瑠!』『俺たちの祈りを、力に変えろ!』

 全世界の視聴者から送られてきた、膨大な数の「ギフト」が、光の粒子となって夜瑠のアバターに流れ込み、彼女の力を増幅させていく。


「…ありがとう、みんな。――見てて」

 夜瑠は、優しく微笑むと、その口元に、ヘッドセット型のワイヤレスマイクを装着した。

 そして、歌いながら、舞う。

 バレエダンサーのように、しなやかにターンし、フィギュアスケーターのように、優雅に宙を滑る。

 その華麗なダンスは、ベルフェゴールの荒れ狂う絶望のオーラを、まるで風を受け流す柳のように、いなしていく。

 そして、彼女は、舞の合間に、まるで祈りを捧げるかのように、そのカメラのシャッターを、一枚、また一枚と、切っていく。


 カシャリ。

 一つのシャッター音と共に、レンズから放たれた光の奔流は、この電子の海を進んできた、潜水艇『ノーチラス』の、あの二つの巨大なヘッドライトの光そのものだった。

 その光が、破壊された「家族写真」のデータを、一枚、復元する。

 彼女が舞い、歌い、シャッターを切り続けるたびに、ベルフェゴールの周囲には、失われたはずの「幸せな思い出」が、次々と蘇っていく。


 ベルフェゴールの巨大な体から、黒いオーラが消えていく。彼は、元の痩せこけた姿に戻ると、その場に膝をつき、子供のように、ただ泣きじゃくっていた。

 復元された写真の中から、一人の女性と、幼い男の子のホログラムが、ふわりと、抜け出してきた。

 あなた…、もう、いいのよ》《パパ、お迎えに来たよ》

「…ああ…。ああ…! 会いたかった…!」

 ベルフェゴールは、最後に、夜瑠の方をまっすぐに見つめた。その瞳には、深い、深い感謝の光だけがあった。「…やっと、眠ることができる…。ありがとう」

 その言葉に、夜瑠は、静かに、しかし力強く、頷いた。

「――ええ。私が、送ってあげましょう。あなたの、愛する家族の元へ」

 カシャリ。彼女は、最後のシャッターを、静かに、そして優しく、切った。

 レンズから放たれた聖なる光に包まれ、ベルフェゴールと、その家族の姿は、三位一体となって、ゆっくりと、天へと昇っていく。


 その奇跡の光景の中心で、夜瑠の服装が、いつの間にか変化していることに、俺は気づいた。

 いつものアイドル衣装ではない。彼女がずっと憧れていたという、『ルナティック・ノヴァ』のセンター衣装を、どこか彷彿とさせる、気高く、そして美しい、深い紫色を基調とした、星屑のラメが輝くゴシックドレスだった。

 そして、彼女の手にある一眼レフカメラもまた、その姿を変えていた。

 無機質な白銀のボディではなく、まるで黒曜石を削り出したかのような、漆黒のボディ。そのレンズの周りには、紫色の紋様が、心臓の鼓動のように明滅している。 それは、もはや機械ではない。彼女の魂と完全に一体化した、魔法のアーティファクトだった。


 物語は、K-MAXが、力ではなく、「共感」と「救済」、そして**最高の「ライブ・エンターテイメント」**によって、初めて悪徳を浄化した、奇跡の瞬間で、幕を閉じる。

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成り上がり~炎上配信者だった俺が、最強の女神たちと世界をひっくり返す話~ 浜川裕平 @syamu3132

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