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残酷さ、痛み、連帯 - 子ども向けアニメの意義と『わんだふるぷりきゅあ!』

 実に4年ぶりの更新。久しぶりに過去の記事を読みなおしてみたら、何か書きたくなった。そして、4年ぶりに書き始めた。最初は簡単なメモのつもりだったのに、書いていると何やら楽しくなってしまい、ずいぶん長くなってしまった。

 過去の記事や、いま放送している『わんだふるぷりきゅあ!』に触れつつ、私自身の生活や考えの変化も織り交ぜながら、子ども向けアニメの意味について書いてみた。作品の評論であり、ブログのおさらいであり、個人的な日記のようなものであり……要するにとりとめのない駄文である。

 とはいえ、無益なことを書き散らすのも、久しぶりで楽しかった。まだこのブログを読んでくれる人がいるとはあまり思えないが、誰かに届けば幸いである。


1.  「理解」は必要なかった

 家族について論じるこの記事を書いてから、いろいろなことがあった。結婚し、生まれた子どもはもう2歳。子育てをするなかで、あるいは社会の潮流が変わるなかで、「理解」についての考えもまた、私のなかで変わりつつある。

 とくに生成AIの登場は (私の、そして多くの人にとっての) 言語観に大きな影響を与えた。ChatGPTといった生成AI。これらは調べ物をするには頼りないが、哲学的・法的な議論をするうえでは本当に良い壁打ち相手になってくれる。これらを使っていると、私たちの言語やコミュニケーションというものが、確率と語彙のネットワーク (特定の語に続く蓋然性の高い語をつないでいくこと) によって成立しているということを、本当によく実感できる。AIは話題を理解しているわけでもないし、脳をもって思考しているわけでもない。しかし、「理解」と「コミュニケーション」と呼びうるものは十分すぎるほど可能なのだ [1]

 ひるがえって考えるに、私たちがこれまで「理解する / 理解できない」といって来たもの、例えば、コミュニケーションには「人間の心」が関係しており、それを十全に把握することを「理解」と呼んだり、その想定を前提に「他者を理解することができない」と嘆くことは、ほとんど意味をなしていなかったということが (これまでもさんざんプラグマティズムやエスノメソドロジーの文脈で語られてきたことではあるが [2]) 誰にとっても明らかになりつつある

 言語が確率とネットワークによって成り立つということは、子どもの言語習得過程を見ていてもよくわかる。言語習得はほとんど偶然の発音から始まり、そこに親の相づちが答えることで、徐々に場面と結びついた蓋然的な語 (そしてその連なり) が生じてくる。子どもを見ていると、言葉の意味を「理解」はしていないが、適切な場面で適切な語を発することが多くある。というか、我々大人は「自分たちは意味を理解して話している / 子どもたちはそうではない」といった想定を持ちがちだが、これもやはり前提から間違っているのだろう。


2. 「理解できなさ」を論じる意味はあるのか


 以上をふまえると、コミュニケーションの様子を記述するうえで、「理解」について云々する必要はないということになるだろうか。そうした概念は怪しいだけのものであり、また私たちのコミュニケーションを記述するうえではむしろ邪魔になるものである、そう結論付けて良いのだろうか。

 しかし、もしそうであれば、我々がコミュニケーションについて語るうえで「あの人のことを理解できない」と思ってしまったりするのはなぜだろうか。私たちは「理解」という語を用いることで、一体何をしているのか。

 また、確率や語彙のネットワークで会話がいくらでも可能になり、「思考」せずとも、いくらでも理解可能な発話を続けていけることが誰にとっても明らかになりつつあるにも関わらず、社会がますます分断の様相を見せているのはなぜだろうか。到底会話が成り立たなさそうな状況が、そこかしこに生まれているのはなぜだろうか。私は常々社会における様々なニュースや論争を見て、「あの人たちのことを理解できない」と思ってしまうことがあるのだが、その理解できなさについては、どう向き合えばよいのか。私たちが「他者を理解できない」というとき、それによって私たちは何を達成しようとしているのか。


 この問いをまるっと十分に論じることは難しいので、「子ども向けアニメ」を取り上げることで焦点を狭めてみよう。このブログで扱ってきたような、いわゆる「子ども向けアニメ」には、鋭い描写が多くある。これまで書いてきたような「理解」についてもそうであるし、あるいは「家族」といったものにしてもそうである。

 例えば先日、娘と共に『それいけ!アンパンマン ブラックノーズと魔法の歌』(2010) という映画を見たが、これはわかりやすく言ってしまえば「毒親」について描いたものだった。

 母親に洗脳されて育った娘は、「歌うこと、踊ること、おいしいものを食べること、笑顔になること」は全て間違ったものであり、それをすると母親が傷つくと信じている。そして、自分の母親を助けるためには、世界を不幸に陥れる必要があると信じている。

 アンパンマンは「自分は誰かのためになることが嬉しい」と語り、それを聞いた彼女は「私も母を救おうとし、母のために行動している。その母のための行動が、たまたま人を不幸にすることと結びついているだけだ。誰かのために行動しているという点では同じはずなのに、アンパンマンと私とは何が違うのか」と悩む。つまり (2~5歳程度の子どもを対象としているであろう) この映画は、自分にとって大切な誰かを救うための行動が、公共の善に反するときはどうすれば良いのか、という疑問を投げかけてくるのだ [3]

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映画『それゆけ!アンパンマン ブラックノーズと魔法の歌』( https://lp.p.pia.jp/event/movie/18033/photo-gallery/index.html?id=3 )


 では、こうした作品たちを子どもに与えることにはどんな意味があるのだろうか。ここで挙げたアンパンマン映画や、いわゆる「毒親」問題を取り上げたとされる『プリティーリズム・レインボーライブ』といった作品たちを、子どもに見せる意味はなにか。親を疑わせたり、親に反抗させたりすることが目的なのだろうか。そうではない。しかし、そうではないとすれば、何のためにこうした作品はあるのか。


3.  私たちのもつ「残酷さ」について


 私は、こうした物語や、他者の理解できなさを突きつけるような物語は、私たちの「残酷さ」を減じるために必要なものなのだと考えている。これらの物語は、私たちが見えているようで、見えていないもの。あるいは、見てはいるが、気づいていないもの。そうしたものへの感じやすさを高めてくれるのだと、そう考えている。

 やや速足で提示したこの結論に、少しずつ輪郭を与えていこう。プラグマティズムの哲学者リチャード・ローティは、『偶然性・アイロニー・連帯』という本のなかで、私たちが持ちうる「残酷さ」について、ウラジーミル・ナブコフ『ロリータ』に登場する一文を引用しながら例示している。これは主人公ハンバート=ハンバートが、ある床屋に訪れた際の一文である。

 カスビームで髪を刈らせた床屋は、ひどい年寄りで、まったくの下手くそで、この老人は野球選手になった息子の話をくどくどしゃべりつづけ、破裂するような声を出すたびに私の首に唾を飛ばし、ときおり私の肩にかけた掛布で眼鏡を拭き、そうかと思うと、ふるえる手で鋏を動かす作業を中断して、色褪せた新聞の切り抜きを持ち出したりしたが、私は彼の話をぼんやり聞きながしたので、大昔の灰色にくすんだ化粧水の壜のあいだに立てかけた写真を、彼が指さすままに見たとき、髭を生やしたその若い野球選手が、もう三〇年も前に死んだのを知って、ぎょっとした。

(ナブコフ『ロリータ』[若島正訳],1955=2006,新潮文庫:376-377)



 『ロリータ』を読んだことがあればわかるだろうが、主人公にして語り手
のハンバート=ハンバートは、恐ろしいほどに詩的な人物である。『ロリータ』は彼の視点から語られる物語であり、読者は否応なしに彼の視点を通じて世界を見ることになるのだが、彼にかかれば、アメリカのさびれた田舎街に掲げられた、日に焼けて掠れた看板の一つ一つ、そこにある馬鹿げた謳い文句ですら、どこか詩的な響きを持って再記述され、彼の退廃的で刹那的な生き方を彩る小道具のようになってしまう。ハンバート=ハンバートは、世界に対する恐ろしいほどの観察眼をもっているし、どのようなものでも美しく (あるいは醜く) 記述するだけの力量を有している。


 しかし、彼がそのような観察眼や記述力を持つことは、彼が「残酷ではない」ということを意味しない。優れた社会学者 (対象への鋭い観察眼や、それを学術的に意味づけて記述するだけの優れた手腕を有した社会学者) が、誰かへの冷酷さや無理解をさらけ出してしまうことも多いように。

 先の引用に戻ろう。ロリータに対する性的な関心にすべてを捧げるハンバートは、床屋がする話にひどく冷淡である。そして私たち読者の多くも、ハンバートと共に、何気ないこの描写を読み飛ばしてしまう。だが、注意深く読んでみよう。おそらくこの床屋は、話しながら泣いているのだ。彼はこの床屋で、30年以上にわたって、亡くなった息子のことを思い出し、客に語り、そして涙をこぼしている。この店主にとっての時間は、息子を亡くしたときの痛みと共に、もうずっと止まり続けているのかもしれない。

 ハンバートは古ぼけた写真を見たとき、息子がもう30年も前に死んでいたことに気づいてギョッとはするのだが、その床屋や抱え続ける感情にはまったく眼を向けない。彼は自分の関心以外のもの、すぐそばで誰かが感じているであろう痛みに、気が付いていないのだ。そしてほとんどの読者も、ナブコフがあとがきで「カスビームの床屋」に注目せよと示唆するまで、この床屋の抱える痛みに気づくことができない。

 ローティは『ロリータ』という小説に仕掛けられた仕組みについて、次のように論じている。

[引用者注:『ロリータ』のあとがきでナブコフから「床屋の痛みを気づかずに読み過ごしてしまったこと」を指摘されるとき] 読者は、突然、自分が偽善的ではないとしても、残酷なまでに無関心であることを明らかにされる。(…) すると、『ロリータ』は突如として実際に「教訓の色彩」を帯び始める。しかし、ここでの道徳的なものとは、少女に手を出すな、ということではなく、自分がおこなっていることに気を留め、とりわけ人びとが言っていることに気を留めよ、ということである。というのも、人びとは苦しんでいることをあなたに告げようとしているということが明らかになるだろうし、実際きわめて多くの場合明らかになるからである。

(ローティ『偶然性・アイロニー・連帯』[斎藤純一・山岡龍一・大川正彦訳],1989=2000,岩波書店:326-327)


 私にとって興味深いのは、先に引用した『ロリータ』の一部分が、レトリック上は何も破綻していないということである。ハンバートのつむぐ言葉は、理解可能なものとして書かれており、十分な意味をなしており、文学として美しい。しかし、それは同時に、そのように紡がれたネットワークの外側にある「もの」を示唆し、またそれに気づくことができない読者に対して強烈な衝撃を与える。誰かが感じている苦痛に、気が付いていないのではないかと。

 先に私は、「言葉が理解可能であること / コミュニケーションが成立可能であること」と「他者から理解されないと嘆くこと / 他者を理解できないと嘆くこと」との違い、そこで使われる「理解」という概念の違いを示唆した。思うに、「他者を理解することができない」ということの核心の一部には、これ、すなわち他者が行っていることに気が付けないこと、他者の苦痛に気が付けないといったこと (そしてもちろん、自分が発しているメッセージが他者に気づいてもらえないこと) があるのではないか。

 私たちには、見えてはいるが気づいてはいないことがたくさんある。自分をふりかえってみても、そういう場面が多くある。私にとって、「自分はハンバートのように生身の少女を性的に消費する人間ではない」と宣言することは簡単だ。性犯罪者を声高に弾劾することもできるし、社会の在り方、例えば男女間の権力関係などについて何かを述べることもできる。しかし同時に、私は確かに日常の多くの場面において、ハンバートのような無関心さをもって他者と接している。自分が関心を持つものだけを気に留め、他者の痛みを見過ごしている。社会学の本を読んで誰かの痛みを「理解」した気になり、ときに自分自身でそうした文章を書くこともある。しかし、いざ他者と向き合うとなると、簡単に人の苦しみを無下にする。私は語彙のネットワークを駆使しながら、他者が理解可能だと思えるような言葉をつむぐことはできる。だからといって、その外側に何があるともわからないのだ。

 そして、これを読むあなたはどうだろうか。あなたは、こうした類の無関心さから、逃れられているだろうか。


4.  残酷さを減じる装置としての、子ども向けアニメ


 他者の苦痛に目を向けるため、私たちに必要なものはなんだろうか。それは「想像力」であろう。では、そうした想像力を私たちに身に着けさせるものはなにか。ローティは、そうした役割を担うのは哲学的な理論ではなく、エスノグラフィ、ジャーナリストによるリポート、漫画やドキュメンタリー、そして小説や映画、テレビ番組であると述べる (前掲:7)。

 本稿では、子ども向けのアニメこそ、この最たるものであると考えてみよう。ナブコフの『ロリータ』は我々の残酷さを指摘するものであったが、子ども向けアニメの多くは (ときにそうした残酷さを指摘しつつも) 私たちに他者が抱える「苦痛」について考えさせるものであると、そのように子ども向けアニメを位置づけてみよう

 例えば、この記事 ( https://note.com/siteki_meigen/n/nd395dba5ec4c ) で触れた様々なシーンで、あいらやそふぃといった登場人物たちは、どこか「他者の痛みに気づくことができない」人間として描かれる。こうした描写は、物語の主人公でありやさしさにあふれた悪意のないキャラクターである登場人物たちも、ある種の残酷さを持ちうるのだということを、視聴者に教えてくれるのである。そうして、視聴者たる我々は考え出す。ここにおける残酷さとは、どのようにして生み出されたどのような類の残酷さなのであろうか、と。

 先に触れた『それゆけ!アンパンマン ブラックノーズと魔法の歌』といった作品や、この記事 ( https://note.com/siteki_meigen/n/n3bf9da795b0e ) で触れた『それゆけ!アンパンマン いのちの星のドーリィ』といった作品は、アンパンマンという絶対的な善からは見ることができない存在のことを私たちに教えてくれる。普段放送されているアニメにおいて、アンパンマンの利他的な行為への疑問が提示されることはない。多くの場合それはただ、「誰かのために生きる」ということの意義を視聴者に伝えようとする。しかしいくつかの映画はアンパンマンに対して、次のような挑戦を行う。「アンパンマンはたまたまパンとして生まれたから、自分を食べさせて相手の役に立つことができるのではないか」「アンパンマンはたまたま誰にも害を与えない利他的な行為が可能だが、誰かに害を与えてしまうような利他的行為 (例えば母を救うために他の人を不幸にすること) もありえるのではないか」。

 このとき、私たちはつい提示された問いのほうに目を向けてしまいがちだが、重要なのはむしろ、そのような問いに悩まされる人々が存在するということ、アンパンマンの生き方とは異なる生き方しかできない人がどうしてもいるということ、それを描写しているということ、そのものなのではないか。

 これらの作品が、作中で自身が提示した問いに応えられているかどうかは、そこまで重要ではない。これらの作品は提示する答えによって価値を測られるものではなく、「私たちが普段見落としている何を私たちに気づかせたのか」という観点から評価されるべきなのではないだろうか。

 そうした描写のなかでこそ、他者への想像力は育まれる。では、次に「そうした想像力は何を産むのだろうか」と問うてみよう。答えは「連帯を産む」、というものになる。


5.  連帯の可能性と『わんだふるぷりきゅあ!』


 ここでようやく、『わんだふるぷりきゅあ!』について考えてみよう。現在放映中のこのアニメは、他者とのかかわり方について、かなり攻めた描写をしている。

 主人公である ”いろは” は、どんな動物とも仲良くなりたいと考えている。そこに現れたガオウ、そしてその手下であるトラメとザクロは、狼の化身であり、自分たちを滅ぼした人間たちのことを恨んでいる。いろはとトラメたちが初めて出会ったエピソード29の1シーンを引用してみよう。

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『わんだふるぷりきゅあ!』エピソード29
( https://www.toei-anim.co.jp/tv/precure/episode/summary/29/ )

いろは「あなたたちと争う気はないの。友達になろうよ!」

ザクロ「はぁ、何馬鹿なこと言ってんの。あんた知ってんの?昔このあたりで暮らしていた私たち狼が、どうして居なくなったのか。」

トラメ「人間はオイラたち狼を、危険な獣だと決めつけ攻撃してきた。」

ザクロ「私たちは住処を追われて数を減らし、そして絶滅した。絶滅したのは、あんたたち人間のせいなんだよ!そんな相手と、仲良く友達になんかなれると思う?」

トラメ「なれるわけねぇ!なりたくもねぇ!」

(エピソード29「はじめましてニコ様!」)


 『わんだふるぷりきゅあ!』が提示しているのは、「加害者は被害者にどう向き合えばよいのか」という問題であるように見える。むろん、狼を直接に滅ぼしたのは、いろは達ではない。しかし、現実の政治的問題や戦争犯罪に関わる問題などがそうであるように、こういった問題には「私たちよりも過去の世代が犯してきた罪に、私たちはどう向き合うべきなのか」という課題がつきまとう。そして、当然、加害者の側が、被害者の見方を間違っていると断じることは難しい。「加害側」の人々が、いくら「あなたたちの同胞を死に追いやったのは私たちではありません。それは私たちとは直接関係のないことです、仲良くやりましょう」などと述べたところで、「被害側」の人々が訴える「自分たちが受けてきた傷」を癒すことはできない。

 

 ゆき「狼を絶滅させたのは、昔の人間たちでしょう。」

 さとる「でも狼たちから見たら、ぼくたちは同じ人間だ。」

(エピソード29「はじめましてニコ様!」)


 『わんだふるぷりきゅあ』では人間と狼という “種” の対立として描かれているが、私たちは同じ人間同士で、“人種” の違いから、様々な虐殺を繰り広げてきたし、現在も繰り広げている。敵対する勢力を「危険な存在だ」「あいつらは同じ人間じゃないんだ」としたうえで、「奴らを一匹残らず駆除する必要がある」とし、徹底的な虐殺を繰り広げている。そうした状況があるなかで、私たちはどのようにすれば理解や共感や連帯をすることができるのか。とくに、加害者は被害者に対して、彼らが抱えてきた痛みや恨みや憎しみ、何より怒りに対して、どのように向き合えばよいのか。

 繰り返しになるが、《加害者 / 被害者》というカテゴリーで分けられた関係性においては、相互の理解はとても難しくなる。この関係性において、「加害者による被害者の理解」というのは、どこか暴力性を帯びることになるからだ。加害側の人間が、被害を受けた人たちのことを勝手に理解するのは、新たな被害を生み出していることになるのではないか。加害者であるあなたは、被害者である私たちが受けてきた傷や痛みを知らない。決して知ることはできないし、この痛みを簡単に理解されたくもない。理解した気にならないでほしい。トラメの「なれるわけねぇ!なりたくもねぇ!」という叫びには、こうした類の拒絶がある。こうした関係性において、果たして、加害者は被害者のことを理解できるのか / 理解してよいのか / 癒せるのか / 癒してよいのか。こうした壁を越えて「友達」になることはできるのか。


ローティについてはNHK『100分de名著』で取り上げられており、私もそれを視聴してから読み始めた。NHKの番組やテキストでは、虐殺やそれに至るまでの過程についても触れられており、とても興味深い。


 先に、子ども向けアニメには我々の残酷さを減ずる効果があると論じた。では、『わんだふるぷりきゅあ』が私たちに気づかせてくれるものとはなにか。それは、現在においても私たちがそう簡単に理解できない / 理解できたことにしてはいけない痛みが、世界には多くあるということである。そしてまた、それらを無視していては、決して連帯は成立しないということ、それらを無視した幸せにはどこか残酷さがあるということである

 言い換えれば、『わんだふるぷりきゅあ』は次のような問いに向き合って、その答えを探そうとしている。すなわち、紛争や虐殺が過去にあり、現在もあり続ける世界において、他者の痛みに気づき、他者との間にある分断を越えて、連帯をするためにはどうすれば良いのか

 やはり、「他者の痛みに気づくこと」がそのスタート地点であることは疑いえないだろう。ローティは連帯について次のように述べる。

[引用者注:連帯という]この目標は探究によってではなく想像力によって、つまり見知らぬ人びとを苦しみに悩む仲間だとみなすことを可能にする想像力によって、達成されるべきなのである。連帯は反省によって発見されるのではなく、創造されるのだ。私たちが、僻遠の他者の苦痛や恥辱に対して、その詳細な細部にまで自らの感性を拡張することによって、連帯は創造される。

(前掲:7)

 他者が抱える苦痛に気が付くことは、単に「私はあの人たちを理解できていなかった」という事実を突きつけるだけではない。そうした気づきから、人類は「ほかの人間存在を『彼ら』というよりむしろ『われわれの一員』とみなす」ことができるようになる。それこそが人類の連帯の要になりうると、ローティは考えるのである。

 そして、これまでのプリキュアでも、このように他者の痛みに寄り添うことから、連帯の可能性が探られてきた [4]。『わんだふるぷりきゅあ!』が優れているのは、この過程を一層丁寧に描く点である。主人公である “いろは” たちは、狼たちが抱える痛みの存在に気付きながらも、それを簡単に「理解できた」とは考えない。一足飛びに「私もあなたと一緒だ」とか、「私はあなたの痛みを理解できる」とはいわない。時間をかけて、彼らと共に過ごすなかで、彼らとの共通点を探り、彼らと向き合う。そうして「理解」の土台をゆっくりと作り上げていくのである。

 私たちは、他者が抱えるものを理解しきることはできない。想像はできるし、想像することは連帯にとって非常に重要である。しかし、「あの人の痛みを理解できた」という傲慢さに陥ってはいけない。そのうえで、その核心部分にある痛みは理解できずとも、どこかで感情を共有することができる。いろは達は、トラメの「遊びたい」という気持ちや、ザクロの「美しい」という気持ちを見つけ、そこに寄り添っていく。

 相手が抱えるものを完璧に理解しきることはできない。しかし、そうであっても、「わたしたちは同じ仲間だ」という連帯をつくるための土台はつくれる。そういった可能性を、このアニメは提示するのである。


6.  まとめ


 あまりにとりとめがなくなってしまったので、まとめておこう。

(1)  子ども向けアニメは、こういう苦しみを抱えた人がいるかもしれない、自分が生きている世界のなかでは見えていない人がいるかもしれない、という可能性を視聴者に教えてくれる。これは、私たちがもつ他者への残酷さを減ずる装置の一つといえるかもしれない。

(2)  そして、他者の抱える痛みに気づくことは、あの人も私たちの一員であるという想像力へとつながっていく。そうした想像力を核にすることで、私たちの世界は分断を越えて連帯を取り戻すことができるかもしれない。

(3)  痛みに気づくことやそれによる連帯は、これまでのプリキュアでも描かれてきた。『わんだふるぷりきゅあ!』が優れている点は、他者が抱える痛みの存在に向き合いながらも、そう簡単に「理解できた」ことにはしないということだ。加害者が被害者の痛みを理解できると考えてしまうことには、どこか常に暴力性がある。だから、彼女たちは、ゆっくりと他者に向き合い、そのなかで連帯の核となりうる感情を見つけていく。これは「絶対的な対立状態」をどのように解きほぐしていくかのヒントを、我々に教えてくれる。

 最後に、このような考察記事や、ツイッター上を流れる様々なアニメ考察も、アニメそのものと同じように、残酷さを減ずる可能性を持っていることを指摘しておこう。

 鋭い考察は、私たちに「見てはいたが気づいていなかった」ことがあると教えてくれる。そうした経験は、私たちの注意深さを養うだろう。あるいは、そうした考察があることで「私たちの存在に気づいてもらえた」と思う人もいるかもしれないし、「私たちのことを書いた作品がある」と思う人もいるかもしれない。

 私は私の書いた記事にそこまで大きな価値があるとは思わないが、多くの人間で同じものを見て、そこに何が描かれているのか / 描かれていないのかを考えていくことは、我々の観察力や想像力を育むうえで、非常に重要な作業となっているのかもしれない。




[1] とはいえ、こうしたコミュニケーション観に対しては、次のように反論することもできる。これまで我々が思考してきた結果として語彙のネットワークが形成されたのであり、AIはそれを学習しているだけである。だから、AIがそのようにして会話を生成しているとしても、我々のコミュニケーションや思考とAIのそれが同じだということにはならない、と。

[2] 『アイカツフレンズ』についての記事 ( https://note.com/siteki_meigen/n/n699bbc45b551 や https://note.com/siteki_meigen/n/n5f319e488ad6 ) では、こうした視点も取り入れている。

[3] アンパンマンの映画では、時折こうした倫理的問題が提起される。例えばこの記事 ( https://note.com/siteki_meigen/n/n3bf9da795b0e ) でも扱った『それゆけ!アンパンマン いのちの星のドーリィ』では、自分自身が命をかけてでも行いたいことが公共の善に反する状態が描かれている。

[4] ただし、それが「女の子に感情のケアを求めすぎている」という批判にもつながった。一時期かなり話題になった『ヒーリングっど♡プリキュア』をとりまく対立には、このようなジレンマ (「私たちは他者の痛みに寄り添って連帯の道を探るべきだ」という目標と、「主人公に他者の感情のケアを求めすぎるあまりに、主人公自身が抱えている痛みを軽視することにはならないか」という悩みとのジレンマ) が関わっているように見える。

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  • 15本

コメント

2
えびぞ
えびぞ

貴方の記事が大好きです。
以前の文章をしょっちゅう見返しております。
久々に投稿いただきとても嬉しかったです。また新しい記事を読めることを(勝手に)楽しみにしております。

ティッシュ専用ゴミ箱2

ありがとうございます。まだ読んでくれる方が居るとは思いもしませんでした。

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残酷さ、痛み、連帯 - 子ども向けアニメの意義と『わんだふるぷりきゅあ!』|ティッシュ専用ゴミ箱2
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