なぜ掛布雅之は阪神の監督になれなかったのか…の続きの話 ロッテ、楽天の就任要請を断った理由と『借金問題』の真実
2025年1月11日 15時00分
◇コラム「田所龍一の『虎カルテ』」
阪神の第8代OB会長に就任した掛布雅之氏(69)。昨年末から今年にかけて露出が多くなったような気がする。所属しているスポーツ報知での新春企画は藤川球児監督とOB会長との対談。テレビをつけるとCMにも登場。数年前から始めたYouTube『掛布雅之の憧球(どうきゅう)』も順調に視聴者を増やしている。よいことだ。
「憧球」と言ってもビリヤードのことではない。あれは「手へん」で「撞」。実は現役を引退してからしばらくの間、掛布氏はサインを求められると色紙の右肩に「いつも憧れ」と書いた。理由はこうだ。
「ボクは長嶋さんに憧れて野球を始めた。プロになってからはいい車に乗りたい。いい腕時計がしたい―とスター選手に憧れた。《憧れ》はボクの力なんだ。だから…」
その憧れと野球を合わせて「憧球」なのだ。
さて、なぜ掛布氏は「阪神の監督(1軍)」になれなかったのか―の続きを始めよう。最大の要因は前回に取り上げた久万俊二郎オーナーのひとこと。「私の目の黒い間は絶対に掛布を阪神の監督にはしない」である。
その言葉を阪神電鉄の上層部は律儀にも守った? そんなことが本当にあるのだろうか。後に球団社長に就任した野崎勝義氏によると―。
その言葉を阪神電鉄の上層部は律儀にも守った? そんなことが本当にあるのだろうか。後に球団社長に就任した野崎勝義氏によると―。
「私も不思議でしたが、電鉄の上層部には久万会長の言葉として残っていました。会長職(兼オーナー職)を退かれても…」
ここで少し野崎勝義氏を解説しよう。1942年1月27日生まれ、現在82歳。96年、阪神航空営業部部長からタイガースへ常務取締役として出向。久万オーナーの「タイガースなんてちっちゃい会社、強い、弱いと騒がんでもよろしい」の言葉に憤慨。「お金を掛けなければ強くなりません!」と久万オーナーを説得し資金と出させたという気骨の持ち主だ。2001年に球団社長に就任。野村克也氏、星野仙一氏を招聘(しょうへい)した。その野崎社長にこんな質問をされたことがあった。
「どうして掛布さんは他球団のコーチや監督をなさらないんでしょう? 1度でも指導者を経験されていれば、お迎えしやすいんですが」
正直驚いた。阪神球団上層部の人間でも、なぜ掛布氏が他球団の指導者にならないか―の理由を知らないのだ。「掛布は阪神から声をかかるのをずっと待っているんですよ。よその球団のユニホームを着るのは、まずタイガースのファンに恩返ししてから―と心に決めているからです」と筆者は少し憤慨しながら答えたのを覚えている。
待てどくらせど阪神からのオファーはない。その間にロッテや楽天から「監督」就任の要請があった。表向きの理由は「野球観が合わない」として断っているが、本当は「まず阪神から」の思いが強かったからだ。
掛布氏が阪神の監督になれなかった2番目の理由としてよく挙げられるのが「借金問題」。現役時代に運動具店やお好み焼き屋を経営し失敗した―と週刊誌に書かれた。だが、実際は少し違う。
1985年2月、掛布氏がアドバイザー契約を結んでいたスポーツ用品メーカー「美津和タイガー」が破産した。路頭に迷う社員たち。そんな状況を見かねた掛布氏は救済を申し出た。
「これまでお世話になった皆さんを今度はボクが支える番です。ちゃんとした次の就職先が決まるまでボクがお給料を支払います。安心して探してください」
自宅近所の大阪府豊中市にスポーツ用品店「フィールド31」を開業。そこの従業員として美津和タイガーの元社員たちに給料を払った。とはいっても掛布の年俸だけでは賄えない。そこで同じ豊中市に広島風のお好み焼き屋さん「ほっとこーなー」を出して補填(ほてん)した。
元社員たちの就職先がすべて決まった時点で運動具店もお好み焼き屋さんも閉店した。それを「サイドビジネスの失敗」と報じられたのである。どんなに書かれても掛布氏は反論しなかった。「分かる人は分かっているから」というのがその理由だった。
どんどんと時だけが過ぎていく。10年、15年…。掛布氏に近い仲間も「阪神から声がかからないのも運命。もう期待するのはやめにしよう…」と諦めかけた。そのとき《運命の歯車》が動いた。「私の目の黒いうちは…」と言っていた久万氏が2011年9月9日に亡くなった。そして翌12年に中村勝広氏が球団のゼネラルマネジャー(GM)に就任したのだ。
中村勝広氏は1949年6月6日生まれ、掛布氏と同じ千葉県出身で当時63歳。71年に早大からドラフト2位で阪神入団。名二塁手として11年間活躍。引退後は90年から6年間、阪神の監督を務め、2006年にはオリックスの監督も務めた。その後はオリックスのGMとして活躍した。
中村氏は昔から「カケ(掛布)は阪神の監督にならなくてはダメだ」と言い続けてきたOB。GM就任の翌13年に「GM付き育成&打撃コーディネーター(DC)」というポストを新設。掛布氏を球団に呼び戻したのだ。このときの掛布氏の喜びの声は今でも忘れられない。
「龍一、来たよ。阪神が若手の打撃を見てくれって言ってきたよ!」
球団復帰といってもDCでは縦じまのユニホームは、ズボンしか着ることが許されていない。上は背番号もないTシャツかジャンバー。それでも掛布氏の心は弾んだ。これで恩返しができる…と。1988年に引退してから実に25年の歳月が流れていた。
▼田所龍一(たどころ・りゅういち) 1956(昭和31)年3月6日生まれ、大阪府池田市出身の68歳。大阪芸術大学芸術学部文芸学科卒。79年にサンケイスポーツ入社。同年12月から虎番記者に。85年の「日本一」など10年にわたって担当。その後、産経新聞社運動部長、京都、中部総局長など歴任。産経新聞夕刊で『虎番疾風録』『勇者の物語』『小林繁伝』を執筆。
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