このところ当ブログのアクセス数の落ち込みが激しい。
道路交通センサスを用いたネタ(東京⇔青森 一般道(下道、無料高速)最速ルートの計算(2015年版)、函館・札幌⇔稚内 一般道(下道、無料高速)最速ルートの計算をした、大阪⇔青森 一般道(下道、無料高速)最速ルートの計算)が稼ぎ頭だったが、最近はAKTの遠距離受信ネタばかりというのも原因だろう。
何か新しいネタは無いかと過去の道路交通センサスネタをみていて「北東国土軸」という言葉に目が止まり、自分の中で十数年来謎である民放テレビ局黎明期の電電公社マイクロウェーブ伝送路の真相を突き止めたいと思ったのである。
ここでいう民放テレビ黎明期とは、我が国の民放テレビ第1号の日本テレビ放送網(NTV)が開局した1953(昭和28)年から、VHF局として最後発の日本科学技術振興財団テレビ(後のテレビ東京(TX))が開局した1964(昭和39)年までとしたい。
おおむね各都道府県で民放テレビ局の1局目は開局した時期としてよいかと思う。
民放テレビ黎明期の地方局が選択する東京のキー局としては、先述の日本テレビの他に1955年開局の東京放送(当時の略称はKRT、現在のTBS)もあり、1959(昭和34)年以降はフジテレビジョン(CX)や現在のテレビ朝日にあたる日本教育テレビ(NET)も誕生している。
しかし実際のところ系列化に向けた動きはTBSか日本テレビの2系列が中心であり、日本民間放送連盟が1961年に発行した「民間放送十年史」の196ページでも指摘している。
「民間放送十年史」はオブラートに包まれた表現だが、山口放送(KRY)が1987年に発行した「山口放送三十年史」の61ページには「日本教育テレビ(現・テレビ朝日)とフジテレビは、三十四年(筆者注:昭和34=1959年)二月と三月にそれぞれ開局したばかりで、自社の体制固めに追われ、ネットワーク体制はできておらず」という状況が記されており、KRYの分析は酷評かもしれないが正鵠を射ていると思う。
NHKメディア研究部の村上聖一が2010年に発表した「民放ネットワークをめぐる議論の変遷」では、ネットワークを拡大・強化させる一つの要因となったのが1959年4 月10日の「皇太子ご成婚パレード」であり、大まかなネットワーク系列の色分けができたと指摘している(ここでいう皇太子とは2024年3月現在の上皇陛下のことである)。
「民間放送十年史」の124ページによれば、「皇太子ご成婚パレード」は在京キー局4社も参加したが、NETはTBS、CXはNTVのネットに参加しており、事実上、TBS系とNTV系とNHKの三つ巴の競合だったのである。

【民間放送十年史】
一方で、マイクロ回線の開通状況によって、地方局のキー局選択に制限があったという話も聞く。
マイクロ回線とは電電公社マイクロウェーブ伝送回線のことであり、1本の伝送路(一組の送受信機)で長距離市外電話なら480通話、テレビなら上下各1本(片方向2本)の中継が可能であった。NHKも民放も電電公社マイクロ回線を使用することで全国各地の放送局同士を結ぶネットワークを構築していた。
しかし電電公社マイクロ回線のテレビ回線の本数は、「民間放送十年史」が発行された1961年時点でも「地方に行くほどマイクロ回線の数がキイ局の数より少なく」と指摘され、技術的制約として「隘路」という表現が使われている。
ネットを検索すれば色々な説も出てくるし、各社の社史を見ていても内容に差異があり、かくなる上は是非も無し。自分で民放テレビ黎明期の電電公社マイクロウェーブ伝送路網図をつくることにしたのである。

【永森四郎著「日本の電信電話(少年産業博物館 ; 25)」】
民放各社の社史によって経路不明な記載もあるため、民放テレビ黎明期の電電公社マイクロ回線の無線中継所も含めて地図化することとした。
これに使用したのは永森四郎著、ポプラ社から1960年に出版された「日本の電信電話(少年産業博物館 ; 25)」に掲載の昭和35年8月末時点のマイクロウェーブ伝送路の図である。
永森の「日本の電信電話(少年産業博物館 ; 25)」の原図には日本テレビ系の回線とかTBS系の回線と明記されている訳ではないが、当ブログが以下の資料を中心に記載したものである。
民放テレビ黎明期の電電公社マイクロ回線の経路および選択系列については、上記の東京放送が1965年に発行した「東京放送のあゆみ」と、日本民間放送連盟が1966年に発行した「日本放送年鑑'66」が基本となった。
不明点などについては前出の「民間放送十年史」のほか、民放各社の社史やホームページの沿革の記載内容も参考にし、文献関係で資料が見つからない場合はNTT技術史料館への問い合わせも実施し確認した。
民放テレビ黎明期に「北東国土軸」という用語はまだなかったが、当時の北東国土軸の通信の大動脈といえるのが東京・仙台・札幌を結ぶ電電公社マイクロウェーブ伝送路の幹線──すなわち東仙札幹線である。
全国を3ブロックに分け、まずは東仙札幹線方面の図から掲載していく。

【電電公社東仙札幹線テレビマイクロ回線(1960年8月現在)】
1枚目は1960(昭和35)年8月現在の図。
東京以北最大都市であり南北中枢都市の札幌を擁する北海道には北海道放送(HBC)と札幌テレビ放送(STV)の2局が開局済みだが、福島以外の東北各県は民放テレビ1局がようやく開局したころである。
先述した1965年に東京放送社史編集室が発行した「東京放送のあゆみ」のほか、1978年にSTVが発行した「札幌テレビ放送二十年史」や2003年にIBC岩手放送が発行した「IBC岩手放送小史」など複数の文献から、東仙札幹線は日本テレビ系主体とTBS系主体の2回線だったのは間違いなく、東京から札幌まで鉄道でいうところの“複線化”が達成されている。
一方で、山形や秋田方面に向かうルート(国見-山形-酒田-道川)は鉄道でいう“単線”の状態であり、やはり国土軸の幹線(東京・札幌間)に対する枝線の扱いの差を感じる。
本県(青森)の場合、NHK青森放送局(TG)やRABテレビ開局した1959年の時点でマイクロ回線は青森市に直接繋がっておらず、上北郡東北町の甲地無線中継所で東仙札幹線から分岐し、搬送ケーブルで青森市の青森東統制電話中継所(現在のNTT青森支店)までテレビ回線を伝送したという。
東奥日報の2010年3月26日付夕刊に掲載された「連載/ふるさとあの瞬間(とき)/電信電話の記憶 5/積滞電話解消へ/増える回線 テレビも伝送」に、RABとNHK青森のテレビ回線伝送に携わった元電電公社搬送マンの述懐が記載されており、RABの社史や民放連の年史にはない貴重な資料である。
余談ながら、テレビ回線は存在しないが岩手の釜石の存在感が凄い。当時の釜石は人口9万を超えた新日鉄の企業城下町である。平成以降で和賀や江釣子を併呑した北上や、“平成の大合併”で花巻や奥州、一関が1960年代の釜石の人口を超えた事例はあるが、岩手で合併という技を使わずに釜石の記録を超えた自治体は盛岡しかない。当時の釜石には電電公社にマイクロ回線を作らせるほどの勢いがあったのだろう。

【電電公社東仙札幹線テレビマイクロ回線(1964年8月現在)】
2枚目は上図の4年後、1964(昭和39)年8月現在の図。
宮城も仙台放送(OX)が開局して民放2局化を果たし、福島にも福島テレビ(FTV)が開局した。
東仙札幹線は東京・仙台間で回線数が増え、仙台放送(OX)はこの時期のわが国では希少なフジテレビのネットが主体の局となっている。福島テレビ(FTV)は宮城の越河無線中継所から福島市まで伝送し、「東京放送のあゆみ」によればNTVをネットする時間が最も長かったようである。
北海道でも道都・札幌から函館など道内諸都市へのマイクロ回線も開通し、仁山-登別-支笏-札幌間が東京発札幌行と札幌発函館行で“4線化”し、後の札幌オリンピックに向け東仙札幹線が徐々に増強されていく時期となる。本図では省略したが、道北の旭川から名寄経由で稚内まで行く回線や、道東の釧路までの回線など道内網の回線も完成している。
また、“単線”だった秋田方面への枝線も、仙台・国見-笹谷-山形間が“複線化”を果たしている。どうやら、“複線”でもNTV系主体の2回線だったようで、山形・秋田間の複線化はもう少し先である。
続いては東京・大阪間。
民放テレビ黎明期から「第一国土軸」の最重要区間である東京・静岡・名古屋・大阪間は電電公社マイクロウェーブ伝送路の幹線──すなわち東名阪幹線として整備が進んでおり、当時からNTV系、TBS系、CX系、NET系の4系列ともネット可能であったらしい。
また、東京から北陸の金沢経由で大阪に至る電電公社マイクロウェーブ伝送路の幹線──すなわち東金阪幹線も開通済みで“複線化”されており、東仙札幹線と同じく日本テレビ系主体とTBS系主体の2回線であった。

【電電公社東名阪・東金阪幹線テレビマイクロ回線(1960年8月現在)】
東名阪幹線が結ぶ東京と大阪の局のネット関係はNTV-讀賣テレビ放送(YTV)、TBS-朝日放送(ABC)、CX-関西テレビ放送(KTV)、NET-毎日放送(MBS)。朝日新聞系と、毎日新聞系のいわゆる東阪腸捻転解消前の時代である。
名古屋はまだ中京テレビ放送(CTV)が開局する前で、中部日本放送(CBC)がTBS系、東海テレビ放送(THK)がCX系という現在の体制の原型は出来ているが、名古屋テレビ放送(NBN・現在のメ~テレ)がほぼNTV系である。
東金阪幹線沿線も、「民間放送十年史」の各社史録から、富山の北日本放送(KNB)がNTV系、石川の北陸放送(MRO)がTBS系を選択するなど、各局がNTV系とTBS系を選択する様子が見て取れる。
この頃はまだ地形的障害たる列島の脊梁山脈を超える電電公社マイクロ回線ルートは希少だったのが地図からも伝わってくる。
長野の信越放送(SBC)は東金阪幹線が脊梁を越える渋峠近傍の横手無線中継所から分岐し、新潟放送(BSN)は脊梁を越えた先の薬師無線中継所(当時の新潟県直江津市)から分岐していた。新潟以北の酒田、秋田方面への幹線も未開通であった。
そしてテレビ回線が無かったが存在感があるものとして釜石に似たものを感じるのが、名古屋-品野-船山-高山のマイクロ回線。やはり高山の隣の隣に位置した神岡町の存在だろうか。神岡も1960年代の神岡鉱山の最盛期に3万人近い人口を抱えた歴史がある。
とりあえず、東阪間は1960(昭和35)年時点と1964(昭和39)年時点であまり整備状況が変わらないので、次の西日本方面に移りたい。
3つ目となるのが、当時の西日本国土軸の通信の大動脈といえる大阪・広島・福岡を結ぶ電電公社マイクロウェーブ伝送路の幹線──すなわち阪広福幹線である。
こちらを理解するためにはまず福岡県の民放の開局状況と、電電公社マイクロ回線の関係の歴史を整理する必要がある。
各社の社史や「民間放送十年史」の各社史録や、マイクロウェーブ伝送路図だけを読んでも理解は困難だろう。
歴史を整理する方がよいとはいうものの、西部毎日テレビジョンの合併史とかに触れだすとキリがないので、現在もあるRKB毎日放送(rkb)、テレビ西日本(TNC)、九州朝日放送(KBC)の順にマイクロ回線が整備されたと絞ると理解しやすい。
実際はKBCはCXの番組を流す時間も多かったとか、TNCが後年CX系になるとかもあるのだが、ややこしくなるので説明しない。
ともあれRKBが使用するTBS系主体の回線しかなかった時代に開局する地方局は、自然とTBS系で開局する流れができたようだ。
特に九州は顕著で、1958年11月以降は福岡の管岳無線中継所から北九州の八幡までTNCが使うNTV系の回線は来たが、北九州以南はTBS系主体の回線しかない状況が続いたことで、長崎放送(NBC)、熊本放送(RKK)、鹿児島の南日本放送(MBC)など九州各県(佐賀以外)の民放1局目はいずれもTBS系で開局した。

【電電公社阪広福幹線テレビマイクロ回線(1960年8月現在)】
RKBが使用するTBS系主体の回線しかなかった時代の、大阪・福岡間の地方局の系列選択はそれぞれに個性があるように感じる。
中四国の中枢都市である広島の中国放送(RCC)は1959年4月1日の開局当初はオープンネットとはいえ自然に阪広福幹線の現状にあわせTBS系(KRT)を選択したようだ。どこか優等生らしくも思う。
一方、RCCより一足早く1958年6月1日に開局したお隣岡山の山陽放送(RSK)もTBS系を選択しているものの、電電公社マイクロ回線の使用料金対策で、1957年頃に大阪・生駒山の大阪テレビ放送(OTV、後のABC)の放送波を岡山で受信する実験を行って成功しているなど、いざとなれば電電公社マイクロ回線に頼らないという強い意志さえも感じる。
電電公社に頼らないという意味では山陰・鳥取の日本海テレビジョン放送(NKT)は何と尾山-鳥取間の電電公社マイクロ回線が開通する前に開局し、3か月もフィルムで乗り切ったという独立局のような実践を積んだ歴史を持ってNTV系に加盟した。
四国は、やはり瀬戸内海を挟んで対岸の山陽側のTBS系の放送が届くことを警戒したようで、彼らの電電公社との向き合いも面白い。
興味深いのは香川・高松に1958(昭和33)年7月に開局する西日本放送(RNC)で、「民間放送十年史」によれば阪広福幹線の常山無線中継所(岡山県玉野市)から分岐させた回線を高松で受けることが決まったが、NTV系を受けるため、電電公社に対し予備線の開放を要請していたという。結果、予備線開放が決まり、RNCは開局からNTV系となったということで、同年8月28日に北九州・八幡で産声を上げるTNCの史録とも整合性が取れる。
共に“西日本”を社名に冠する香川のRNCと福岡のTNCは、NTV系を希望する地方局が電電公社に予備線の開放を要求して実った実例ということになろう。
電電公社の東仙札幹線の整備状況に運命を委ねた感じがある東北の各局に比べると、中四国の各局は阪広福幹線や枝線の電電公社マイクロを使わない手法を見せたり予備線の開放を要求したり、電電公社と侃侃諤諤とやりあって来たであろう歴史も垣間見えて実に面白い。
こうして1958年7月から阪広福幹線にNTV系主体の回線も予備線ながら暫定使用できることになり、同年10月まで(9月中?)にはNTV系主体のテレビ回線も完成した。
愛媛・松山に同年12月1日に開局する南海放送(RNB)も広島から回線を分岐することでNTV系を選択することとなった。
ところが、翌1959(昭和34)年10月1日に開局する山口放送(KRY)のWikipediaに、わざわざ「山口放送三十年史」の61~63ページだという参考資料まで付けた以下の記載を見つけて天を仰いでしまった。

【Wikipedia「山口放送」当該部分のスクリーンショット】
「先発局がすべて日本テレビ系列である四国地方周りで、九州を経由するという複雑な経路ではあったものの、日本テレビ系列への加入を決定した。」
KRY、阪広福幹線の予備線とか八幡(TNC)行の回線使わなかったの!?
Wikipediaの記載に眩暈がしそうになったが、実際に山口県立図書館から「山口放送三十年史」を取り寄せて読んでみたところ、正確にはこうだ。以下引用する。
「山口放送三十年史」はあくまでも「予想された」という形で、当時の自社の見立てを書いているに過ぎない。
それを踏まえたうえで、「山口放送三十年史」を酷評することになり申し訳ないが、恐らく「山口放送三十年史」の当該部分を執筆したKRYの担当者が正確に開局当時の電電公社マイクロ回線網を把握できていなかったのだろう。
何より高松からは四国のどこへもマイクロ回線が通じていなかったのにどう山口へ向かうのか。
念のために、同軸方式(1940年の東京オリンピックのテレビ中継は標準同軸ケーブル方式で実施する予定があった)の可能性も考えたが、四国電気通信局が1973年に発行した「四国電信電話事業史」の145ページによれば「41年(筆者注:昭和41=1966年)に岡山~高松間ではじめて同軸ケーブルが開通」とあり、KRY開局時に同軸を利用できた可能性はない。
先述の東仙札幹線の甲地無線中継所と青森を結んだ搬送方式も調べてみたが、「四国電信電話事業史」の138ページの表を見る限り搬送ケーブルでテレビ回線を繋いだVSB方式は甲地-青森が全国唯一でも数少ない事例(短区間では北九州などにもあった)だった模様で、少なくとも四国には存在しない。
仮に讃岐の高松と土佐の高知の書き間違えだとしても、KRY開局の1959年10月1日時点で高知と松山を結ぶ知松線はおろか、松山から大分に至る松分線も開通していないのである。
四国から九州に渡るマイクロ回線がないのにどうやって四国九州経由が成立するのだ。
電電公社マイクロ回線の図が現在に至るまで非公表だったり、香川のRNCや福岡のTNCの史録が無ければ、「山口放送三十年史」の記述に惑わされるところであった。

【電電公社阪広福幹線テレビマイクロ回線(1964年8月現在)】
仕切り直して、4年後の1964(昭和39)年8月末時点の阪広福幹線のテレビマイクロ回線図を見ていきたい。
1960(昭和35)年8月時点との大きな差異はいくつかあるが、広島に民放2局目の広島テレビ放送(HTV)が開局している。
現在のHTVはNTV系で、かつての「ズームイン!!朝!」ではSTV、CTV、YTV、福岡放送(FBS)とともに毎日必ず中継で出てくるNTV系のトップ6だと思っているのだが、「東京放送のあゆみ」によれば1964年当時のネット比率はCX系が過半数を取っていたようだ。
そして、福岡ではかつてNET系で朝日ニュースをネットするため予備回線を取ろうと涙ぐましい努力をしていたはずのKBCのネット比率も、「東京放送のあゆみ」によればCX系が過半数を取っている。
どうやら、阪広福幹線でKBCが勝ち取った民放第3の線はCX系が過半数を占め、NET系がそれに続く比率の回線になっていたようだ。
これが翌1964(昭和39)年9月になるとTNCがCX系にネットチェンジするので、KBCはNET系の色を濃くして現在のEX系の有力局の地位に上り詰めていくわけだが、割愛する。
福岡以南をみていくと、福岡-熊本間で“複線化”してRKKがNTV系のネット受けができる状況になったほか、宮崎にもマイクロ回線が開通し宮崎放送(MRT)が開局した(1960年10月に大分-宮崎の回線が開通)。
そして何より目玉なのは、四国の高知から鳥形-三坂を経由して松山に至る知松線と、松山から伊方-幸崎と豊予海峡を越え大分に至る松分線が1961(昭和36)年4月に開通したことであろう。

【九州周辺 電電公社マイクロ回線普及 簡略化図】
大阪-眉山(徳島)-高知間も“複線化”し、高知まで高知放送(RKC)などが使うNTV系の回線と、CX系とNET系の混在した回線の2本が来る。
そして高知以遠はCX系とNET系の混在した回線の“単線”ながら、知松線と松分線で大分に上陸。
大分からはかつて福岡→大分の下り回線しかなかった経路に上り回線を増強する形で分熊福線も完成し、さらに分熊福線終点の福岡から阪広福幹線の上り線に接続し、山口・錦無線中継所に到達。
以上の大阪-眉山(徳島)-高知-松山-大分-熊本-福岡-勝山(下関)-錦-徳山という経路が、「山口放送三十年史」にある四国九州回りの回線のことだろう。
1959年10月のKRY開局から1961年4月にこのルートが開通するまで約1年半は物理的に使えないが、「山口放送三十年史」の担当者はKRY開局時からこの回線があったと誤認したのであろう。
阪広福幹線で福岡までNTV系主体の回線もCXとNETの混在した回線もあるにも関わらず、KRYが四国九州回りにこだわったのは、やはり関門地区での福岡民放との競合だろうか。
KRYもTNCもNTV系だが、KRYは関門局で別編成をしていたくらいである。
関門局のエリアでTNCとは違う系列の回線が欲しく、さらに1962年から北九州中継局を設置して進出して来るKBCが放送するCXやNETとも重複しない系列が欲しいとなれば、四国九州回りでTNCともKBCとも重複しない番組を選べることは武器になる。
四国九州回り回線は、福岡や広島の有力局と熾烈な電波戦を繰り広げるためのKRYの知恵だったのだろう。
さらに放送免許上の事情でも、1961(昭和36)年7月14日にKRYに関門局(VHF4ch、100W)の免許が交付された際に郵政省が付した条件が「エリアを共通とする他民放局(RKB毎日放送、テレビ西日本、九州朝日放送)と内容を同じくする番組は、一日の放送時間に対して三分の一以下とし、徳山テレビ局の番組を五十%以上放送すること」だったと、自ら「山口放送三十年史」の81ページにも書いており、これを両立するには八幡(TNC)行の阪広福幹線と四国九州回りの回線が両方なければ実現不可能だったことの証左でもあろう。
かくして、全国各地の民放はこの電電公社マイクロ回線の体制で、東京オリンピック1964を迎えることになる。
以上が今回の内容になる。
本当はこれに続く電電公社マイクロ回線の拡大にあわせて次の年代も見ていきたいが、徐々にマイクロ回線の普及とともに地方局の系列選択への影響も薄れていき、最終的には傍受問題やテロ対策などを理由に電電公社の後身のNTTはマイクロ回線の具体的な経路を公にしなくなっていくので、回線の存在からアプローチするのは難しくなる。
こぼれ話になるが、松分線の開通年がはっきりわからず、NTT技術史料館にダメ元で問い合わせをして数日かかりながらも教えてもらえたのは、自分で頼んでおきながらも驚いた。NTT技術史料館のご担当者様にはお手を煩わせ申し訳なかった。
最後に永森四郎著「日本の電信電話(少年産業博物館 ; 25)」や、「日本放送年鑑」に資料が存在することを教えてくださった「無賃乗車お断り」氏にこの場を借りて御礼申し上げ、以下、参考文献を列記して終わりとしたい。
←クリックでブログランキングに投票!
道路交通センサスを用いたネタ(東京⇔青森 一般道(下道、無料高速)最速ルートの計算(2015年版)、函館・札幌⇔稚内 一般道(下道、無料高速)最速ルートの計算をした、大阪⇔青森 一般道(下道、無料高速)最速ルートの計算)が稼ぎ頭だったが、最近はAKTの遠距離受信ネタばかりというのも原因だろう。
何か新しいネタは無いかと過去の道路交通センサスネタをみていて「北東国土軸」という言葉に目が止まり、自分の中で十数年来謎である民放テレビ局黎明期の電電公社マイクロウェーブ伝送路の真相を突き止めたいと思ったのである。
ここでいう民放テレビ黎明期とは、我が国の民放テレビ第1号の日本テレビ放送網(NTV)が開局した1953(昭和28)年から、VHF局として最後発の日本科学技術振興財団テレビ(後のテレビ東京(TX))が開局した1964(昭和39)年までとしたい。
おおむね各都道府県で民放テレビ局の1局目は開局した時期としてよいかと思う。
民放テレビ黎明期の地方局が選択する東京のキー局としては、先述の日本テレビの他に1955年開局の東京放送(当時の略称はKRT、現在のTBS)もあり、1959(昭和34)年以降はフジテレビジョン(CX)や現在のテレビ朝日にあたる日本教育テレビ(NET)も誕生している。
しかし実際のところ系列化に向けた動きはTBSか日本テレビの2系列が中心であり、日本民間放送連盟が1961年に発行した「民間放送十年史」の196ページでも指摘している。
「民間放送十年史」はオブラートに包まれた表現だが、山口放送(KRY)が1987年に発行した「山口放送三十年史」の61ページには「日本教育テレビ(現・テレビ朝日)とフジテレビは、三十四年(筆者注:昭和34=1959年)二月と三月にそれぞれ開局したばかりで、自社の体制固めに追われ、ネットワーク体制はできておらず」という状況が記されており、KRYの分析は酷評かもしれないが正鵠を射ていると思う。
NHKメディア研究部の村上聖一が2010年に発表した「民放ネットワークをめぐる議論の変遷」では、ネットワークを拡大・強化させる一つの要因となったのが1959年4 月10日の「皇太子ご成婚パレード」であり、大まかなネットワーク系列の色分けができたと指摘している(ここでいう皇太子とは2024年3月現在の上皇陛下のことである)。
「民間放送十年史」の124ページによれば、「皇太子ご成婚パレード」は在京キー局4社も参加したが、NETはTBS、CXはNTVのネットに参加しており、事実上、TBS系とNTV系とNHKの三つ巴の競合だったのである。
一方で、マイクロ回線の開通状況によって、地方局のキー局選択に制限があったという話も聞く。
マイクロ回線とは電電公社マイクロウェーブ伝送回線のことであり、1本の伝送路(一組の送受信機)で長距離市外電話なら480通話、テレビなら上下各1本(片方向2本)の中継が可能であった。NHKも民放も電電公社マイクロ回線を使用することで全国各地の放送局同士を結ぶネットワークを構築していた。
しかし電電公社マイクロ回線のテレビ回線の本数は、「民間放送十年史」が発行された1961年時点でも「地方に行くほどマイクロ回線の数がキイ局の数より少なく」と指摘され、技術的制約として「隘路」という表現が使われている。
ネットを検索すれば色々な説も出てくるし、各社の社史を見ていても内容に差異があり、かくなる上は是非も無し。自分で民放テレビ黎明期の電電公社マイクロウェーブ伝送路網図をつくることにしたのである。
【根拠とした書籍類】
民放各社の社史によって経路不明な記載もあるため、民放テレビ黎明期の電電公社マイクロ回線の無線中継所も含めて地図化することとした。
これに使用したのは永森四郎著、ポプラ社から1960年に出版された「日本の電信電話(少年産業博物館 ; 25)」に掲載の昭和35年8月末時点のマイクロウェーブ伝送路の図である。
永森の「日本の電信電話(少年産業博物館 ; 25)」の原図には日本テレビ系の回線とかTBS系の回線と明記されている訳ではないが、当ブログが以下の資料を中心に記載したものである。
民放テレビ黎明期の電電公社マイクロ回線の経路および選択系列については、上記の東京放送が1965年に発行した「東京放送のあゆみ」と、日本民間放送連盟が1966年に発行した「日本放送年鑑'66」が基本となった。
不明点などについては前出の「民間放送十年史」のほか、民放各社の社史やホームページの沿革の記載内容も参考にし、文献関係で資料が見つからない場合はNTT技術史料館への問い合わせも実施し確認した。
【東仙札幹線方面】
民放テレビ黎明期に「北東国土軸」という用語はまだなかったが、当時の北東国土軸の通信の大動脈といえるのが東京・仙台・札幌を結ぶ電電公社マイクロウェーブ伝送路の幹線──すなわち東仙札幹線である。
全国を3ブロックに分け、まずは東仙札幹線方面の図から掲載していく。
1枚目は1960(昭和35)年8月現在の図。
東京以北最大都市であり南北中枢都市の札幌を擁する北海道には北海道放送(HBC)と札幌テレビ放送(STV)の2局が開局済みだが、福島以外の東北各県は民放テレビ1局がようやく開局したころである。
先述した1965年に東京放送社史編集室が発行した「東京放送のあゆみ」のほか、1978年にSTVが発行した「札幌テレビ放送二十年史」や2003年にIBC岩手放送が発行した「IBC岩手放送小史」など複数の文献から、東仙札幹線は日本テレビ系主体とTBS系主体の2回線だったのは間違いなく、東京から札幌まで鉄道でいうところの“複線化”が達成されている。
一方で、山形や秋田方面に向かうルート(国見-山形-酒田-道川)は鉄道でいう“単線”の状態であり、やはり国土軸の幹線(東京・札幌間)に対する枝線の扱いの差を感じる。
本県(青森)の場合、NHK青森放送局(TG)やRABテレビ開局した1959年の時点でマイクロ回線は青森市に直接繋がっておらず、上北郡東北町の甲地無線中継所で東仙札幹線から分岐し、搬送ケーブルで青森市の青森東統制電話中継所(現在のNTT青森支店)までテレビ回線を伝送したという。
東奥日報の2010年3月26日付夕刊に掲載された「連載/ふるさとあの瞬間(とき)/電信電話の記憶 5/積滞電話解消へ/増える回線 テレビも伝送」に、RABとNHK青森のテレビ回線伝送に携わった元電電公社搬送マンの述懐が記載されており、RABの社史や民放連の年史にはない貴重な資料である。
余談ながら、テレビ回線は存在しないが岩手の釜石の存在感が凄い。当時の釜石は人口9万を超えた新日鉄の企業城下町である。平成以降で和賀や江釣子を併呑した北上や、“平成の大合併”で花巻や奥州、一関が1960年代の釜石の人口を超えた事例はあるが、岩手で合併という技を使わずに釜石の記録を超えた自治体は盛岡しかない。当時の釜石には電電公社にマイクロ回線を作らせるほどの勢いがあったのだろう。
2枚目は上図の4年後、1964(昭和39)年8月現在の図。
宮城も仙台放送(OX)が開局して民放2局化を果たし、福島にも福島テレビ(FTV)が開局した。
東仙札幹線は東京・仙台間で回線数が増え、仙台放送(OX)はこの時期のわが国では希少なフジテレビのネットが主体の局となっている。福島テレビ(FTV)は宮城の越河無線中継所から福島市まで伝送し、「東京放送のあゆみ」によればNTVをネットする時間が最も長かったようである。
北海道でも道都・札幌から函館など道内諸都市へのマイクロ回線も開通し、仁山-登別-支笏-札幌間が東京発札幌行と札幌発函館行で“4線化”し、後の札幌オリンピックに向け東仙札幹線が徐々に増強されていく時期となる。本図では省略したが、道北の旭川から名寄経由で稚内まで行く回線や、道東の釧路までの回線など道内網の回線も完成している。
また、“単線”だった秋田方面への枝線も、仙台・国見-笹谷-山形間が“複線化”を果たしている。どうやら、“複線”でもNTV系主体の2回線だったようで、山形・秋田間の複線化はもう少し先である。
【東名阪・東金阪幹線方面】
続いては東京・大阪間。
民放テレビ黎明期から「第一国土軸」の最重要区間である東京・静岡・名古屋・大阪間は電電公社マイクロウェーブ伝送路の幹線──すなわち東名阪幹線として整備が進んでおり、当時からNTV系、TBS系、CX系、NET系の4系列ともネット可能であったらしい。
また、東京から北陸の金沢経由で大阪に至る電電公社マイクロウェーブ伝送路の幹線──すなわち東金阪幹線も開通済みで“複線化”されており、東仙札幹線と同じく日本テレビ系主体とTBS系主体の2回線であった。
東名阪幹線が結ぶ東京と大阪の局のネット関係はNTV-讀賣テレビ放送(YTV)、TBS-朝日放送(ABC)、CX-関西テレビ放送(KTV)、NET-毎日放送(MBS)。朝日新聞系と、毎日新聞系のいわゆる東阪腸捻転解消前の時代である。
名古屋はまだ中京テレビ放送(CTV)が開局する前で、中部日本放送(CBC)がTBS系、東海テレビ放送(THK)がCX系という現在の体制の原型は出来ているが、名古屋テレビ放送(NBN・現在のメ~テレ)がほぼNTV系である。
東金阪幹線沿線も、「民間放送十年史」の各社史録から、富山の北日本放送(KNB)がNTV系、石川の北陸放送(MRO)がTBS系を選択するなど、各局がNTV系とTBS系を選択する様子が見て取れる。
この頃はまだ地形的障害たる列島の脊梁山脈を超える電電公社マイクロ回線ルートは希少だったのが地図からも伝わってくる。
長野の信越放送(SBC)は東金阪幹線が脊梁を越える渋峠近傍の横手無線中継所から分岐し、新潟放送(BSN)は脊梁を越えた先の薬師無線中継所(当時の新潟県直江津市)から分岐していた。新潟以北の酒田、秋田方面への幹線も未開通であった。
そしてテレビ回線が無かったが存在感があるものとして釜石に似たものを感じるのが、名古屋-品野-船山-高山のマイクロ回線。やはり高山の隣の隣に位置した神岡町の存在だろうか。神岡も1960年代の神岡鉱山の最盛期に3万人近い人口を抱えた歴史がある。
とりあえず、東阪間は1960(昭和35)年時点と1964(昭和39)年時点であまり整備状況が変わらないので、次の西日本方面に移りたい。
【阪広福幹線方面】
3つ目となるのが、当時の西日本国土軸の通信の大動脈といえる大阪・広島・福岡を結ぶ電電公社マイクロウェーブ伝送路の幹線──すなわち阪広福幹線である。
こちらを理解するためにはまず福岡県の民放の開局状況と、電電公社マイクロ回線の関係の歴史を整理する必要がある。
各社の社史や「民間放送十年史」の各社史録や、マイクロウェーブ伝送路図だけを読んでも理解は困難だろう。
| 福岡民放の開局と電電公社マイクロ開通年史 | |
| 1958(昭和33)年3月1日 | 福岡市でRKB毎日放送テレビが開局。 電電公社マイクロ回線・阪広福幹線の民放用は1本で、RKBがTBS系主体で使用開始。 |
| 1958(昭和33)年8月28日 | 八幡市でテレビ西日本(TNC)が開局。 阪広福幹線のテレビ回線はRKBが使用中のTBS系主体回線1本しかなく、TNCが電電公社と交渉の結果、阪広福幹線の予備回線使用の諒承を得てNTV系をネット。 |
1958(昭和33)年9月 | 阪広福幹線でNTV系用のテレビ回線も完成。TNCが予備回線使用の制約から解放される。 |
| 1959(昭和34)年3月1日 | 福岡市で九州朝日放送(KBC)テレビが開局。主たるネット・キイ局はNETとCXで、ニュースはNET。 阪広福幹線のテレビ回線はRKBが使用中のTBS系主体回線とTNCが使用中のNTV系主体回線の2本しかなく、当初1か月は夜間のみ予備回線の使用でネット受けができたが、昼間はニュースのネット受けも不可だった。その後、ニュースのみは昼間も予備回線の使用が許可された。 |
1959(昭和34)年9月 | KBC開局から半年あまり経って、阪広福幹線でKBCが使用可能なテレビ回線が完成した。 |
歴史を整理する方がよいとはいうものの、西部毎日テレビジョンの合併史とかに触れだすとキリがないので、現在もあるRKB毎日放送(rkb)、テレビ西日本(TNC)、九州朝日放送(KBC)の順にマイクロ回線が整備されたと絞ると理解しやすい。
実際はKBCはCXの番組を流す時間も多かったとか、TNCが後年CX系になるとかもあるのだが、ややこしくなるので説明しない。
ともあれRKBが使用するTBS系主体の回線しかなかった時代に開局する地方局は、自然とTBS系で開局する流れができたようだ。
特に九州は顕著で、1958年11月以降は福岡の管岳無線中継所から北九州の八幡までTNCが使うNTV系の回線は来たが、北九州以南はTBS系主体の回線しかない状況が続いたことで、長崎放送(NBC)、熊本放送(RKK)、鹿児島の南日本放送(MBC)など九州各県(佐賀以外)の民放1局目はいずれもTBS系で開局した。
RKBが使用するTBS系主体の回線しかなかった時代の、大阪・福岡間の地方局の系列選択はそれぞれに個性があるように感じる。
中四国の中枢都市である広島の中国放送(RCC)は1959年4月1日の開局当初はオープンネットとはいえ自然に阪広福幹線の現状にあわせTBS系(KRT)を選択したようだ。どこか優等生らしくも思う。
一方、RCCより一足早く1958年6月1日に開局したお隣岡山の山陽放送(RSK)もTBS系を選択しているものの、電電公社マイクロ回線の使用料金対策で、1957年頃に大阪・生駒山の大阪テレビ放送(OTV、後のABC)の放送波を岡山で受信する実験を行って成功しているなど、いざとなれば電電公社マイクロ回線に頼らないという強い意志さえも感じる。
電電公社に頼らないという意味では山陰・鳥取の日本海テレビジョン放送(NKT)は何と尾山-鳥取間の電電公社マイクロ回線が開通する前に開局し、3か月もフィルムで乗り切ったという独立局のような実践を積んだ歴史を持ってNTV系に加盟した。
四国は、やはり瀬戸内海を挟んで対岸の山陽側のTBS系の放送が届くことを警戒したようで、彼らの電電公社との向き合いも面白い。
興味深いのは香川・高松に1958(昭和33)年7月に開局する西日本放送(RNC)で、「民間放送十年史」によれば阪広福幹線の常山無線中継所(岡山県玉野市)から分岐させた回線を高松で受けることが決まったが、NTV系を受けるため、電電公社に対し予備線の開放を要請していたという。結果、予備線開放が決まり、RNCは開局からNTV系となったということで、同年8月28日に北九州・八幡で産声を上げるTNCの史録とも整合性が取れる。
共に“西日本”を社名に冠する香川のRNCと福岡のTNCは、NTV系を希望する地方局が電電公社に予備線の開放を要求して実った実例ということになろう。
電電公社の東仙札幹線の整備状況に運命を委ねた感じがある東北の各局に比べると、中四国の各局は阪広福幹線や枝線の電電公社マイクロを使わない手法を見せたり予備線の開放を要求したり、電電公社と侃侃諤諤とやりあって来たであろう歴史も垣間見えて実に面白い。
こうして1958年7月から阪広福幹線にNTV系主体の回線も予備線ながら暫定使用できることになり、同年10月まで(9月中?)にはNTV系主体のテレビ回線も完成した。
愛媛・松山に同年12月1日に開局する南海放送(RNB)も広島から回線を分岐することでNTV系を選択することとなった。
ところが、翌1959(昭和34)年10月1日に開局する山口放送(KRY)のWikipediaに、わざわざ「山口放送三十年史」の61~63ページだという参考資料まで付けた以下の記載を見つけて天を仰いでしまった。
「先発局がすべて日本テレビ系列である四国地方周りで、九州を経由するという複雑な経路ではあったものの、日本テレビ系列への加入を決定した。」
KRY、阪広福幹線の予備線とか八幡(TNC)行の回線使わなかったの!?
Wikipediaの記載に眩暈がしそうになったが、実際に山口県立図書館から「山口放送三十年史」を取り寄せて読んでみたところ、正確にはこうだ。以下引用する。
「当時は、東京-福岡間は本線二本、上り予備が一本という状態であった。その本線一本はすでにラジオ東京系列(広島はラジオ中国、福岡ではRKB毎日放送)が使用、一本はNHKが使用しているので、当社が本線を使用する場合にはラジオ東京系列にならざるを得なかった。
岩国地区と下関・宇部地区にはラジオ中国、RKB毎日というともにラジオ東京系列社の電波が届くことから、エリア的に、また媒体価値的に当社は不利になるという状況であった。
一方、日本テレビ系列に入ると、四国地区はすでに日本テレビ系列になっていたので、場合によっては東京-北陸回り-大阪経由-高松-四国回り、そして大分-福岡-予備線の上り回線で徳山という好ましくないマイクロ波回線も予想された。
しかし、経営的、営業的見地からすると、回線の曲折があっても、日本テレビ系列になるよりほかなかった。」
岩国地区と下関・宇部地区にはラジオ中国、RKB毎日というともにラジオ東京系列社の電波が届くことから、エリア的に、また媒体価値的に当社は不利になるという状況であった。
一方、日本テレビ系列に入ると、四国地区はすでに日本テレビ系列になっていたので、場合によっては東京-北陸回り-大阪経由-高松-四国回り、そして大分-福岡-予備線の上り回線で徳山という好ましくないマイクロ波回線も予想された。
しかし、経営的、営業的見地からすると、回線の曲折があっても、日本テレビ系列になるよりほかなかった。」
「山口放送三十年史」はあくまでも「予想された」という形で、当時の自社の見立てを書いているに過ぎない。
それを踏まえたうえで、「山口放送三十年史」を酷評することになり申し訳ないが、恐らく「山口放送三十年史」の当該部分を執筆したKRYの担当者が正確に開局当時の電電公社マイクロ回線網を把握できていなかったのだろう。
何より高松からは四国のどこへもマイクロ回線が通じていなかったのにどう山口へ向かうのか。
念のために、同軸方式(1940年の東京オリンピックのテレビ中継は標準同軸ケーブル方式で実施する予定があった)の可能性も考えたが、四国電気通信局が1973年に発行した「四国電信電話事業史」の145ページによれば「41年(筆者注:昭和41=1966年)に岡山~高松間ではじめて同軸ケーブルが開通」とあり、KRY開局時に同軸を利用できた可能性はない。
先述の東仙札幹線の甲地無線中継所と青森を結んだ搬送方式も調べてみたが、「四国電信電話事業史」の138ページの表を見る限り搬送ケーブルでテレビ回線を繋いだVSB方式は甲地-青森が全国
仮に讃岐の高松と土佐の高知の書き間違えだとしても、KRY開局の1959年10月1日時点で高知と松山を結ぶ知松線はおろか、松山から大分に至る松分線も開通していないのである。
四国から九州に渡るマイクロ回線がないのにどうやって四国九州経由が成立するのだ。
電電公社マイクロ回線の図が現在に至るまで非公表だったり、香川のRNCや福岡のTNCの史録が無ければ、「山口放送三十年史」の記述に惑わされるところであった。
仕切り直して、4年後の1964(昭和39)年8月末時点の阪広福幹線のテレビマイクロ回線図を見ていきたい。
1960(昭和35)年8月時点との大きな差異はいくつかあるが、広島に民放2局目の広島テレビ放送(HTV)が開局している。
現在のHTVはNTV系で、かつての「ズームイン!!朝!」ではSTV、CTV、YTV、福岡放送(FBS)とともに毎日必ず中継で出てくるNTV系のトップ6だと思っているのだが、「東京放送のあゆみ」によれば1964年当時のネット比率はCX系が過半数を取っていたようだ。
そして、福岡ではかつてNET系で朝日ニュースをネットするため予備回線を取ろうと涙ぐましい努力をしていたはずのKBCのネット比率も、「東京放送のあゆみ」によればCX系が過半数を取っている。
どうやら、阪広福幹線でKBCが勝ち取った民放第3の線はCX系が過半数を占め、NET系がそれに続く比率の回線になっていたようだ。
これが翌1964(昭和39)年9月になるとTNCがCX系にネットチェンジするので、KBCはNET系の色を濃くして現在のEX系の有力局の地位に上り詰めていくわけだが、割愛する。
福岡以南をみていくと、福岡-熊本間で“複線化”してRKKがNTV系のネット受けができる状況になったほか、宮崎にもマイクロ回線が開通し宮崎放送(MRT)が開局した(1960年10月に大分-宮崎の回線が開通)。
そして何より目玉なのは、四国の高知から鳥形-三坂を経由して松山に至る知松線と、松山から伊方-幸崎と豊予海峡を越え大分に至る松分線が1961(昭和36)年4月に開通したことであろう。
大阪-眉山(徳島)-高知間も“複線化”し、高知まで高知放送(RKC)などが使うNTV系の回線と、CX系とNET系の混在した回線の2本が来る。
そして高知以遠はCX系とNET系の混在した回線の“単線”ながら、知松線と松分線で大分に上陸。
大分からはかつて福岡→大分の下り回線しかなかった経路に上り回線を増強する形で分熊福線も完成し、さらに分熊福線終点の福岡から阪広福幹線の上り線に接続し、山口・錦無線中継所に到達。
以上の大阪-眉山(徳島)-高知-松山-大分-熊本-福岡-勝山(下関)-錦-徳山という経路が、「山口放送三十年史」にある四国九州回りの回線のことだろう。
1959年10月のKRY開局から1961年4月にこのルートが開通するまで約1年半は物理的に使えないが、「山口放送三十年史」の担当者はKRY開局時からこの回線があったと誤認したのであろう。
阪広福幹線で福岡までNTV系主体の回線もCXとNETの混在した回線もあるにも関わらず、KRYが四国九州回りにこだわったのは、やはり関門地区での福岡民放との競合だろうか。
KRYもTNCもNTV系だが、KRYは関門局で別編成をしていたくらいである。
関門局のエリアでTNCとは違う系列の回線が欲しく、さらに1962年から北九州中継局を設置して進出して来るKBCが放送するCXやNETとも重複しない系列が欲しいとなれば、四国九州回りでTNCともKBCとも重複しない番組を選べることは武器になる。
四国九州回り回線は、福岡や広島の有力局と熾烈な電波戦を繰り広げるためのKRYの知恵だったのだろう。
さらに放送免許上の事情でも、1961(昭和36)年7月14日にKRYに関門局(VHF4ch、100W)の免許が交付された際に郵政省が付した条件が「エリアを共通とする他民放局(RKB毎日放送、テレビ西日本、九州朝日放送)と内容を同じくする番組は、一日の放送時間に対して三分の一以下とし、徳山テレビ局の番組を五十%以上放送すること」だったと、自ら「山口放送三十年史」の81ページにも書いており、これを両立するには八幡(TNC)行の阪広福幹線と四国九州回りの回線が両方なければ実現不可能だったことの証左でもあろう。
かくして、全国各地の民放はこの電電公社マイクロ回線の体制で、東京オリンピック1964を迎えることになる。
【むすび】
以上が今回の内容になる。
本当はこれに続く電電公社マイクロ回線の拡大にあわせて次の年代も見ていきたいが、徐々にマイクロ回線の普及とともに地方局の系列選択への影響も薄れていき、最終的には傍受問題やテロ対策などを理由に電電公社の後身のNTTはマイクロ回線の具体的な経路を公にしなくなっていくので、回線の存在からアプローチするのは難しくなる。
こぼれ話になるが、松分線の開通年がはっきりわからず、NTT技術史料館にダメ元で問い合わせをして数日かかりながらも教えてもらえたのは、自分で頼んでおきながらも驚いた。NTT技術史料館のご担当者様にはお手を煩わせ申し訳なかった。
最後に永森四郎著「日本の電信電話(少年産業博物館 ; 25)」や、「日本放送年鑑」に資料が存在することを教えてくださった「無賃乗車お断り」氏にこの場を借りて御礼申し上げ、以下、参考文献を列記して終わりとしたい。
◆引用文献・参考文献・ウェブサイト
・アイビーシー岩手放送(2003)「IBC岩手放送小史」
・青木貞伸編著(1981)「日本の民放ネットワーク : JNNの軌跡」JNNネットワーク協議会
・青森放送社史編纂委員会(1980)「青森放送二十五年史」
・札幌テレビ放送社史編纂委員会編(1978)「札幌テレビ放送二十年史」
・四国電気通信局(1973)「四国電信電話事業史 : 公社発足20年」
・高橋昭編著(1987)「山形放送三十三年誌」山形放送
・東奥日報社(2009)「2009年3月26日付夕刊 連載/ふるさとあの瞬間(とき)/電信電話の記憶 5/積滞電話解消へ/増える回線 テレビも伝送」
・東京放送社史編集室(1965)「東京放送のあゆみ」
・東北放送株式会社(1962)「東北放送十年史」
・東北放送株式会社(1972)「東北放送二十年史」
・永森四郎(1960)「日本の電信電話(少年産業博物館 ; 25)」ポプラ社
・南海放送「南海放送50年史」https://web.rnb.co.jp/event/60th/main/ebook1/html5.html#page=22
・日本電信電話公社福岡無線通信部(1984)「九州無線史」
・日本民間放送連盟(1961)「民間放送十年史」
・日本民間放送連盟(1966)「日本放送年鑑 1966(昭41)年版」
・北海道放送社史編纂室・編(1972)「北海道放送二十年」
・村上聖一(NHKメディア研究部)(2010)「民放ネットワークをめぐる議論の変遷」https://www.nhk.or.jp/bunken/research/title/year/2010/pdf/001.pdf
・山口放送株式会社(1987)「山口放送三十年史」
・アイビーシー岩手放送(2003)「IBC岩手放送小史」
・青木貞伸編著(1981)「日本の民放ネットワーク : JNNの軌跡」JNNネットワーク協議会
・青森放送社史編纂委員会(1980)「青森放送二十五年史」
・札幌テレビ放送社史編纂委員会編(1978)「札幌テレビ放送二十年史」
・四国電気通信局(1973)「四国電信電話事業史 : 公社発足20年」
・高橋昭編著(1987)「山形放送三十三年誌」山形放送
・東奥日報社(2009)「2009年3月26日付夕刊 連載/ふるさとあの瞬間(とき)/電信電話の記憶 5/積滞電話解消へ/増える回線 テレビも伝送」
・東京放送社史編集室(1965)「東京放送のあゆみ」
・東北放送株式会社(1962)「東北放送十年史」
・東北放送株式会社(1972)「東北放送二十年史」
・永森四郎(1960)「日本の電信電話(少年産業博物館 ; 25)」ポプラ社
・南海放送「南海放送50年史」https://web.rnb.co.jp/event/60th/main/ebook1/html5.html#page=22
・日本電信電話公社福岡無線通信部(1984)「九州無線史」
・日本民間放送連盟(1961)「民間放送十年史」
・日本民間放送連盟(1966)「日本放送年鑑 1966(昭41)年版」
・北海道放送社史編纂室・編(1972)「北海道放送二十年」
・村上聖一(NHKメディア研究部)(2010)「民放ネットワークをめぐる議論の変遷」https://www.nhk.or.jp/bunken/research/title/year/2010/pdf/001.pdf
・山口放送株式会社(1987)「山口放送三十年史」
コメント
コメント一覧
富山の朝日のNTT中継所がこんな昔からあるとは驚きでした。
今やNTTの朝日中継所も跡形がなく、マイクロが通っていた早月無線中継所も他の人に貸しているという話です。
このあと、山梨-長野の回線と東北の日本海経由の回線ができて北向きが二重化され、山陰地方経由もできあがるわけですよね・・・
マイクロの全国回線も今や光ファイバーと比較すると容量が足らないようで、維持してる組織も本当になくなりましたよね・・・ とはいっても衛星経由よりは大量のデータが送れるので、非常用回線としてはそれなりに有用なのかなぁと。(東日本大震災の時は東京-仙台の光回線が2系統ともやられたようで、マイクロと衛星でしのいだという話も聞きます)
総務省的にはマイクロ多重無線回線はつぶしてほしいようですけどね・・・
まあ、貴重な資料ありがとうございます。
コメントありがとうございます。
別件を調査していたら、こんな記事が完成してしまいました。
1967(昭和42)年頃になると、新潟-酒田-秋田-青森とか、甲府-長野も出来るのですが、民放黎明期はこのマイクロ体制だったとみています。
文末に資料提供者として私のHNを記載していたのを発見して驚きました。
所蔵している資料から適当に呟いたしょうもないポストでありましたが、貴殿の調査・研究に役立つ事が出来て非常に嬉しかったです。
今後も素晴らしい記事を期待しています。
この度は書籍の紹介をありがとうございました。
永森四郎の「日本の電信電話」が最初のきっかけと言いますか、そこを手掛かり足掛かりに次々と補強する資料に辿り着くことが出来たように思います。
本当にありがとうございました。
当の『民間放送十年史』 605ページには「予備回線は本線開通が繰り上げられたので、試験放送も含めて1か月程度の使用で済んだ」とあります。
テレビ西日本(TNC)の試験放送は1958年8月15日からですので、民間放送十年史の記述に基づくと、同年9月中には開通していた可能性が高いと推測できます。
なお、ウィキペディアは出典に基づく記述が基本のウェブサイトですので(放送分野はソース未記載の記述が少なくありませんが…)
いくら『山口放送三十年史』の記述が怪しくても(TNCが存在する以上、山口を通る本回線があるのでは?と疑問に思っていても)、他の出典を持ってこない限り三十年史の記述をそのまま採用せざるを得ないのです。
コメントありがとうございます。
「民間放送十年史の記述に基づくと、同年9月中には開通していた可能性が高いと推測」、その通りです。お恥ずかしい話ですが訂正します。11月開通予定の記載部分のみそのまま引用した誤りです。
ウィキペディアは出典に基づく記述が基本のウェブサイトなので三十年史の記述をそのまま採用せざるを得ないという件については、私はwikipediaの編集に関与していないので、特に言うことはありません。
ただ他の出典をあげるとすれば、引用・参考文献としてあげた四国電気通信局(1973)「四国電信電話事業史 : 公社発足20年」のP205に「高知~大分間のマイクロ工事に着工した。このルートは、高知~鳥形~三坂~松山~伊方~大分を結ぶものであり、工事は36年3月27日に完成をみている」との記述があり、NTT技術史料館への直接の問い合わせで4月開通とのことですので、KRY開局の昭和34年10月1日時点で四国回り回線は存在せず、当ブログとしては「山口放送三十年史」の記載は採用できません。