「『石井さんには実力がない』だと!?」衝撃の年俸6割カット提示で石井浩郎まで…野茂英雄ら主力が軒並み去った「1994年の近鉄」とは何だったのか
Number Web6/13(金)11:10
「『石井さんには実力がない』だと!?」衝撃の年俸6割カット提示で石井浩郎まで…野茂英雄ら主力が軒並み去った「1994年の近鉄」とは何だったのか photograph by Kazuaki Nishiyama
野茂英雄がメジャーに渡って30年。彼の渡米はどうして可能になったのか? すべてがはじまった前年、1994年の近鉄バファローズの関係者を当時の番記者が再訪し、「革命前夜」を描き出す。野茂、阿波野、吉井、金村……近鉄を愛し、支えた男たちは次々とチームを去った。彼らにとって「1994年」とは何だったのか。〈連載「革命前夜〜1994年の近鉄バファローズ」第20回/初回から読む/前回はこちら〉
野茂英雄がドジャース、阿波野秀幸が巨人、吉井理人はヤクルト、金村義明も中日へ移籍するなど、近鉄を長く支えた投打の主力がこぞっていなくなった1995年、鈴木近鉄は開幕から低迷が続いた。
鈴木啓示監督の途中休養
石井浩郎は右かかとを痛め、阪神・掛布雅之の「361試合連続4番打者先発出場」を6月8日に更新したものの、達成翌日の9日に出場選手登録を抹消。ラルフ・ブライアントも右ひじ手術のため6月に帰国すると、その年限りで近鉄を退団することになる。
投打の主力を欠いた3年目の鈴木近鉄は、当時14年ぶりとなる「借金20」と、それこそ挽回不能なレッドゾーンに突入。鈴木啓示は8月9日から「途中休養」を余儀なくされた。
1994年オフに近鉄選手会長に就任した石井は、鈴木と投手陣との“不断の対立”が、やはり、当時のチームに大きな影響を与えていたことを否定しなかった。
「鈴木啓示さんは、やっぱりピッチャーなんでね。私がよく聞かされたのは『今のピッチャーは投げ込まん。俺は毎日300球投げて317勝や。今の若いモンは、なんで50球しか投げないんだ』って。でも、それを言われても、我々、困るじゃないですか」
投手の肩は消耗品。仰木彬監督時代の投手コーチ・権藤博、そして野茂をはじめとした投手陣が絶大の信頼を置いたトレーニングコーチ・立花龍司が持ち込んだ、その当時としてはまさしく“最先端のコンセプト”が、これだった。鈴木の「投げ込め、走り込め」の投手イズムとは、まさしく真っ向から対立していた。
これはピッチャーは大変だな
「野手に対しては、あまり鈴木さんも言ってこられなかったので、そんなに別に何ともなかったんですが、傍から見ていても、ピッチャーは大変だな、という風には見ていました」
そうしたチーム状況、鈴木と投手陣との不和ぶりを間近に見ていたからこそ、1994年のオフ、石井は野茂に対して「近鉄で、一緒に頑張ろうや」と説得する一方で「これは、もう残ることはないよな」という、相反した感情が芽生えたのだという。
「もう、そんな雰囲気じゃなかった。だから、後はもう、野茂がどこに行こうと応援しようという気持ちで、当時はいたんです。阿波野にしても、あれだけ投げまくって、あの『10.19』(※連勝なら優勝だった1988年最終戦のダブルヘッダー)とか、近鉄に貢献してきたのに、なんかお払い箱みたいな扱いでしょ?
野茂にしたって、複数年契約を要求してダメだった。そんなの、複数年やっとけばいい話じゃないですか。我々はもう、次の世代の人たちが同じ扱いをされると困るという思いで、ずっと見ていたんです」
石井の大減俸
石井は、96年の開幕直後に左手有鈎骨の骨折で手術を受け、シーズンでもわずか2試合の出場に終わった。すると、オフの契約更改交渉で年俸1億2750万円(推定)から、減額制限の30%(現在は40%)を大幅に超える61%ダウンとなる年俸5000万円、プラス出来高払いを球団側に提示され、交渉は年をまたいでの大揉めとなった。
野茂、阿波野、吉井、そして「ついに俺にも来たか、と思いました」という石井の述懐は、長い年月が経っても、そのショックの大きさを物語っている。
「近鉄球団から、野茂もいろんなことを言われていたし、選手を大事にしないよな、と思っていたら、今度は自分でした。6割カットで来たんですよ。こっちの主張は、3分の2のカットとなれば、もう基本は自由契約ということですよね、って揉めたんですよ」
選手の同意がなければ、減額制限を超えての減俸はできない。石井は、全くもって同意していない。この時点で、球団はもはや“野球協約違反”を犯しているのだ。
納得しろ、という方が難しいだろう。
「石井さんには実力がない」
しかも石井は、その激しいやり取りの中で、絶望的な通達を聞かされることになる。
「なんでですか? なぜ6割以上の年俸カットなんですか、と社長に聞いたら『石井さんには、実力がないから』って言われたんですよ」
売り言葉に買い言葉なのか。いや、もはや説得する気がないのか。故障で2年連続不本意な成績とはいえ、94年には打点王にも輝いた、球界を代表するスラッガーの一人に、リスペクトのかけらも感じられない。
当時の球団社長・筑間啓亘を、私は残念ながら直接取材した機会がなかったので、その印象を推察することはできないが、石井が振り返ってくれたその状況に「マジですか?」と思わず突っ込んでしまったほどだった。
「マジで『石井さんには力がないから、これが妥当な石井さんの実力だと思います』って社長に言われて……。私、もう倒れそうになりました、その場に。いやいや、言い方があるでしょ。実力ない人に、じゃあ、なんで4年も5年も4番を打たせてきたんだ、っていうことですよ。言い方があるんじゃないかと。
もうこの球団でやる力がない、って烙印を押されているのに、絶対に他には行くな、残れ、条件飲んで残れ、って言うんですよ。いや、筋が通りませんよ。こんなことがまかり通ったら、この後、若い選手がみんなこれをやられたらどうなるんですか」
どう見ても、球団に勝ち目がない。野茂に「任意引退同意書」へサインさせたときのように、石井との交渉に関しても、球団の方が“墓穴”を掘ってしまっている感が否めない。
石井もチームを去る
「お金が絡んでくると、突然、大阪の商人になっちゃうんですよ」
石井のジョークも言い得て妙だから、これまた笑えない。事態を重く見た当時のコミッショナー・吉国一郎から「野球協約に基づいた、30%減以内の条件での再交渉」を通達されたのは、96年も暮れようとしていた12月24日のこと。
年明けの1月8日、近鉄側はトレードを前提として減額制限いっぱい、30%ダウンの年俸9000万円を提示。契約を結んだ上でトレードが通告され、その6日後の同月14日、巨人・吉岡雄二、石毛博史と1対2での交換トレードが決まった。
いてまえ打線の核も、いなくなった。
「近鉄を出る理由なんて一切なかった」
25歳でのプロ入り。入団直後に急性肝炎で入院。1軍デビューは90年5月と出遅れながらも、ルーキーイヤーから5年連続20本塁打以上、その5年目にあたる94年には自己最多の33本塁打、さらに111打点で打点王。石井はまさしく「近鉄の顔」であり、未来の幹部候補生とも言われた存在だった。
社会人のプリンスホテルに在籍していた89年、広島から「2位」での指名を約束されたことで、他球団にはいったん、指名の断りを入れていたという。ところが、直前で広島の指名方針が切り替わったという連絡を受け「プロはないな」と諦めかけていたところ、近鉄の3位指名があったという。
「近鉄に獲ってもらって、そういう恩義というか、仰木監督に生かしてもらったし、近鉄を出る理由なんて一切ない、ホントにこのまま近鉄で、他球団で野球をやるなんて全く頭になかったんです」
その“近鉄愛”がぐらついたのが、年俸の6割カット提示だったのだ。
テレビで人気者に、そして選挙出馬
「近鉄球団が残っていれば、監督だってやらせてもらっていたかもしれない。野球の世界にどっぷり、まだいたかもしれない。それが、ジャイアンツという球団に行った。そうしたら、毎週、日本テレビの『THE・サンデー』という徳光和夫さんの番組で、私のコーナーができたんです」
日本テレビ「THE・サンデー」は、1989年10月から2008年9月まで、毎週日曜朝に放送されていた情報番組で、巨人ファンのフリーアナウンサー・徳光和夫が長くメーン司会者を務めていた。その番組内での企画の一つが「拝啓、石井浩郎です」という石井一人をフィーチャーしたコーナーだった。視聴者からの反響も大きく、巨人在籍中の3年だけでなく、その後にロッテ、横浜と移籍した時も含めて6年近く続いたという。
「それがなぜかもう、選挙に出るには大変ありがたかったんです。何しろ、野球を知らない人まで、私を知ってくれるようになるわけですから」
石井は、2010年7月、参議院議員選挙に秋田県選挙区から出馬して当選、2022年8月には国土交通副大臣に就任するなど、現在3期目に入っており「プロ野球は13年、お世話になったんですけど、議員はもう(2025年で)16年目。議員の方が長いんです」。
人間万事塞翁が馬、とは、石井の歩んできたキャリアのようなことを言うのかもしれないと、改めて痛感させられた。今回の取材を石井にお願いすると、国会議事堂にほど近い、永田町の参議院議員会館内にある事務所へと招いてくれた。
彼らにとって「1994年の近鉄」とはなんだったのか
「初めて番記者をしてから30年たって、こうやって石井さんに近鉄の話を聞く日が来るとは、思いもしませんでした」
公務の間の多忙な時間を縫っての取材に感謝の意を告げたら、石井も笑った。
「まさか、議員会館で、近鉄の話なんて、ね」
それぞれの場所で、それぞれの活躍がある。
野茂の活躍、石井の転身、指導者となった吉井、そして阿波野。
「1994年の近鉄バファローズ」は、それぞれの新たな世界へ踏み出すための、それぞれの“ステップボード”になっていたのかもしれない。
〈シリーズ続編は後日公開します。お楽しみに!/初回から読む〉
文=喜瀬雅則
photograph by Kazuaki Nishiyama