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ハナママゴンの雑記帳

ひとり上手で面倒臭がりで出不精だけれど旅行は好きな兼業主婦が、書きたいことを気ままに書かせていただいております。

フレッド&ローズ・ウエスト ② フレッド・ウエストの生い立ち

2014-03-09 22:49:05 | 事件

フレデリック・ウエストは1941年11月、ヘリフォードシャー州マッチ・マークル(Much Marcle)村の貧しい農夫の長男に生まれた。前年に誕生していた姉は生後数日で亡くなったため、事実上彼が長子だった。

父親のウォルター・ウエスト(1914-1992)と母親のデイジー(1924-1968)との間には、フレッドの下に6人の子供が続き、乏しい世帯収入を補うため、子供たちは木を切り、ホップや苺を摘んで年若いうちから働いた。

金髪の巻き毛と青い瞳をした幼い頃のフレッドは愛らしかったが、やがてだらしない茶色の髪をしたむさくるしい少年に成長した。大きすぎる口と歯の間の隙間は母親譲りだった。学業はふるわず、学校でトラブルを起こしては体罰をくらうこともよくあった。激高した母親のデイジーは、何度も学校に怒鳴り込んだという。“ママっ子”とからかわれたフレッドは、読み書きもろくにできないまま15歳で学校を離れ、農家の手伝いを始めた。

 

   フレッド(当時2歳)、弟のジョン(1歳下)と。                     妹のデイジー(向かって左)・キティーと、1950年代半ばの写真。

      

 

父親は「俺がお前を作ってやったのだから、お前を自由にする権利がある」と言い放って娘たちを近親相姦の対象にしたと、のちにフレッド・ウエストは供述している。(後年フレッドの娘メイの恋人は、メイが彼に「父(フレッド)も全く同じことを言いながら私が体に巻いていたバスタオルを引き剥がそうとした」と語ったと述べている。) またフレッド自身は否定したものの、彼も母親との間に性関係があったと信じられている。

 

                      下中、左上から時計回りに: フレッド、弟ジョン、母親デイジー、妹キティー、弟ダグ、隣人の女性

      

        フレッドの両親。下中は44歳で死んだ母親の、おそらく最後の写真。             両親と子供たち。

              

 

17歳のときフレッドはバイク事故に遭い、7日間意識を取り戻さず、また治療の一環として頭部に金属板が挿入された。損傷を受けた片脚は、もう一方の脚より短くなった。家族によると事故を境に彼は以前より短気になり、時折癲癇のような症状を見せるようになった。怪我から回復した頃、フレッドはのちの妻となるリナ(=愛称、本名はキャサリン・コステロ、1944-1971)に出会っている。窃盗の常習犯だった16歳のリナは、親類を訪ねて遊びに来ていた。二人はたちまちねんごろになったが、数ヵ月後にリナが故郷のスコットランドに帰り、関係は終わった。

彼はその2年後にも、ふたたび頭部を打って意識不明に陥った。女の子のスカートの中に手を入れて突き飛ばされ、非常口から転げ落ちたのだ。このふたつの事故がフレッドの脳に与えた影響は定かではない。

19歳とき、フレッドは13歳の妹と性行為に及んだかどで告発された。(「妊娠させた」とする情報源も。) 取り調べの際彼は非協力的で、「誰もがやっていることだろ?」とうそぶいたと言われている。しかし医師が、「フレッドは交通事故後に癲癇の発作に見舞われるようになった」と証言したため無罪放免となった。この告発により彼は、家族からしばらく縁を切られて疎遠になった。建設現場で仕事を得たものの、盗みを働いているところを見つかってお払い箱になった。

1961年に、フレッドと友人は宝石店から腕時計のストラップとタバコのケースを盗み、盗品を身につけたまま逮捕され、罰金を科された。これが彼にとって最初の犯罪記録となった。

 

    左から: 妹デイジー、フレッド、妹グウェン、妹キティー、弟ダグラス              近親相姦に関しフレッドの“無罪”を報じる記事

        

 

1962年になると、フレッドの両親は彼に家に戻ることを許した。その夏リナがスコットランドからふたたびやって来、フレッドとまた関係を持つようになった。その頃にはリナは、窃盗に加えて売春もしていた。彼女は自分のヒモであるパキスタン人のバス運転手の子供をすでに身ごもっていたが、フレッドは意に介さなかった。フレッドの両親にはリナは彼の子供を身ごもっていると信じさせ、同年11月に二人は結婚。その後すぐにスコットランドに移った。1963年3月、シャーメインが誕生。ひと目で混血とわかる外見のため、二人はフレッドの両親には「子供は死産だったので養子をもらった」と嘘をついた。

フレッドはその頃には普通の性行為では飽き足らなくなり、緊縛などのサディスティックな行為にのめり込んでいた。フレッドの癇癪、暴力と飽くなき性欲は、リナに恐怖すら抱かせた。当時アイスクリーム売りをしていたフレッドには、若い女性を“釣る”機会はふんだんにあった。彼は真面目な紳士を装って若い女性を誘い、借りておいた『賃貸野菜畑』の小屋に連れ込んで性交に及んだ。

 

   結婚当日のフレッド(21歳)とリナ(18歳)               フレッド、リナ、シャーメインとアン・マリー  (白黒写真ではシャーメインが心霊写真みたいですが)

       

      フレッドとリナ                                      アイスクリーム売りのヴァン (これは資料画像の可能性あり)

        

 

1964年、フレッドとリナの間にアン・マリーが誕生する。その頃の二人は、別れてはよりを戻してを繰り返していた。同じ頃二人は、アナ・マクフォールと知り合っている。アナは事故で恋人を亡くしたばかりだった。1965年11月、フレッドはアイスクリーム・ヴァンで4歳の男の子を轢いて死なせてしまった。フレッドの過失ではなかったものの、この事故をきっかけに彼は南西部の故郷近くに戻ることを決意。家族に加え、折りにふれて娘たちの世話をしていたイーサ・マクニールとアナを連れて、グロスターシャー州ケンプリー(Kempley)村のトレイラーハウスに引越した。間もなくフレッドは、グロスターの業者に手伝いとして雇われた。この仕事は彼に、死体解体の嗜好や知識を与えたと考えられている。

フレッドはイーサとアナにはトレイラーハウス・パークの外に出ることは許さなかった。二人はまた、タバコや食べ物と引き換えにパーク内の他の家族の子守をすることしか許されなかった。まともな仕事を探そうにも、町に出るバス代さえない。フレッドが約束していた“南西部でのもっといい暮らし”など大嘘だった。収入を補うためフレッドは、妻のリナに売春をも始めさせた。突然の癇癪による彼の暴力も相変わらずだった。

フレッドの支配とサディスティックな性的要求から逃れるため、リナとイーサは1966年にスコットランドに戻った。が、フレッドに首ったけになっていたアナは、彼のもとに留まった。リナは数ヶ月に一度、娘たちに会いに戻った。リナは娘たちを引き取りたがったが、フレッドが拒絶した。リナは警察に行き、ヘイゼル・サベージ刑事に「フレッドは暴力的な性倒錯者で子供を育てるには不適」と訴えもした。が、娘たちの世話をするアナがいたため児童福祉課に問題なしとされた。しかしフレッド・ウエストの名は、サベージ刑事の記憶の片隅に留まった。

1967年8月、フレッドの子を身ごもって妊娠8ヶ月になっていたアナが、おそらくフレッドに結婚を迫るか“結婚してくれなければスコットランドに帰る”と脅すかしたため、フレッドによって殺害された。これがフレッドの最初の殺人と考えられている。フレッドは児童福祉課員には「アナはスコットランドに戻った」と告げた。彼女の両親は彼女が南西部にいるものと信じていたため行方不明の届けは出されず、彼女の遺体がマッチ・マークル村近郊の畑でようやく発見されたのは27年後の1994年6月7日―――フレッドの告白により発見された12体のうちの最後だった。彼女の遺体はバラバラにされ、切断された手足の指は消失していた。フレッドはその後の殺人でも遺体から骨の一部を取り除いたが、それらはついに発見されることはなかった。そのためけっこうな量になるそれらの骨を彼がどうしたのかは、今もってわかっていない。

1967年9月、リナは一時フレッドの元に戻り、一家はグロスターシャー州ビショップス・クリーヴ(Bishop's Cleeve)のトレイラーハウス・パークに引越した。が、リナは子供たちをおいて翌1968年にはまた去っている。母親不在の二人の幼女は、施設と里親とフレッドの間を行ったり来たりした。

 

   アナ・マクフォール(1949-1967)                                青矢印がアナの遺体の発見現場。(赤はリナの。)

   

 

                 フレッドの継子のシャーメインと実娘のアン・マリー。                               ヘイゼル・サベージ刑事。

     

 

1968年秋、27歳のフレッドは15歳のローズと出会う。翌年の16歳の誕生日を過ぎると、ローズはすぐにフレッドと暮らし始めた。(イギリスでは16歳になると親の賛成がなくとも結婚可。) トレイラーハウスからグロスターのミッドランド通り25番地の家に引越した二人に、1970年10月17日、長女のヘザーが誕生した。

フレッドはけちな窃盗や詐欺罪のため、1970年12月4日から1971年6月24日まで投獄された。アン・マリーによると、ローズは継子を二人とも折檻したものの、シャーメインには特にひどい暴力をふるっていた。それはおそらくシャーメインが、どんなにひどく痛めつけられても泣き声を上げなかったからだろうとアン・マリーは推測する。二人の継子を含む三人の幼子の世話を単独でしなければならなかったローズは、鬱憤を募らせたに違いない。彼の釈放が迫った6月半ば頃、ローズはシャーメイン(当時8歳)を殺したと考えられている。ローズが一切口を閉ざしているため、過失か謀殺かは不明。

シャーメイン殺害後、ローズは死体を一時的に隠し、出所してきたフレッドがキッチンのコンクリートの床下に隠したものと思われる。二人は周囲には、「リナがシャーメインを引き取りに来て連れて行った」としておいた。が、8月の終わり近くに本当にリナがシャーメインを引き取るためやって来た。シャーメイン殺害隠匿のため、二人はリナも亡き者にし、アナ・マクフォールと同じくマッチ・マークル近郊の畑地に埋めた。リナの遺体からも、手足の指が取り除かれていた。

 

                       のちの殺人者夫婦、フレッドとローズ。

                    

 

ローズがシャーメインを殺したことを知ったフレッドは、ローズの中にも自分と似たような血が流れていることを知り、おそらく喜んだものと思われる。こうして二人は、生活の上のみならず殺人者としてもパートナーになったのだった。


         左からシャーメイン(1963-1971)、ヘザー(1970-1987)、アン・マリー(1964-)。このうち生き残れたのは、アン・マリーのみだった・・・

                    

 

1972年1月29日、フレッド(30歳)とローズ(18歳)は結婚。間もなく一家はクロムウェル街25番地に引越し、6月1日には二人の次女のメイが誕生した。

                  

≪ につづく ≫

 

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