本格的にエアコンを付けっぱなしにせざるを得なくなってきた、蒸し暑い7月のとある日。
帰ってきてつい昼寝をしてしまったのが悪かったのだろう。夜になっても眠れる気がしなかったため、気分転換にと寮の外にある自販機に飲み物を買うことにした。
「暑いな……」
サンダルに履き替え扉を開けたが、自身の気まぐれを後悔するほどのうだる暑さが出迎えてくれた。
だが、ここまでやって引くというのも損をした気分になるので、後退したがる足で無理やり敷居をまたいだ。
ポケットにカードキーが入っていることを確認し扉を閉める。閉じるとともに自動でロックがかかるので、鍵を中に置いて出てしまうと入れなくなってしまうのだ。
エレベーターまで向かい、下行きのボタンを押す。ちなみにオレの部屋は401号室。部屋を出てすぐ隣にエレベーターがある好立地だ。
エレベーターは14階建ての一番上で止まっているようで、降りてくるまでに時間がかかる。
「こういうタイミングで誰かと鉢合ったら気まずいだろうな」……なんてことを思っていたのが良くなかったのだろう。フロアの奥の扉が、ガチャンと音を立てて開いた。
「大丈夫だって。飲み物くらい一人で買えるから。心配しすぎだよ」
部屋から出てきた半袖の部屋着を着た男子生徒が、笑いながら誰かと話している。
この時間に部屋に友人を招く……これが高校生の普通なのだろうか。
特に見るような光景でもなかったため、エレベーターを待つ。
チャイムの音と共に扉が開くと、オレに続いて先ほどの生徒も中に入ってきた。
見知らぬ人と密室に二人きり。入学してから同じような経験は何度かしていたが、未だに慣れそうにはないな。
「一階でいい?」
扉が閉まると同時にそんな声が聞こえてくる。
視線を上げると、先ほどの生徒が1と書かれたボタンに指を置きながら、こちらを振り返っていた。
「あ、ああ。ありがとう」
突然話しかけられたからか、上手く回らない口でぎこちなく伝える。
……完全に変な奴になってしまった。余計に気まずい。
十数秒の沈黙に耐えた後、一階にたどり着いた。
開くボタンを押しながら、視線でお先にどうぞと促してくる生徒に会釈をし、逃げるように外に出る。ロビーを抜け、寮の裏手にある自販機までたどり着くと、迷うことなくペットボトルの水を購入した。
その隣にはお茶やジュースといったラインナップもあったが、残念ながらポイントがないオレは水一択だ。
右手に握られた冷たい感触に心地よさを感じながら入口まで戻る。
すると、入口の前には先ほどの男子生徒の姿があった。
「参ったなぁ……案内板とかないんだもんな」
左手を首に当てて揉みながら、何やら困ったように立ち尽くしている。
知らない人に声を掛ける行動力があるのなら、オレは今頃もっと楽しい学生生活を送れているだろう。少々気まずいが、ここは見て見ぬふりをするのが正解か。
「あっ、ごめん。ちょっといい?」
存在感を限りなく消して横を抜けようとしたが、声を掛けられてしまった。
「どうした?」
……仕方がない。声を掛ける行動力はないが、無視を決め込むほどの勇気もオレにはない。
男子生徒は申し訳なさそうに苦笑いを浮かべ、口を開いた。
「飲み物買いたくてさ。自販機ってどこにあるか分かる?」
……自販機か。いくら寮の裏手という分かりにくい場所にあるとはいえ、もう入学して3か月が経つぞ? パンフレットにも書いてあったし。
まあ、逆にその程度の困りごとで助かった。流石のオレでも、自販機の場所を教えるくらいなら余裕だ。
「自販機なら、ここを二回右に曲がった寮の裏手にあるぞ」
「裏手ね、ありがとう!」
男子生徒はあどけない笑みを浮かべてこちらに手を振ると、早足で寮の裏手まで歩いて行った。
意外と存在を知っている人の方が珍しいのか? なんて思いながらエレベーターの前に立つと、ポケットに入れたスマホが振動と共に通知を知らせた。
女子からのチャットを期待していたのだが、残念ながら端末の更新のお知らせだった。
そもそもチャットの友だちなんて、女子はおろか男子ですら片手の指しかいないのに、一体何を期待しているんだろうか。
現実を突きつけられ、ため息をつきながらエレベーターのボタンを押す。
扉が開き、中に入った状態で前を見ると、先ほどの男子生徒が寮のホールに入って来るところが見えた。
両手に一本ずつ、右腕に一本抱えるようにペットボトルを持つ男子生徒が、こちらを見るなり小走りでこちらへ向かってきた。
扉が閉まらないように開くボタンを押して待つ。
「ふう、間に合った……はいこれ」
ほっと一息ついた男子生徒は、四階のボタンを押すなり、腕に抱えたペットボトルのお茶をこちらに差し出した。
「オレに?」
「うん。さっき気づいて、慌てて走って来たんだ」
さっきのお礼ということだろうか。
いくら百数十円と言えど、決して安い金額ではないと思うんだが。……まあ、せっかく買ってもらったものを無下にする必要もないだろう。
「ありがとう」
そんな言い訳を心の中でしつつ、お礼を言ってお茶を受け取る。
久しく水以外を飲んでいないことに気がついたら、もう受け取らないという選択肢は無かった。
「うん。ジュースと迷ったんだけど、苦手な人もいるかなって思って」
何という気配りだ、感動しそうになってしまった。
本人からしたら大したことないことかもしれないが、池や山内、堀北と過ごしているとそのありがたみがよく分かる。
「Aクラスの白夢日彩です。よろしくね」
穏やかな笑みと共に、自身の名を名乗った白夢。
こうして並んでみると身長はオレより少し高いくらいだろうか。
細すぎず太すぎずといった、バランスがいいスタイルだ。身に纏う温和な雰囲気は大人っぽさがあるが、その整った顔にはどこかあどけなさが残っている。
サラサラとした透明感のある濡れ羽色の髪を下ろし、白色の電球に照らされた、肌荒れ一つない白い肌。これはモテるだろうな。平田を更に大人にしたような、王道タイプのイケメンだ。
「Dクラスの綾小路だ」
「綾小路君ね。おっけい」
名前を聞くと、白夢はポケットからスマホを取り出して何やら打ち込んだ。
「ごめんね。メモだけちょっと取らせて」
「メモ?」
今の会話にメモするようなところがあるとは思えないが、白夢は冗談を言っている様には見えなかった。
「俺、ちょっと特殊な病気でさ。一日で記憶リセットされちゃうっぽくて、昨日のことも何も覚えてないんだ」
「……本当か?」
「うん。だから自販機の場所も分からなくて。すごい助かったよ」
確かにそれなら納得がいくが、それよりも前によくそんな状態で学校に行ってるな。
「テストは大丈夫だったのか?」
記憶が無くなるということは、友人関係だけでなく、学校の勉強の内容も全て無くなるということ。赤点=即退学のこの学校において、その制約はあまりにも大きすぎる。
「大丈夫……らしいよ。覚えてないんだけどね」
「凄いな。うちのクラスの奴らにも見習ってほしいくらいだ」
当日詰め込んだのか、はたまた覚えている範囲での知識で何とかしたのか。どちらにせよ頭が良くないとできない芸当だ。
Aクラスに配属されているくらいだから、きっと元から優秀だったのだろう。
「あはは。だから、こうしてちゃんとメモしてるんだ。忘れられるのって、結構悲しいと思って」
「……そうだな」
……何とも難儀な病気だな。こんな状況においても、自分ではなく他人のことを考えらえるのは、白夢本人の気質なのだろうか。
関係性の薄いオレのこともしっかり書いてくれる辺り、几帳面な性格と優しさが伺える。
そうしている間にエレベーターが四階に到着し外に出る。
「じゃ、また今度ね」
電子キーにカードを通したオレに、白夢は小さく笑いかけた。
「ああ。同じ階だしな。また話す機会もあるだろうし」
顔写真がある訳でもないだろうし、いくらメモを取ったとはいえ、名前を聞くまで白夢はオレの存在を認識できないだろう。
コミュ力の無さに定評があるオレが話しかけるかは微妙な所だが、これも何かの縁だろう。
「そうだ。チャット交換しようよ。他クラスの友だちほとんどいないからさ」
「ああ。オレで良ければ」
差し出されたQRコードを読み取り、チャットアプリから友達登録をする。
そうして部屋に戻った俺のスマホに、『今日はありがとう!』という白夢のメッセージが届いていた。
「たまには外に出てみるものだな」
思わぬ出会いに頬が緩むのを感じながら、オレは右手に持った水を冷蔵庫にしまうのだった。
翌日。夜更かしをしてしまったからか、少しばかり重い瞼を擦り登校したオレだったが、昼休みにもなってしまえば目が覚めるもの。
むしろ、人数が増えたチャットの友達一覧を見ては閉じてを繰り返していた。
「さっきからニヤニヤとスマホを弄って、気持ち悪いのだけど」
そんなことをしていると、案の定隣人から言葉の刃が飛んできた。
「何とでも言えばいい。今のオレには効かないけどな」
「あなたと友達になってくれる人がいるだなんて、物好きも居たものね」
そんな言葉も全然刺さらない。
いつもなら多少なりとも心に傷を負っていたと思うが、あいにく友達が増えたオレは無敵状態だ。
「それもAクラスのな。もしかしたらお前より頭が良いかもしれないぞ。しかも滅茶苦茶イケメンだ」
「興味ないわね」
「えー! 誰とお友達になったの?」
調子に乗ったオレの煽りも堀北はサラッと流している。
会話を終わらせたい故の行動だったと思うが、その思惑は興味津々と言った様子で話しかけてきた、櫛田によって打ち砕かれた。
聞いて知らない人だった気まずいだろうに、その心配がないとはな。櫛田の交友関係の広さを再度認識させられる。
「Aクラスの白夢ってやつだ。結構背が高くて、黒髪の男子」
ちょくちょく続いたトーク欄を見せると、櫛田は驚いたように口元に手を置いた。
「えっ! 白夢って、白夢日彩君だよね?」
「ああ」
驚いた理由に関しては何となく想像がつくが、病気のことをあえて言いふらす必要もないだろう。
「……白夢日彩」
そこで、興味無さそうに本の世界に入り浸っていた堀北が、初めて反応を見せた。
「知り合いか?」
こいつに限ってあり得ないとは思うが、一応聞いてみる。
堀北は何かを考えるように顎に手を置いたが、すぐに本を開き直した。
「何でもないわ。きっと同姓同名の別人ね」
「へぇー。そんな人居るんだ」
「4年前、11歳にしてチェスの世界大会で優勝した天才よ。ニュースを見ていれば分かるはずだけど」
櫛田の質問に余計な一言を足して答える堀北。
「あはは……あんまり分かんないかも」
それに対して櫛田が苦笑いを浮かべる…うん。相変わらずといった光景だな。
「写真とかはないのか?」
「ええ。知名度がそれ程無いのも、顔を公開していないのが理由だったはずよ」
自分で言ってるじゃん。知名度そんなにないって。
「珍しい名前だからな、もしかしたらそうしれないぞ。年も同じくらいのはずだし」
テストを乗り切ったことからも、頭がいいのは間違いないだろうし。
「あり得ないわね」
「?」
オレの言葉を、堀北は確信を得ているように断ち切った。何故そう言い切れるのだろうか。
そんな疑問を櫛田と共に抱いていると、堀北はおもむろにスマホを取り出し、画面を操作し始めた。
堀北が見せてきたのは、数か月前に更新された、とあるネットニュースの記事。
「彼、