場面は打って変わって授業を終えたAクラス。
「ラッキーだったな。チャイム鳴ったら売店行こうぜ。朝飯食ってないんだよ俺」
「……ついでに食券も買いに行くぞ」
真嶋から静かにしていろとの指示がされていたが、教室には生徒たちが小さな声で談笑する姿が広がっていた。
入学してから既に二か月。人間というのは慣れる生き物のようで、特に優秀なAクラスの生徒は、ペナルティを与えられない範囲での声量を把握しつつあった。
和やかな雰囲気が広がる教室の、最後列の窓から二列目の席。
そこに座る坂柳は、白夢が真嶋と共に出て行った教室前列の扉を、頬杖をしながら見つめていた。
「……」
浮世離れした薄紫の瞳が、気だるげな雰囲気の瞼に遮られている。
クラスメイトのほとんどは気が付かなかったが、先ほど白夢と話していた様子とは大違いだった。
雑多な喧騒がノイズとして坂柳の耳を通り抜ける。
「ねえ」
そんな中、自身に向けられたであろう短い一言が、坂柳を現実へと引き戻した。
視線を後ろへ向けると、そこには坂柳と同じ制服に身を包んだ、髪の長い女子生徒が鋭い視線を向けている。
「真澄さん」
先ほどの虚ろとも言える表情に温和な笑みを貼り付け、話しかけてきた女子生徒、神室真澄の名前を呼ぶ。
意識が向けられたことを認識した神室は、先ほどまで白夢が座っていた席にゆっくりと腰かけた。
「今週の弁当代、まだ貰ってないんだけど」
壁に寄りかかって足を組み、端的な言葉で要件を伝える神室。
「忘れていました。今振り込みますね」
足や腕を組むというのは他者に対する拒絶を示す言動だったが、神室は誰に対しても同様の態度を取る生徒。
その不躾な言動にも文句を言うことなく、スマートフォンを操作する。
程なくして、神室のスマートフォンが振動と共に通知を知らせる。
「はい。確認した」
専用のアプリを開き、ポイント残高から送付された金額を確認する神室。
そして、何気なく開いたチャットアプリを見て、神室はおもむろに坂柳を見つめた。
「……あんた、疲れてる?」
「と、言いますと?」
今までの言葉とは裏腹に、こちらを気づかう様に目を向ける神室に、坂柳はその裏にある意図を読み解こうと思考する。
途端に張り詰める空気に顔をこわばらせる神室だったが、ため息をついて足を組み直した。
「はぁ。別に深い意味はないわよ。既読をつけられない程忙しいのかと思っただけ」
そこに表示されていたのは、チャットアプリのトーク欄。その相手は坂柳。
神室側から送信したメッセージだが、返事はおろか既読すら付いていない。
「特に返信する必要性を感じられなかったので。なにも文句はないという意味で、捉えていただいて結構です」
二人のトーク画面は、『今週の弁当、どうだった?』という神室側からのチャットで途絶えている。
既に二日以上経っているが、坂柳は悪びれる様子もなく言い放つ。
「っそ。別にいいけど。私もポイント貰って作ってるだけだから」
話はそれで終わりと当たりをつけ、再度視線を扉へ戻す坂柳。
しかし、神室はそれを良しとはしなかった。
「けど、あんたがそんな様子だと周りも不安になるの。曲がりなりにも、
ぐうの音も出ない正論に『決まった』と内心ほくそ笑む神室だったが、坂柳は予想だにしない言葉を返した。
「すみません。予想以上に美味しかったので、ついそう返事をするのが恥ずかしくなってしまったんですよ」
「っ……よくもまあ、そんな嘘をぺらぺらと言えるわね」
一瞬面を食らったような表情を見せる神室だが、それも仕方がない。その微笑みは、耐性が無いものが見れば、一瞬で心を射抜かれてもおかしくないものだった。
「本心ですよ。いつも美味しい朝食をありがとうございます。真澄さん」
感情の部分は坂柳の言葉を喜んでいたが、理性ではそんななびきやすい自分にうんざりしていた神室。坂柳が真に本心から言っている訳がないのは理解していたが、自己肯定感の低さから、そんな言葉でも嬉しく感じてしまう。
そんなちぐはぐな感情が判断力を低下させたのか、思わぬ一言が口から漏れ出てしまった。
「軽い嘘で誉めるのが上手なのは昔から? それとも入学してから上手くなったの?」
「っ……」
そこで初めて、坂柳の表情が歪む。
「……ごめん。言い過ぎた」
それを見た神室は、自身の最低な言葉を酷く後悔した。
「いえ。問題ありません」
そう語る坂柳だが、その言葉尻は細く弱いものだ。
いつもなら百倍の嫌味として帰って来るのだが、その言葉の鋭さと、現在の坂柳の心境が悪い方向に噛み合っていた。
坂柳と白夢の関係は、記憶が無くなっているとはいえ、ずっと同じ場所を足踏みしているわけではない。日記という浅いものであるが、そこには確かに足跡が残っている。
バタフライ効果のように、その些細な変化が一日に大きな影響を及ぼすのだ。
その影響は何も白夢だけに留まらない。
次に顕著に表れるのは、眠っているとき以外ほぼ全て白夢と行動を共にしている、坂柳以外にあり得ない。
二か月少しと短い時間ではあったが、それでも神室は普通の友人関係よりは濃い交流を通じて、坂柳の心理をある程度は推察できる。
「(……ままならないわね)」
坂柳がこのような反応を見せるときは、
本当なら二人の記憶に残り続けるはずの足跡が、振り返れば消えてしまっている心境など、想像さえもしたくない。
まだそのような感情に疎い神室にでさえ、そう思わせるほどのものがあった。
『俺は大丈夫だから。有栖のことを見ててあげてほしいな。あの子には、きっと支えてくれる人が必要だと思うんだ』
自身の病気など意にもかけず、今日出会ったばかりの少女のことを気にかける、生来のお人好し。
『今は出来ないかもだけど、俺の病気が治るまではお願いしてもいい……かな?』
そんな男の苦笑いを思い出しながら、神室は鞄から財布を取り出す。
現金が必要なくなった今、形だけのレシートや領収証のみが入れられた札入れ。そこから取り出した二枚組の細長い紙を、静かに机の横から差し出した。
「これは……」
「今日から使える映画館のチケット。橋本に誘われたんだけど、断って奪ってきた」
既にチャイムが鳴ったのか、いつの間にか教室から居なくなっていた、金髪の生徒を思い出す神室。
当時自身に向けられた、微笑ましいものを見るような鬱陶しい視線がフラッシュバックしながらも、そっぽを向いてまくし立てる。
「お詫びってことで。二人で見に行けば」
自身の頬に若干の熱が籠っていることを自覚しながらも、最後まで噛むことなく言い切った。
「……じゃ、そういうことだから」
坂柳の反応を待たずに振り返り、自分の席へと戻っていく神室。
「真澄さん」
しかし、そのまま逃がすような坂柳ではない。
一度大きく肩を震わせた後、神室は首だけを後ろに向けて坂柳を睨みつける。
「……何」
先ほどと違って明らかに不機嫌そうな様子だったが、相手の心情を気にしない人間なのは周知の事実。
「ありがとうございます」
素直になれない神室をからかおうという気持ちも大いにあったが、その前に伝えるべきだと思った言葉を笑顔で発した。
その笑顔は、先ほどのような貼り付けたものではなく、どこか肩の荷が下りたような柔らかいもの。
「……ちゃんと連絡は返しなさいよ」
一体いつの話を持ち出しているのか。そんな自分に頬の熱が更に高まるのを感じながらも、神室はそう言い返すことしかできなかった。
逃げるように自分の席に戻っていく神室を見て、坂柳は自身の机に置かれた二枚のチケットを手に取る。
「私も、いつまでも後ろ向きではいられませんね」
心の根に絡みついた昏い感情は拭いきれなかったが、それでも少しだけ気分が晴れたような気がした。
そのとき、教室の扉がガラリと音を立てて開く。
「月曜からお説教とはお前も中々だな。記憶はなくても性根はヤンキーか?」
「えぇ? 俺って、そういう感じの人だったの?」
付き合いの長さを通して、白夢の声は坂柳の耳に入りやすくなっているのだろう。数段酷くなった教室のざわめきの中でも、その声を聞き取ることができた。
見ると、金髪の生徒に肩を組まれた白夢が、困ったような顔を坂柳に向けている。
「ちょっと橋本、あんた何ダル絡みしてるのよ。自己紹介もせず絡んでるんじゃないでしょうね? 鬼頭も黙ってないでこの馬鹿から助けてあげなさいよ」
「……すまない」
「おいおい。俺たちの間に自己紹介なんて要らないだろ。なぁ?」
「いやぁ……あはは」
先ほど話していた神室が、橋本とその隣に立っている鬼頭と呼ばれた大柄な男子生徒に詰め寄っていく。
そして、目の前で知らぬ生徒二人が言い争いを始めた白夢の顔が、どんどんと悩ましげな顔に変わっていった。
「日彩くん」
坂柳としてはもう少し、その困った表情を楽しみたかったが、これ以上は酷だと思い助け舟を出す。
その声は確かに大きなものではなかったが、不思議とAクラスの喧騒を突き抜けていった。
「あ、有栖……」
白夢は情けない声を上げながら、肩に手を回された状態で坂柳の席まで歩いていく。
白夢とその肩に手を回す橋本、その後ろをついてきた鬼頭と仏頂面の神室。
「橋本君、あまり虐めないでください。日彩君が困ってますよ」
「何言ってるんだ姫様。俺は真嶋に説教されてた白夢を助けただけだよ。な?」
「……先生と白夢は普通に話してただけだ」
隣に立つ鬼頭に同意を求めるが、坂柳の視線を受けては嘘は付けない。
友人に速攻で売られた橋本は、「そりゃないぜー」と飄々とした態度を取りながらも、白夢の肩に回した腕を下ろした。
「悪ぃな。驚かせちまったか?」
クラスではお調子者とされている橋本だったが、坂柳の前でその態度を続ける訳にはいかないといった判断だった。
「あはは、大丈夫だよ」
先ほどまでの雰囲気は何処へやら、苦笑いを浮かべながら小さく頭を下げる姿を見れば、白夢も強くは言えない。
もっとも、怒鳴りつけたり無視したりする程怒ってもいない。むしろ、会話の機転を強引にでも作ってくれた方が助かるとさえ思っていた。
「えっと……橋本くんと、鬼頭くんと……」
「神室真澄よ」
この中で唯一、白夢の前で名前を呼ばれなかった神室が端的に答える。その表情は先ほどよりも幾分か穏やかなもの。
神室なりに圧を掛けることが無いようにと気を使った結果だった。
「やっぱり! お弁当の人だよね?」
親しいクラスメイト……坂柳派と呼ばれている生徒の一部の情報は、顔写真付きでメモに貼られている。
橋本、鬼頭、神室もそのうちの一人だった。
「……あんた。本っ当に毎回同じ反応よね」
特に神室は、週末に坂柳と白夢の朝食をまとめて作り置きをしてくれる生徒として記載されている。
そのため出会う度に配給係として認識され続けた神室は、皮肉にも食傷気味となっていた。
「別にまんざらでもないんだろ?」
「うっさい」
そんな神室の腕を肘でつつく橋本。
それを見て、思い出したかのように坂柳が声を上げる。
「朗報ですよ日彩くん。今日の放課後、一緒に映画を見に行きましょう。真澄さんからチケットを二枚頂いたので」
これ見よがしにチケットを見せびらかす坂柳。白夢との付き合いで改善されつつあるとはいえ、その性格の悪さは未だに健在だ。
「おいおい。それ俺のチケットじゃねえか。結局姫さまにあげたのかよ」
「貰った時点で私のだから、どう使おうが勝手でしょ」
「……橋本は、取られた時点で坂柳に渡すと予想してたぞ」
「っ!」
上から橋本、神室、鬼頭と会話が進んでいく。
「今どきツンデレは流行らねぇだろー……痛っ!?」
水を得た魚のように神室を煽り始めた橋本だが、その言葉は足元に走った衝撃によってかき消される。
「暴力に訴えんなよ!? 俺が学校に訴え返すぞ」
「ここはカメラの死角よ。決定的な所は残らないから」
坂柳も鬼頭もそれを止めることはしない。何故なら、それが単なるじゃれ合いだと気が付いているからだ。
「神室さん」
だが、この場を初めて見た白夢はそうはいかない。
目元に影を落としてつま先で踏みつける神室に、白夢は一言声を掛ける。
「……何?」
「ありがと。帰ったら映画の感想伝えるね」
そんな、純真無垢な瞳が笑顔と共に向けられる。
「……あっそ。勝手にすれば」
橋本、坂柳と性格の悪い友人に囲まれていた神室にとって、その真っ直ぐな感謝は何回受けても慣れないものだった。
神室の攻撃から逃れた橋本が大げさにため息をつき、白夢の机に腰掛ける。
一人記憶がないとは思えない和やかな雰囲気が、その場には漂っていた。
「その感想俺にも送ってくれよ。トーク履歴は後から見返せるから、意外と面白いかもしれないぞ?」
「あ、確かに」
白夢が毎日保存しているメモが記録だとしたら、チャットのトーク履歴は友人との記憶がそのまま残っていることになる。
そんな、橋本による別角度からの視点に感心する白夢だった。
「何か見る映画とかは決まってるのか? 結構色々おすすめできるけど」
橋本の問いかけに、坂柳は微笑んで首を小さく横に振る。
「その必要には及びません。見る映画は、既に決まっておりますので……ね?」
そんな言葉と共に、正面に座る白夢に視線を送る。
「うん。そうだね」
朝の約束が口約束では無かったと認識した白夢は、照れくさそうな笑顔で答えるのであった。
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そして幾ばくかの時が過ぎ、全ての授業を終えた放課後。
特に進んで会話をする友人も居ないため、神室は鞄を手に取って即座に教室の扉をくぐった。
「真澄ちゃん」
そんな神室の背に声をかけたのは、白夢でも、はたまた坂柳でもなかった。
「……何の用?」
わざわざ自分に話しかける生徒など限られている。その上で、神室はその声を聞いてうんざりした様子で振り返る。
そこには、鞄を手に持ったまま廊下の壁に背中を預ける橋本の姿があった。
「そう邪険にすんなって」
「当たり前でしょ。あんたと二人で話してると、こっちに変な噂が回ってくるんだから」
部活に所属し、クラス内外を問わず交友関係の広い橋本と、個人的な話をする生徒がほとんどいない神室。
いくら坂柳を中心としたつながりがあるとはいえ、異色の組み合わせであるのは間違いない。
「俺だって姫様に下手に勘繰られるのは勘弁だ。だが今日は大事な日だろ?」
「大事な日……?」
橋本の言葉を濁した問いかけに疑問符を浮かべる神室。
そんな神室に、橋本は額に手を当ててため息をついた。
「おいおい。忘れるなんてひどい奴だな。クラスメイトだろ?」
それでもピンと来ていない様子の神室に、橋本は一歩近づいて小さく呟いた。
「明日は
そんな橋本の声は、下校する生徒たちの声にかき消されるのであった。