『6月23日(79日目)
目が覚めて何も思い出せなかったときは驚いたが、過去の自分が記してくれたメモを元に、何とか学校に行くことができた。今は朝のホームルームの10分前。既に教室の席はほとんど埋まっている。朝から衝撃的な出来事ばかりで少し疲れたが、悪い気はしないかな。
さて、導入はこんな感じでいいだろうか。ということで、今日の俺も明日の為に日記を書き記そうと思う。
月曜一時間目の授業は英語。担任の真嶋先生が担当する教科だ。
授業中ということもあり、スマホの使用は当然禁止。教室の角に取り付けられたカメラが常に生徒の行動を監視しているらしい。恐ろしい学校だよ。
だが、特例として俺が授業中にメモを取る目的での使用は許可されているそうだ。記憶を翌日以降に持ち越せない以上、変に勉強するよりも記録を残して病状を完全させる方が合理的と考えたのだろう。
紙でメモを取れなんていう、古い考えの学校ではないことに感謝したい。
ということで、真嶋先生の話をラジオにしながら、今の俺が思うことを整理しようと思う。まずはこれを見ている俺が気になっているであろう、有栖について。
有栖との関係性については、78日目までの記録をある程度読み返したが、はっきりとした答えは記されていなかった。期待に沿えず申し訳ない。
ただ、きっと俺にとって大切な人であることは間違いないはずだ。
有栖本人からも小学生からの付き合いと聞いているし、メモのほぼ全てに同様の内容が記されていた。まあ、有栖が全部の俺に対して嘘を言っている可能性も、0とは言えないけどね。だが、個人的にはその可能性は無いと思っている。これに関しては感覚の話だが、未来の俺たちも納得できると思うよ。
……もし、まだ分からないのであれば、抱かせてほしいと頼んでみてはどうだろうか。それか、匂いを嗅がせてもらうとか────』
「っ……」
無心で書き連ねていったら、気づいたら凄く気持ち悪い文章を書いてしまっていた。流石にこれを見て実行するような人間じゃないと、自分を信じたいが、そう言う問題じゃない。
……流石に直しておこう。うん。
『万が一有栖が抱き着いてきたり、匂いを嗅がせたりして来ても、驚かないで受け入れてあげて欲しい。一応言っておくけど、断じて変な意味ではないからね。
記憶と嗅覚は強く結びついているみたいで、それが刺激になるかもしれないって試しただけだから。実際、どこか懐かしさを感じる香りだったし。特に何かを思い出したってわけじゃないんだけど』
こう書いておけば変な勘違いはされないだろう。それにしても……また後で、か。
先ほど言われた言葉を思い出したとき、自然と視線が隣に座る有栖の方へと向いている事に気が付いた。
「……」
授業に集中しているためか、こちらの視線にづくことなく無言でペンを走らせている。先ほどの穏やかな表情とはまた違った、幼いながらに凛々しさがある顔立ちだ。……改めてみると、もの凄い美人だな。
慌ただしい会話もなく、ある程度現状を認識して落ち着くと、今朝のことが途端に恥ずかしくなってくる。
手を掴まれたり、鼻先がくっつきそうな距離で見合ったり、何なら抱き着いたり抱きつかれたりもした。少なくとも、恋仲でない男女が易々とやっていい行為ではない。……とは思うんだけど。
「?」
視線を感じたのか、有栖がちらりとこちらを向いて首をかしげた。
『どうかしましたか?』と聞かれたような気がしたため、『何でもない』という意を込めて、目をつむって首を横に振る。
それを見て小さく微笑んだ後、有栖は再びノートへ視線を落とした。
……これほど美人で頭も良い女の子が、俺と恋仲だというのは、余りにも希望的観測が過ぎるのではないかと、そう思ってしまう。
チェスでも勉強でも負けていてるし、人好きのする性格じゃないのはこの短い時間で分かった。
まあ、程度は種類はともかく、好意的な感情に気が付かない程、鈍感になったつもりはない。だけど、個人的にはその方が問題だとも思ってしまう。
だってそうだろう?
それは命を救う様な大きな出来事かもしれないし、小さな積み重ねなのかもしれない。そんなのはどっちだって良いんだ。
知らない自分が積み上げてきたものを、今の俺が我が物顔で消費している。その事実に変わりはない。
「っ……」
口の中からギリギリと鳴る音を聞いて初めて、自分が歯を食いしばっている事に気が付いた。
……考えれば考えるだけ思考が悪い方へと向かっていく。
だが、それをかき消すには余りにも、授業中の教室は静かすぎた。
そんなとき、視界の端に何やら動くものが映り込んだ。目を向けると、有栖がこちらの机に手を伸ばしているのが見えた。
小さな手が机の角に重なり離れる。その下には、小さなふせんが貼られていた。
『既に理解している内容を学ぶのは、退屈なものですね』
そんな有栖の本音が、丁寧な文字で書き記されていた。
天井に付けられている監視カメラに目を向け、大丈夫なのかと暗に問いかける。
すると返答が来る前に、教壇に立つ真嶋先生の声が教室に響いた。
「よし。では今から3分間問題を解く時間を与える。周りと相談しても構わないが、俺から指名して答えてもらうからしっかり解くように」
その言葉を皮切りに、恐ろしく静かだった教室がざわめきを取り戻す。優秀な生徒といえど高校生。大義名分を与えられれば話したくもなるだろう。
有栖は一度前を向いた後、こちらにそっと身を寄せてきた。
「ふふっ、あの程度なら問題ありませんよ。そこまで堅苦しい学校ではありませんので」
音を立てずにそっと椅子を動かし、体をよせてくる。人が一人通れるほどの隙間から、当たり前のように拳一つ分の距離へと縮まってしまった。
抱き着かれた際に覚えてしまった匂いが、先ほどより淡く鼻をくすぐってくる。距離感が近いのはもう慣れたと思ってたけど……1日じゃ無理そうだな。
「そっか。なら良かった」
平静を装っているが、内心心臓はバクバクである。
でもね、これで意識するなという方が酷だと思うよ俺は。
「有栖ってさ」
先ほどとは違っていい意味で無言が苦しい。
……おかしいな。起きてチェスをやったときは何ともなかったのに。
「結構かわいいもの好きだったりする?」
己の気持ちを誤魔化すように、付箋を手に取り、書かれた文字と絵柄を見せて微笑んだ。
「……どういう意味ですか?」
「ふふっ」
案の定恥ずかしそうに、そっぽを向いてそう答える有栖。
あまりにも予想内の反応すぎて、思わず吹き出してしまった。
「何ですか。私がそれを使っているのがそんなにおかしいんですか?」
口元に手を置いて小さく笑う俺に、有栖はまくし立てながら睨んでくる。
手を持って至近距離で囁いたり、抱き着いて匂いを嗅がせたりするのは恥ずかしくないのに、こういうのは恥ずかしいんだ。
「いや、そうじゃないよ。嬉しいんだ」
「……嬉しい?」
そんな脈絡のない言葉に、勢いを失う有栖。
……さて、どう伝えるべきかな。この感覚はきっと、俺にしか分からないものだろうし。
「うん。有栖のことを新しく知れて、嬉しいなって」
ちょっとだけ悩んだ結果、正直に伝えることにした。
思わず緩んでしまう頬を見せることに、恥ずかしさが無いかと言えば嘘になる。でも、きっとこういう気持ちは素直に伝えた方が良いと思うから。
「っ、あなたは……」
恥ずかしがる必要はない。だって全部忘れるんだから。……でも、そう考えると惜しいとも思ってしまう。きっとこの思い出も、小さな喜びも、明日には泡沫の夢のように儚く消えてしまう。
「……昔から、変わらない人ですね」
過去の78日分の俺のメモには、有栖の情報や彼女が俺にしてくれたことが、事細かに記載されていた。
だが共通して、『当時の俺が有栖にどういう感情を向けていたのか』という点については、一切書かれていなかった。それを見れば、有栖のことをもっと簡単に受け入れられるはずなのに。
だけど、今なら当時の俺の気持ちが、少しだけ分かるかもしれない。
「そう?」
いざ想いを言葉に記して振り返るというのは、きっと恥ずかしいんだ。自分とはいえ、見られることは確定しているわけだし。
78日分全て、どのメモにも書かれていなかったのは、
「ふふっ。ええ。……相も変わらず、ばかみたいに正直な人ですよ」
正直に言っちゃう作戦は無事成功したようで。有栖はこの3時間の中で一番綺麗な笑顔を見せてくれた。
そうだよ。きっと俺は、有栖のことを、ずっと前から……
「さて、じゃあ当てていくぞ」
そんな、思考の水底から俺を引っ張り上げたのは、真嶋先生が手を叩いた音だった。
「これを答えたら今日は終わりだから、最後まで集中するように」
そう言うと、先生は教卓に手を乗せて寄りかかりながら、こちらを見つめててくる。……あれ?
「白夢。問1から3までの答えを黒板に書きなさい」
有栖と喋ってたのバレてたかぁ……。
「よし。これで今日の授業は終わりだ。隣の迷惑になるから号令はいらない。だがチャイムが鳴るまで教室を出ないように」
真嶋先生はそう言って椅子に掛けたスーツに袖を通し、教科書をパタンと閉じた。
授業終了時刻の5分程前だが、俺が無事問題を解くことが出来たため早めに終わることができた。間違ってたらクラス中から総スカンを食らうことは間違いなしだし、危機一髪と言ったところか。
「災難でしたね」
「ホントに思ってる?」
ニコニコと笑いながら言われても、説得力なんて感じられない。
「評価下がってないかな……それだけ不安かも」
「気にしすぎですよ。あの程度じゃ減点のしようがありませんし、これからあなたがクラスにもたらすプラスを考えれば、仮に引かれたとしても些細なものです」
期待しすぎじゃない? 有栖がいないと通学路さえ分からないのに。
「というより、真嶋先生は授業中一回は必ずあなたを指名しているので、分かってすらいないと思いますよ」
「……なるほどね。ちょっと待っててね」
その言葉を聞いて一つ納得したことがあったので、一言断りを入れて席を立つ。
そのまま机の間を抜けて向かった先は、職員室に帰る準備をしていた真嶋先生の元。
「先生」
「ん? 白夢か。どうした、何か質問でもあるのか」
教えた内容を全部忘れるような生徒であっても、しっかりと向き合ってくれる辺り良い先生なんだろう。
……でもごめんね先生。授業の内容全く聞いてなかったんだ。次はちゃんと聞くからさ……多分。
「いえ。少しお礼を伝えたくて」
心の中で謝罪と懺悔をしつつ、それを表に出さずに隠す。
バレてないなら言わないに越したことはないからね。これでペナルティ貰ったら馬鹿馬鹿しいし。
「……お礼? どういうことだ」
自分で言うのもなんだけど、俺は多分人が思ってることを表情や仕草から読み取るのが得意だ。記憶を失って人に頼らざるを得ない状況になって磨かれたのか、前から得意なのかは分からないけど、そんな気がする。
「僕が
真嶋先生は、
担任である真嶋先生が俺の学力を知らないはずがないし、当てたときの反応からも伺えた。だから不思議だったのだ。何故学力を磨く必要の無い、そもそもすべて忘れてしまう俺をわざわざ指名したのかが。
そして、有栖の言葉でその理由を確信した。
特例で授業中でも自由にスマホを触ることを許可され、授業の内容を聞かなくても良い生徒。そんな俺が、成績で足を引っ張ったら悪く思われるのは当たり前。
過去問があるテストで良い点を取ったとしても、学力の証明にはなり得ない。
そこで、真嶋先生は対外的なアピールとして、問題を完璧に答える俺の姿をクラスメイトに印象付けたかった。
そう考えれば、一見奇怪な先生の行動にも納得がいく。単に俺のことが嫌いとかもあり得るけど、そんな様子も見えなかったし。
「……坂柳か」
「はい」
そう言うと、真嶋先生は参ったようにため息をついて、小さく笑ってこちらを見つめてきた。
「余計なことを言うなら『例の件については俺が却下するぞ』と伝えておいてくれ」
「例の件?」
「……いや。意地の悪い冗談だ。忘れてくれ」
そう言うと、真嶋先生は荷物を持って歩き出した。
「少し話そう。時間はあるか?」
「はい! 荷物、持ちましょうか?」
殆ど確信に至っていたが、実際に気を使ってもらえたことへの喜びから、思っていた以上に元気な返事が出てしまった。
「いいや大丈夫だ。すぐ終わる話だからな」
そんな俺に微笑ましそうな視線を向けた後、真嶋先生は一瞬鋭い視線を教室に向ける。
「……ついて来い」
そんな、どこか警戒するような様子で扉を開け、教室を後にする真嶋先生。
「えっと……」
「済まない。こうしていつか話したいと思っていたが、タイミングが見つからなくてね」
ただお礼を伝えに来ただけなのだが、真嶋先生はどこか神妙な面持ちで語った。
想定外のシリアスな雰囲気に、思わず警戒心が高まるのを感じる。
「肩の力を抜いてくれ。少なくとも、
そんな俺の様子を目ざとく察したのか、安心させるように語る真嶋先生。
だが、そんな語り口から始める時点でロクな話でないことは間違いない。
「……では、一体誰の話ですか?」
「坂柳……正確には、
「親子?」
有栖の名前が出てくるところまでは予想が付いていたが、この学校の理事長をしている彼女のお父さんの名前まで出てくるとは思わなかった。
「ああ。彼女たちは、
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──高度育成高校データベース 7/1日時点──
氏名:白夢 日彩(しらゆめ ひいろ)
クラス:1年A組
部活動:無所属
誕生日:7月7日
身長:178㎝
体重:61㎏
【評価】
学力:A
知性:A
判断力:E-
身体能力:A
協調性:C+
【面接官からのコメント】
学力、身体能力共に非常に優秀、面接での受け答えからも、豊かな教養と知性を読み取ることができた。坂柳有栖とは小学校からの仲のようで、常日頃から坂柳が生活する上でのサポートを行っており、互いに信頼し合う仲とのこと。人前に出ることを好む性格ではないが、教師、クラスメイトからの評判も良好。
総合的に見て、Aクラスへの配属で間違いないだろう。クラスメイトとの交流を通して、リーダーシップや積極性を身に着けることを期待する。
【担任メモ】
坂柳を筆頭としたクラスメイト、教師によるサポートによって、メンタルの改善傾向にあります。本人も他者と積極的に関わろうと努力しています。病状の回復にも努める所存です。
また、担当医によるレポートを以下、別途資料1に記載しています。