朝食を終え、寝巻から制服へと着替えた白夢は、坂柳に案内される形で通学路を歩いていた。
高度育成高等学校へ通う学生は、全員が学校から徒歩数分の場所にある寮に住んでいる。ホームルームが行われる8時30分に対して、現在の時刻は7時30分。勤勉な生徒とはいえ、一時間前に登校する生徒はほとんどいない。
そのため全校生徒が利用する道であったが、他の生徒の姿は見えなかった。
「前向性健忘症……ねぇ」
そんな白夢が呟いたのは、自身が患っている病気の名前だった。
「はい。世界でも数百程度しか例がない、極めて珍しい病気です」
白夢の右隣を歩きながら語る坂柳。右手に持った杖が、石畳を打ち付ける子気味良い音と共に、朝の通学路に響く。
そこで白夢は、自身のスマートフォンに記されたメモを見る。
前向性健忘症────脳の海馬を含む側頭葉の高次機能障害に起因する、一日ごとに記憶がリセットされる病気。言葉の意味や知識、日常生活での動作に支障をきたすことはないが、思い出や人に関する記憶を引き継ぐことができなくなる。
「思い出や記憶だけ……か。あんまり実感湧かないなぁ」
「記憶には『陳述記憶』と『非陳述記憶』と2つに分類することができます。前者はその意味を言葉に表して説明できるもの。後者はそれができないものです」
困ったように呟いた白夢に対し、坂柳は慣れた様子で説明をした。
考え込むように顎に手を当てる白夢に対し、坂柳が言葉を続けることは無い。
「……なるほどね。前向性健忘症は、陳述記憶が持ち越せなくなる病気ってことで合ってる?」
一見説明不足にも思えた言葉だったが、その断片的な情報でも白夢は納得したように呟いた。
「ええ。言葉の発し方、靴の履き方、スマートフォンの操作などは、人が無意識のうちにやっていること、すなわち非陳述記憶に該当します。そこが無事なので、こうして私と話すことができるんですよ」
時折二人の腕が当たる程の近距離で、坂柳が白夢を見つめる。
身長差から自然と下から見上げる形で微笑みを向けられた白夢。若干の動揺を示しながらも、あることに気が付いたようだ。
「あれ、じゃあ何で俺チェスのルール知ってたんだろう」
朝、入って来るなり部屋の隅に置いてあったチェス盤に駒を並べた坂柳に、勝負を挑まれたことを思い返す白夢。
彼女が言うことが正しいならば、ルールが複雑なチェスをできたことに矛盾が生じる。
「それは、あなたが幼少期からチェスを嗜んでいたからですよ。ルールを言葉にするのは難しくても、盤上の駒の動かし方が体に染みついているのでしょう」
老齢でアルツハイマーを患ったミュージシャンが、楽器を前にして流暢に演奏しだすのと同じこと。だから白夢は、何の違和感もなくチェスの対戦ができたのだ。
白夢は坂柳の言葉に、感心したように声を上げる。
「記憶って不思議だね。今の俺からしたら初めての対局だったのに」
「ふふっ。日彩くんは、チェスがお強いことで少しだけ有名でしたから」
そんな白夢が滑稽に映ったのか、坂柳は微笑ましそうに口元に手をやって上品に笑った。
「……まあ、ついさっきあなたに負けてるんだけどね」
それを見た白夢は先ほどの苦い敗北と、彼女から向けられた意地悪な笑みを思い出したようだ。
坂柳からすると、その口から出たのは紛れもない賞賛だったが、それを正直に伝える程殊勝な性格はしていない。
「既にあなたの戦い方は対策済みですので。
「ずるいなぁ」
彼女のチェスの腕を知る者が聞けば、驚愕に値する台詞だったが、白夢がその理由を知る由もない。
そして、その言葉を最後に辺りには静寂が訪れる。閑散とした通学路には、キジバトの鳴く声が響くばかり。
坂柳、白夢共に積極的に会話を広げるタイプではないため仕方がないのだが、白夢からすれば些か気まずさを感じても無理はない状況だ。
しかし、白夢はこの状況に焦燥を抱くことも、ストレスを感じることも無い。
「……坂柳さんは」
むしろ、無意識に隣を歩く小さな少女に合わせられた自身の歩幅が、白夢に坂柳との付き合いの長さを自覚させていた。
どこか悩むように視線を動かした挙句、絞り出すように出された白夢の言葉。
「
そんな彼の言葉を無慈悲にも断ち切ったのは、たった三音の短い言葉だった。
「え?」
瞬間、少し早く足を前に運んだ坂柳が、白夢よりも前を歩く。
「有栖と呼んでください。あなたが記憶を無くす前は、こう呼んでいたので」
そう聞こえる背中から、彼女の表情を伺うことはできなかった。
陽の光を薄紫色に反射させる、艶のある横髪に隠されていたからだ。
「俺と有栖は」
肯定も否定もすることなく、だが当たり前のように言葉を続ける白夢。
だが、白夢は坂柳の声色から、その言葉の裏に隠されていた坂柳の感情を、淡く感じ取っていた。
「俺が記憶を無くす前は、どういう関係だったの?」
刹那、二歩ほど歩幅を広げ、坂柳の隣にぴったりと並ぶ。
二人の距離は先ほどと同じか、はたまたそれ以上に近くなった。
「……どういう関係、というと?」
突然近くなる気配に動揺したのか、はたまた言葉の意味を思案していたのか。それは坂柳本人にしかわからない。
だが、確かに返答までに若干の間があったのは事実だった。
「いや、その……」
続けるべき言葉は浮かんでいるのだが、いざ口に出そうとなると憚られるのか。
感情の読めない瞳を向けてくる坂柳から、逃げるようにそっぽを向く白夢。
「私と日彩くんが親しい、それも恋仲だった……だなんて、思っていたりしますか? 私と、あなたが」
そんな失言を後悔した白夢を、逃がすつもりはないようだ。
足を止め、杖を持っていない手で白夢の右袖を掴む。
「そ、そうだよね。そんなわけ無いよね……」
「聞くくらいいいじゃん」と文句を垂れようとする白夢だったが、自身の軽率な言葉で坂柳の機嫌を悪くさせたと反省した。
文字通り右も左も分からない彼にとって、こちらを見つめる少女は文字通り命綱。
仮に親しい仲であったとしても、そうでなかったとしても。朝から労力をかけて、自身の面倒を見てくれているという事実に変わりはないのだから。
「失礼しまし────」
「────
白夢の謝罪の言葉を遮ったのは、杖を放り投げた右手で白夢のネクタイを掴む、坂柳だった。
「えっ?」
左手で袖を、右手でネクタイを引き、互いの体がくっつくほどの距離で見上げる坂柳。
初めて会った時からほのかに感じていた香水の匂いが、白夢の鼻腔を甘く刺激する。どこか懐かしさを覚える香りだった。
「どう、思いますか?」
人に見られたらあらぬ噂が立ちそうな体制で、再度問いかけてくる坂柳。
そんな坂柳に度肝を抜かれながらも、白夢は眉尻を下げて、小さく呟いた。
「それは……何というか、申し訳ないなって」
驚愕、混乱、焦燥。
それらの感情で心臓が動機するのを感じながらも、白夢ははっきりと坂柳の目を見て言葉を繋いだ。
「何故?」
「な、なぜ?」
「安堵や喜びよりも、どうして申し訳ないという感情が先行するのですか?」
依然、坂柳はその表情を緩めることはしない。
誤魔化すことは許さないという強い意志が籠った瞳が、徐々に白夢の黒い瞳へと近づいていく。
それを受けた白夢は、一度瞑目して呼吸を整えた後、ゆっくりと目を開いて言葉を繋いだ。
「……スマホのメモには、俺が記憶を無くしてから78日分のメモが書かれていた。つまり、今日の俺は79回目の俺ってことだ。ざっと全部のメモを見返したけど、その全てに有栖の名前が載っていた」
一度も目を逸らすことなく、先ほどよりも角が残った口調で続ける。
「君は俺が記憶を無くしてから、毎日こうやって俺の面倒を見てくれてるんだろう? ……俺にはその記憶も、君がそうしてくれる理由すらも分からないんだ」
「っ……」
「仮に恋人だったとしても、そうじゃないにせよ。俺は二人の思い出を全部忘れてしまった。……それは、あまりにも酷すぎるよ」
自身のネクタイを引く坂柳の手にそっと添え、もう片方の手で杖が無くなって不安定に震える坂柳の体を支える。
体の大きい異性に体を触れられたにも関わらず、坂柳は嫌悪感を示すことも、体を大きく反応させることすらしなかった。
「だから、申し訳ないなって」
「……そう、ですか」
言いたいことを全て出し切ったのち、白夢はしゃがんで地面に倒れた杖を手に取った。
「……っていうことで、ほら。あんまり危ないことしないでよ。転んだりしたら大変だし」
感情を荒げたことを自覚して途端に恥ずかしくなったのか、杖を持った白夢はどこか気まずそうにしていた。
「ありがとうございます」
そんな白夢を見て機嫌を戻したのか、坂柳は先ほどと同じ温和な笑みを浮かべている。
「でも、大丈夫ですよ……私には、守ってくれる殿方がいるので」
「? ……どういう」
意味深な言葉と共にネクタイを持った手をそのままに、もう片方を差し出された手に添える。穏やかな笑みは、未だにその眉目秀麗な顔面に張り付いている。
地雷を避けることに成功したと息つく白夢だったが、彼は坂柳が浮かべる笑みの
「こういうことです……っ!」
────瞬間、坂柳は添えられた手を突き離すように全力で押し出した。
対格差、筋力差から白夢は一歩のけぞる程度だったが、坂柳は足元がおぼつかないこともあり、背中から勢いよく地面へと倒れていく。
思ったより勢いがついたのか、このまま倒れれば固い石畳に頭を打ち付けることは必至。
反射的に目を瞑ってしまう坂柳。だが次に感じたのは全身を包むような、柔らかく暖かい感触だった。
「っ、馬鹿!」
目を開くと、冷や汗をかき、顔をこわばらせた白夢の顔が目と鼻の先にあった。
倒れかけた坂柳の後頭部と腰に手を回し、抱きしめるようにして体を支える白夢。
先ほどは比べ物にならない程密着しており、なおかつ生地の薄い夏服を着用しているためか、互いの体の感触が伝わってくる。
「気でも狂ったのか!?」
だが、白夢にはそれを堪能する余裕などある訳もない。
思わず大きな声で怒鳴りつける形となったが、それを受けた坂柳は何を思ったのか、白夢の脇の下から背中に腕を回した。
「これが、答えですよ。日彩くん」
回した腕に力を籠め、白夢の耳元で吐息交じりの声で囁く。
「は?」
「私は、あなたが守ってくれると、そう信じていたので」
「だからって……!」
再度声を荒げそうになる白夢だったが、ここが道のど真ん中であることを思い出したためか、複雑そうな表情で体を起こした。
「ほら、もういいよ。次助けられるか分かんないから」
口調が雑になっているのは、単に気を遣う必要が無いと判断したためか。呆れたように語りながら、両手を離す白夢。
しかし、坂柳はその場から離れようとはしなかった。
「……有栖?」
坂柳は胸板に顔を埋めたと思えば、上を向いて小さく笑っている。
激しく動いたためか乱れた髪と制服で、息を絶やしながら口を開いた。
「また、大きくなりましたね? ……こうして激しく抱かれたのは、一体いつ振りでしょうか」
それは、つい先日高校生になったばかりとは思えない、蠱惑的な様相を呈している。
「っ……」
思わず言葉を詰まらせる白夢を差し置き、坂柳はその右腕に抱き着くように体を寄せた。
「杖、取って頂けますか?」
「……うん」
最早何も言うまいと、黙って杖を差し出す白夢。
ただでさえ容量の少ない彼の脳に入って来るには、あまりにも情報量が多すぎたのだ。
「ありがとうございます」
杖を持ち、白夢の腕から体を離す坂柳。
呆然と立ち尽くす白夢を置いてそのままスタスタと歩き出す。
「ちょ」
再度横に並ぼうと足を運ぶ白夢だったが、その度に若干歩幅を広くとる坂柳。
「ふふっ」
先ほどと同じく顔を見られたくない故の行動だったが、その理由は全くもって違うものだった。
「……あの、抱かれたっていうのは……」
仕方なくその背中に向けて出た白夢の声は、先ほど大立ち回りをしたとは思えない程情けないもの。
「あら? 日彩くんは一体何を想像しているのでしょうか?」
数拍置いて足を止め、上機嫌にくるっと後ろを振り返る坂柳。
「いや……その」
思わぬカウンターに、白夢は目線を左右に泳がせながらたじろいでいる。
そんな彼に坂柳は、間違いなく捕食者の眼差しを向けていた。
「ふーん」
三歩、二歩……と、二人の距離が杖のつく音と共に縮んでいく。
先ほどよりも妙に耳に残る音に、再び心臓の鼓動が高鳴るのを感じる白夢。
そして、坂柳はいつの間にか、手を伸ばせば抱き寄せれる範囲まで足を進めていた。
「あ、有栖さん……?」
白夢は白旗を上げるように両手を挙げ、降参の意を表明する。
そんな彼の首の後ろに手を回した坂柳は、再度耳を近づけて小さく囁いた。
「変態っ」
そう一言だけを残し、そそくさと去っていく坂柳。
処理落ちした白夢の脳は、その後ろをついて行くという命令を出すのにしばらく時間がかかった。
「……結局どっちなの?」
そんな小さな叫びに、答えてくれる人は誰一人としていなかった。