────私が彼を看取るのは、今日で78回目だ。
「今日は楽しかったよ。ありがとう」
もちろん、肉体的な死を遂げているわけでもなく、はたまた安っぽいおとぎ話のように、輪廻転生を繰り返しているわけでもない。
ですが、今目の前でベッドで上体を起こし、こちらを眠たげな目で見つめる彼の灯は、間違いなく数時間もありませんでした。
「今日のあなたは運が良いですね。何せ、この私と共に休日を過ごせたのですから」
時刻は陽が沈んでしばらく経った亥の刻。翌日に学校を控えた生徒たちは、その大半が眠りについている時刻。
男女が逢瀬するにはいささか不健全な時間帯ですが、私は誰に咎められようと、この場から離れるつもりはありませんでした。
「明日のあなたは大変ですよ」
こうして、彼の意識が消えていく瞬間に立ち会うのも、ここ数か月ですっかり習慣となってしまいました。
私は優秀な人間なので、ここで不必要に表情を歪めたりはしません。
それをすると、彼も不安になってしまうので。
「ははっ、そりゃありがたい。……じゃあ、今日のお礼は、また明日に伝えることにするよ」
彼は私の強がりに、笑えない冗談と共に微笑みを浮かべます。
今まで幾度となく似たようなやり取りを行ってきましたが、未だに上手な返し方が見つかりません。
「っ……そう、ですね」
結局、私は言葉を詰まらせながら肯定することしかできませんでした。
明日など来るはずもないのに。ここで眠ってしまえば、極寒の雪山で横たわる遭難者の如く、夢現の狭間で消えてしまうのに。
どうして、どうしてそんなに満足そうな、穏やかな顔を浮かべられるのでしょうか。
「今日見た映画、デカデカと宣伝されてた割に、酷い出来だったと思わない?」
そんな私を尻目に、彼はぼうっと上を向いて小さく笑う。
話題は、今日の夕方に2人で見た映画へと。
「……ええ。私もあの、逆張りして王道から外れた挙句、収集を最後まで付けなかったストーリーは酷いと思いました」
「でしょ? その上主人公の演技も酷いと来た。あれ、本当に俳優さん?」
「いえ。確か有名アイドルグループのメンバーだったと思います」
クラスの方との話題合わせで聞きかじった知識を語ると、彼は艶のある濡れ羽色の毛髪を揺らし、愉快そうに言葉を紡ぐ。
「ははっ。そりゃ酷い演技なのも納得だ」
「すみません、そんな映画を見せてしまって」という言葉が口から出かかる。
それを止めたのは、掛け布団の上に置かれた手に感じた、ほのかな暖かさでした。
「けど、俺からすれば人生で初めて見た映画だったからね。あれでも案外楽しめたよ」
左手を私の手の甲に乗せ、行き場のないもう片方の手で髪を弄りながら、こちらを見つめてきました。
一切淀みのない美しい黒の瞳が、室内を程よく照らす常夜灯を介して私の目と交わります。
「……また、二人で映画でも見に行きましょう。そういえば、来週タイタニックが再上映されると少し話題になっていましたね」
こうして、昔の話をすれば、またあの頃のように戻ってくれるのではないか。
淡い希望を捨てきれぬ私の口から、そんな提案が出てきます。
「あっ、聞いたことあるかも」
しかし、その名に聞き覚えがあれど、それに付随する記憶がよみがえることはありません。
「ええ。私たちが初めて二人で見た映画です。当時は小学校に入る前でしたか」
記憶が全て無くなれば、それは以前の人とは別人。前の人格は死んだも同然。だなんて、冷たいことはいくらでも言えます。
そう思えたのなら、私はどれだけ楽になれるのでしょうか。
「そっか。じゃあ、もう一個約束」
そんな仮の話を考える間もなく、彼は両手で私の指をそっと開かせました。
「指切りげんまん、嘘ついたら……ええっと……」
何をするのかと思えば、今時小学生でもやらないような、小指と小指を絡めた指切り。
人の脳というのは本当にチグハグなもので、私や家族との思い出も消えてしまっているのに、これが意味する内容は覚えているらしい。
「嘘ついたら? 針千本、飲みますよね?」
「いやぁ……」
ここに来て怖気づいているのは、今日一日で私のことを目の当たりにしたからか、はたまた別の理由か。
どちらにせよ。これを見てしまえば、本気で約束などする気など無いことが分かってしまう。
「飲みますよね? ……はい。指、切りましたから」
その態度が妙に癪に障ったので、無理やり手を引っ張って指切りをする。
「本気で飲ませてきそうだからなぁ……」
そんな私を見て、彼は苦笑いを浮かべて小さく呟いた。
「自分で言うのも何ですが、私、あなたと違って頭の出来はいいんです。……死ぬまでこの約束、忘れませんから」
「重いって」
自身の軽率な行いに後悔しながら、彼はかけ布団の中に身を沈め、眠りの体制を整え始めた。
「もう、いいのですか?」
今度は私から重ねるように手を握り、小さく自身の方へと引っ張った。
「うん。夜更かししたら明日に響くからね」
「ですが……」
分かっています。分かってはいるんです。
ですが、今日があってこそ人は明日のことを考えられるのです。その逆もしかり、明日があるからこそ過去の自分を思い返すことができます。
その繋がりこそが、人に学びと楽しさをもたらしてくれるのに。
「大丈夫だよ。……何も、怖くないから」
それが断ち切られるのが分かっているのに、気丈に振る舞える理由が、付き合いの長い私をもってしても分かりませんでした。
「……分かりました」
彼本人に言われてしまっては、私もこれ以上言うことはできません。
「では、傍で見守っててあげます。そうすれば、幾分か安心して眠れるでしょう?」
「……ありがとう」
恥ずかしそうに小さく笑った後、彼は目を閉じました。それを見て、リモコンのスイッチを天井に向けて押します。
「おやすみ。有栖」
互いの顔が見えなくなるまで暗くなってしまった部屋。
どんな表情をしているのか、こちらから伺うことはできません。
「……ええ」
ですが先ほどよりも強い力で、そして微かに震えが伝わってくるのを握った手を介して感じれば、その内心を推し量ることは容易です。
「大丈夫です。私は、ちゃんとここにいますよ」
その手を両手で掴み、幼子に言い聞かせるように声を掛け続けました。
「……
程なくして穏やかな寝息が聞こえてきたころ。私は暖かい手を握りながら問いかけます。
しかし返事が来ることはなく、私の声が狭いワンルームに虚しく響くばかり。
そっと力を感じなくなった手をほどき、ベッドの傍に置かれた椅子から立ち上がる。
「……おやすみなさい」
言い忘れていた言葉を虚空に返し、私は彼の部屋を後にします。
78回目の死を見届けた私の心には、ほんの少しの楽しかった記憶と、それを包み込む喪失感や悲しみが残るばかりでした。
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高度育成高等学校、その膨大な敷地内に立てられた学生寮のとある一室。
窓から差す穏やかな光に照らされた、静かな部屋の一角には、ローテーブルを挟んで向かい合う男女の姿。
辺りには張り詰めた空気がどよめき、二人の間には互いの呼吸の音しか流れていなかった。
「チェック」
姿勢を正して腰掛けている少女の口から、そんな言葉が発せられた。
同時に、テーブルの上に置かれたチェス盤を、白色の駒が躍る。
「っ」
少女の対面に座る青年が、黒い駒の前に置かれた駒を見つめて眉をひそめる。
表情を崩さぬよう努力しているようだが、かすかに歪められた口角を見れば、その内心は一目瞭然だ。
「ふふ、どうします? 日彩くん」
特に、見意地悪く微笑む少女は、青年・
チェック……将棋で言う『王手』をかけられた白夢が顎に手を置き、瞬きを忘れる勢いで互いの駒を見やる。
「……リザイン」
しかし、観念したように瞑目し、黒のキングを横に倒した。
降参の意味を表すその行為を見て、少女は嬉しそうに微笑む。
「今日も私の勝ちですね。
f4……バードオープニングとも呼ばれるこの言葉は、チェスで最も一般的とされる初手の攻め方を指す言葉だ。
この言葉を聞くに、彼らは幾度となく対戦を積んできたのだろう。しかし、白夢の記憶にそんなものは存在しない。
「……このメモに間違いはないみたいだね」
ため息をついて頭を小さくかき、ポケットからスマートフォンを取り出す白夢。
そんな行動を見て、少女はただ小首をかしげるばかり。
「あら? 一体どのように書いているのでしょうか?」
明らかに白を切っているであろう口調とトーンに、その認識を改めて強くする青年。
「『坂柳有栖は性格が悪い』って書いてあるよ。正直半信半疑だったけど、この言葉に間違いはなさそうだ」
そんな、実直な罵倒に対しても少女・坂柳有栖は表情を崩さない。
ほんの少し、目の前の幼馴染を名乗る初対面の少女に、意地返しのつもりで語り掛ける。
『いつも言っている』と言われても、
「ええ。それも、幾度となく聞いていますよ」
「……それはちなみに、何回くらい?」
想定と違う反応が返ってきて目を白黒させる白夢。
目の前の少女に会話の主導権を握られている状況は、少し揺らした程度で覆えることはない。
「さあ、100回くらいでしょうか? いちいち数えてなんかいませんよ」
白夢も短い会話でそれに気が付いたのだろう。
ため息を吐き、姿勢を崩してベッドフレームにもたれかかった。
「……そっか」
そしてそれを最後に沈黙が場を包み込む。
白夢にとっては、先ほど合鍵を使って部屋に勝手に入って来た見知らぬ少女。気まずさを感じる以前に、怒鳴り声と共に追い出したとしても文句は言われない。
「俺はこれから何をすればいいの?」
しかし、白夢は警戒心どころか、心地よさを抱いていることを自覚していた。
それを誤魔化ように、ぶっきらぼうに質問を投げかける。
「今日は月曜日なので学校に行きます」
「学校か……」
現状を受け入れつつある白夢だったが、流石に登校する事には抵抗があるようだ。
「大丈夫ですよ。私と白夢君は同じクラスですし、皆さんあなたのことはちゃんと理解しているので」
「……わかった」
渋々といった様子で頷く白夢に、坂柳はにこやかな笑みを浮かべた。
「今日は予定もありませんし、放課後はまた映画でも見に行きましょうか」
「良いよ。……って言っても、今何の映画やってるとか全然分かんないけどね」
『また』という言葉に違和感を覚えながらも、苦笑いと共に飲み込む白夢。
「何か見たいのとかあるの?」
ともすれば、必然と坂柳の提案を待つこととなる。白夢にとっては何気ない発言だった。
「そうですね……」
坂柳にとってはまた違う意味が籠った言葉だったが、その動揺を表に出すことなく顎に手を当てて思案する。
「────タイタニックなどは、いかがでしょうか?」
そして、79回目の生を受けた白夢に向けて、坂柳は小さく微笑んで問いかけるのであった。