第三話 異変
和深大陸東端部、海の都とも言われる
一つは
一つは南西の隣国、山岳郷・
一つは西の隣国、鍛治の郷・
そして、創世の三ツ神と呼ばれる一柱、父なる神、常闇様を祀る常闇之神社。
朔夜がこれから向かうのは天嵐神社だ。
半年旅をしていたが、まだ、彼は嶽垣国には行ったことがない。元々の出身は花山国であるため嶽垣国はすぐ南なのだが、直線距離が近いだけで、実際の道程は……地獄とか、苦行とか、そういう類のものだと聞いている。
嶽垣国は特に神が根付く土地であり、あの戦に関しては完全な中立を貫いていた。
戦嫌いの多くはあそこに身を寄せており、疎開地として知られていた。朔夜のような人斬りには無縁の土地だったのだ。
そんな国におわす天慈颶雅之姫は豊穣、雷雨、荒天、桜の女神であるという。感極まると舞を演じて真冬だろうが真夏だろうが桜を満開にさせるそうで、なかなか奔放な御仁であらせられるそうだ。
その分社は和深の東端部でよく見られる。
中東、中部へ行くにつれ見なくなり、西部はそもそも徳河幕府が神を奉じることを禁じていたから、御一新ののちに再建立されているもの以外は、焼き払われたらしい。
丘は大した勾配ではなく、息一つ上げず上り切った。
神社の前には、ラムネが売られていた。この、きつい炭酸の飲み物は、朔夜の好物である。御一新後、芽慈になり王国から伝わった、……れも、なんとかいう飲み物が変化したものらしいが、とにかく美味いので好きだった。
値段は、五働銭。そば五杯分。俗っぽい比較であるが、朔夜は気楽に銭を出して、店の老爺に渡し、冷えた水に漬け込まれている瓶を一本掴んだ。
そうして水槽の傍に紐付けされている杭のようなものを瓶の口に当てて、片手でポンと押せば、炭酸を封じておくためのビー玉が落ちてたちまち噴水のように炭酸が溢れ出す。
手をベタベタにしながら飲むのが通とされるこれは、夏場には、子供が親にねだることも込みで、風物詩だ。
しかし、警察──巡査が月給四働貨であることを考えると、一本五働銭は、なかなか高級である。
一働貨は百銭貨の価値である。そして、一銭貨で蕎麦一杯と考えると、一般家庭にとっては高級品と言っていい。
ビー玉を美味い具合に窪みに落としつつ、どぎつい炭酸を振り撒く甘いラムネを飲んだ。
神様も、参拝前にラムネを飲むくらいはお許しになられるだろう。そこまで、小さな器でもあるまい。
空瓶を箱に入れて、ベタついた手を自前の手拭いで拭いつつ境内へ。金色の龍をかたどる鳥居の前で一礼。手水舎に行く前に井戸に寄って手を洗った。
参拝客は朔夜が腰に佩いている太刀を気にしつつ、参詣していた。
手水舎で手と口を清める。水を吐き出すのは、水神の性質を持つ龍だ。
天慈颶雅之姫は時に龍に化身するとも言われているから、このような意匠が取り入れられるのは、むしろ当然であろうと思える。
雷雨、荒天──水にまつわる要素はある。
混んでいるというほどではない。まばらに人が行き交う。
王国は日曜休みが規則であるらしく、それが和深にも浸透しつつあった。
今日は木曜日であるから、休日ではない。まだ、昼を告げる鐘も鼓もなっていないので、皆、勤務に励んでいるだろう。
朔夜は一段と大きな鳥居の脇で一礼。通っていく。真ん中は神様の通り道だ。流石に混雑時に、真ん中を通ったりしても神様は怒らないが、あからさまに脇が空いているのにど真ん中を行けば──怒ることはせずとも、やはり不愉快だろう。
賽銭箱に、朔夜は一働銭を投げ込んだ。それから鈴緒を振り、本坪鈴をがらりがらりと鳴らした。
拍手を二度打ち、名目。
──良き旅でありますように。
そう、祈った──その時である。
急に、意識が攪拌されていくのを感じ、はたと周りを見渡せば大嵐の吹き荒れる山中に立っていた。
横殴りの大雨が銃弾のように叩きつけられ、業風が張り手のように襲い来る。
──これは。
──
──分霊が、なぜ。
声が、低く唸る風と共に耳朶を打つ。
──我。汝ら、勇士を集い災渦に立ち向かう夢を見たり。
気づけば、境内だった。神主の化け狸の老爺が、「おうい、大丈夫か兄さん。顔、白いぞ」と肩をゆすっていた。
まさか──いや、ひとの接近に気づかぬくらいには、感覚が死んでいた。自分は今、まさに彼岸に片足を突っ込んでいたのだろう。
「すまない……」
「視たんだろう。言わんでいい、言えんことだろうしな。……茶でも飲むかい。冷えた煎茶がある」
「ありがたい。一杯いただけると、
朔夜は礼に礼を重ねた。
神職になるのは苦労の連続だ。つまりは神に仕えるわけだから、その身分は士族よりずっと上、陸軍要職諸々の官職のさらに上だ。
尊敬するのは当然である。
朔夜は社務所前の椅子に座り、震える息を整えた。
あれが、神の御鶴声か。
──まだ、手が震えている。
「気つけに、酸っぱい梅干しなんてどうだい」
「見抜かれていますか」
「そりゃあね。このお役目も長いもんだから」
朔夜は小皿の上の、見ているだけで顔がしぼみそうな梅干しを摘んで、一口で頬張った。
これは──ああ、酸っぱい。
神威に当てられたのとは別の、味覚に訴えられた強烈な酸味が体を震わす。
唾液が止まらない。次から次へ溢れるそれを、梅干しの種を口の隅に退けつつ果肉を飲み込む。
受け取った小皿に種を吐き出して、冷えた煎茶を一息に嚥下した。
目まぐるしい味覚と体温の変化は、現金にも体を打ち据え、震えを止めさせた。
──ひとの体の、なんと正直なことよ。
「よろしいかな」
「ええ。……どうされました」
「実は二日ほど前に、御神霊を視た方に言伝を預かっておりまして」
「……一体、誰からです」
神職は、口が堅いのか、首を横に振る。
「名前は伺っておりませぬ。そういうことにしておいてください」
「わかりました」
「……ここから一里半先の
「御前試合でもしろというのか……。いえ、確かに、お聞きしました。ただその前に、路銀を作らねばなりません。つかぬことをお聞きしますが、人斬り才蔵を知っていますか」
神職は「
「では、俺もここを離れます。失礼」
朔夜はそう言って、さっさと立ち上がった。
万一にでも、境内に才蔵が現れたらたまったものではない。
仮にも己は、神尊天誅と彼岸花を掲げて戦った志士だ。神敵を、神域に踏み込ませるようなマヌケは晒したくない。
丘を降りていくと、人里で、第四課がもめているのが見えた。
ある反物屋の前だ。一体どうしたのだろう。
野次馬を棒で押し退けながら、「退けと言っておるだろう!」と格闘している。
「どいてくれ」
「なんだあんた、おい、おすなよ」「馬鹿、太刀携えてるぞ。ありゃあ術師じゃねえのか」「げっ、しまった」
──木端どもに用など無いからとっとと失せろ。
とは言わず、ズンズン進み、第四課の警官に腰の太刀を見せた。
「なんだ妖術師、……ってあんた昨日の」
その警官は、昨日朔夜を取り調べた若い男だった。
「奇縁だな。誰がやった」
「才蔵だ。白昼堂々、武士の商法……御一新の報奨金を元手に店をおこした元お侍を、バッサリだ。惨い事しやがる。嫁さんと、幼い子まで……」
いつもは能面のように動かぬ朔夜の眼輪筋が。にわかに引き攣る。
「人斬りはどこへ行った」
「西へ逃げていくのが見えた。あっちには、森が多い。すぐにでも山狩をする──っておい、聞いてんのか!」
朔夜は最後まで聞かず、風のような俊足で、
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