第二話 蛤女房
詰所の取調室には、多くの人相書が紐に吊るされている。中には、
ここだけの話、人助けのつもりでやったことが原因で、警察──県庁第四課の世話になるのは初めてではない。朔夜の落ち着き払った態度は、逆に第四課の神経を逆撫でにしたようで、若い男が「聞いているのか」と鼻息を荒くした。
「聞いている。何遍も同じ話をするのに飽きたから、黙ってるだけだ」
「貴様……おい、よそ見をするな!」
「ああいや……宿探さないと、また野宿だなと思っただけだ。時に、お前らの話はつまらんな。痴呆の進んだ人間と片道会話をしている気分になる」
この男は──と、若い警官が怒鳴りつけようとした時。
その上官と思しき、四十絡みの警官が耳打ちする。
「あいつ、人喰い化け狐だ。間違いない」
「えっ、人喰い!?」思わぬ大声に、上官が、ごつんと拳骨をかました。
朔夜がゲラゲラ笑い出した。
「独り歩きしすぎだ。人斬り、は何度もある。喰ったのは、式神の方。俺は人を喰う趣味なんかない。飢饉じゃねえんだぞ。喰うに困れば、悪党の肉なら喰うやもしれん」
式神が人を喰った、ということを笑いながら話した挙句、悪党なら喰うかもしれないと言い切るその狂気に、二人の警官は青ざめた。
「なぜ今更、人助けなど」
「殺しで食っていけなくなったから。助けて恩でも売っておこうって思っただけだ。惜しくもない命の使い道としては上等だろう」
──どこまで、本気なんだ。
第四課の二人は、顔を見合わせて、それから調書を見る。それは、見物人から聞いた事情聴取の書留だ。
彼の供述との矛盾はない。見物人側は助けられた先入観から、話を良い方向に盛り上げているきらいは見られるが、それを差っ引いてもおかしな点はない。
ただ一人脅されたという男がいたが、あの場で一人統率を欠けば、確かに大惨事になっていた。人々が折り重なるように倒れでもすれば、大勢が圧死していた。
「太刀と脇差を返してくれ。大事なものなんだ」
朔夜はしきりにそれを繰り返していた。
「それ以外はいいのか?
「警察ってのは山賊なのか。元士族が山賊に落ちたことは知ってるが、なるほど、本庁も県庁も、所詮はさらってみりゃあ元お侍だからな」
「貴様いい加減にしろ!」
若い警官が朔夜の襟首を掴んだ。だが、次の瞬間、心底恐怖した。
普通、警官──朔夜が言ったように、その多くが元は士族だ──に胸ぐらを掴み上げられ睨まれれば、怯むもの。
しかし朔夜は違った。どこか虚な、深淵を思わせる銀の目でこちらを見つめる。
底なしの渦に吸い込まれる気がし、若い警官は朔夜を突き飛ばすようにして離した。
「返してやれ」
四十絡みの警官がいい、若い方も、不承不承応じた。
二人の警官は、なんだかんだいいつつも彼の行いに違法性がないと判断。いや、この際──持て余したと言ってよかった。
悪党じゃないなら、もう知らんという態度である。
不真面目極まりないが、和深暦一八九三年──この芽慈十一年の世には悪党やらグズやらカスという人種は掃いて捨てるほどいる。この程度にかかずらっていても、時間の無駄だ。
「わかったよ。不当な拘束をして悪かった」
若い警官は納得はできないが、大人しく太刀、脇差、暗器の類と、もろもろの荷物を返した。
受け取った朔夜は腰の帯に太刀緒を括り付けると、傍に置いていた革袋を担いだ。
「あの人相書。あれ」
「人斬り才蔵がどうした」
「もらっていいか。報酬四働貨。あんたらの月給じゃないか」
「好きにしろ。俺らの一ヶ月の働きを、あんた一人でできるんならな」
「路銀に困っている。稼がねえと。世知辛いぜ」
むしるように人相書を持っていった朔夜ががらがらと戸を開け、出ていった。
その背に、若い警官は小声で「人斬りで稼ぐ気か。戦狂いの、亡霊め」と吐き捨てるのだった。
〓
東海道。
ここ、
南西の都、
夜。
近くの宿場の、
年増の、三十後半か四十路くらいの女将が朗らかな笑みで出迎えてくれる。少し肉付きが良いが、健康的で、艶やかな黒髪は香油を塗っているのか、光をするりと滑らせていた。
朔夜は「一泊、朝飯と朝風呂をつけてくれ」と言った。
八十
一糸纏わぬその肉体には、無数の傷。
サメが喰らったような
火傷痕、銃創、切創。ネジ穴のようなものもある。
縫い傷が歪に肉を歪め、盛り上がる筋肉が悲壮と憤怒を混ぜた鬼の顔のようにも見えた。
周りの一般客が、ギョッとした顔で朔夜を見た。
彼は意に介さぬふうに手桶から湯を浴び、体を洗う。廃油から生成される石鹸という洗剤は、初めて見たときは妖術の類かと思うくらい不思議だったが、慣れてしまった今、何とも思わない。
さっさと体と頭を洗って、湯に浸かる。
銀色の、少し膨らんだ半月が浮かんでいる。
しばらくぼうっと月を眺めて、いっとき。体が温まってきた頃合いで、湯から上がった。
浴衣に着替えて部屋に戻ると、女将自ら食事の支度をしていた。
察しはつく。朔夜とて、二十四の男だ。
「お前、蛤女房だな」
「流石に、妖術師様ならお見通しですか」
少し寂しそうに目を伏せ、食事を下げようとした。
「毒ではないんだろう。腹が減っているんだ。警官から絡まれて、昼を抜いた」
蛤女房は、微笑んだ。
朔夜は座布団に胡座をかいて座り込み、牛鍋をつついた。体格からよく食べる男と判断したのか──いや、違う。この場合は、やはり、そういう意味だ。
蛤女房は甲斐甲斐しく、朔夜の身の回りを世話する。
食器が空いていくにつれて、だんだんと、蛤女房の行動が大胆になっていった。
物欲しそうな顔で、朔夜にしなだれかかる。
「逞しいお方。すでに、奥方でもおられますか」
「いない。作る気もない」
「……では、どうやって。……溜まったものを?」
「
今の時代、大っぴらに遊女を置いておくことはできないが、飯盛女という男の相手も請け負う宿の従業員があちこちにいることは、公然の秘密であった。
ペニシリンが王国からもたらされ、梅毒が治療可能になると、夜の商売はますます盛り上がった。
だが朔夜は、積極的に女を抱くつもりはない。
病気をうつされては敵わんというのが一つ。ペニシリンは高いのだ。
次に、面倒臭い。これに尽きる。
朔夜は突っぱねるのような口ぶりでそういい、焼酎を呷った。
だが何で勘違いしたが、おそらくは彼女がその飯盛女をかねているからなのか、蛤女房は嬉しそうに微笑み、「私がお相手しても? 旦那はもう、相手もしてくれません。体は火照るばかり……」朔夜の浴衣をはだけ、股間に顔を埋めた。
その夜、ゆきずりの睦合いで四度精を放った朔夜は、俺の子種などに何の意味がある──と投げやりに思いながら眠りについた。
翌朝、旅館で食事と、熱っぽく微笑む蛤女房から弁当にと竹の皮で包んで握り飯をもらい、蛤屋を後にした。
ちなみにだが、蛤女房の作る飯は、ことさらに美味い。
その理由に関しては──まあ、知らぬが仏と言ったところであろう。
さても、ここいらで話題らしい人斬りの首を奪る前に、神社で参拝しようと考えた。験担ぎを、しておきたかったのだ。
「
嵐の女神、
朔夜は早速、境内があるという丘へと歩いていった。
その朔夜を遠巻きに眺める、旅装の男女の姿が、道脇の茶屋にあることには──当然、気づいていた。
互いに。気づいたことも、気づかれたことも、察していたのである。
彼らは先んじてその場から去って、次の宿場である流川宿へ歩き出した。
──敵意はない。ことさらに騒ぐこともない。
朔夜はそう判断し、一目見やることもせず、無視することに決めた。
※
ペニシリンが発見されたのは史実では1928年のことになります。
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