「嫌な世の中です」...誹謗中傷が奪った、ある地方議員の命から問う「SNS時代のジャーナリズム」
SNSでは奇怪な逆張りや陰謀論が優勢になり、オールドメディアでは「コタツ記事」を量産せざるを得なくなっている...。「持続可能なジャーナリズム」は可能なのか
「ご心配ありがとうございます!!嫌な世の中です。また落ち着いたら!」 故竹内英明・兵庫県議会議員から私が最後に受け取ったLINEメッセージには、そう記されていた。2024年11月18日、竹内氏が議員辞職したとのニュースに接し、慌てて連絡した際の返信だった。 【写真特集】世界一の観光地ドバイ 旅行者を魅了するメガロポリスの不都合な裏側 かつて私は産経新聞記者として姫路支局で勤務しており、姫路市を地盤とする竹内氏にはよく取材する機会があった。何度も顔を合わせるうちに、歳が近いこともあって意気投合し、私が東京本社に異動した後も交流は続いていた。 私の知る限り、彼ほど優秀で精力的に働く地方議員はいない。個人としても明るく快活で、そして強い人だった。健全な議会制民主主義の確立が日本社会を良くすると信じ、有権者のために日夜奔走する竹内氏の情熱と気力体力にはつねづね感銘を受けていたが、その彼が議員を辞めるとは――。 冒頭のやり取りの前日に行われた兵庫県知事選挙では、パワハラ問題などで県議会の不信任議決を受けて失職した前知事の斎藤元彦氏が、事前の予想を覆す形で再選していた。 再選の原動力としては、斎藤氏を「県庁やオールドメディアなど既得権益勢力に挑んで潰された被害者」とみなして擁護する言説がSNSや動画サイトで拡散したことが指摘されている。 インターネット上でそうした陰謀論的ムーブメントが過熱する中、竹内氏は「斎藤知事を貶めた主犯格」と位置づけられ、大量の誹謗中傷を受けていた。信頼していた地元の有権者が、徐々に荒唐無稽な陰謀論に染まってデマをまき散らすようになっていく状況は、耐え難いものがあっただろう。 選挙後も悪意ある風説の流布や嫌がらせ電話は執拗に続き、竹内氏は2025年1月、自宅で亡くなった。このことが、今も心の中に重くわだかまっている。
日本のSNS選挙
2024年は、日本の「SNS選挙元年」だった。兵庫県知事選挙をはじめ、その4カ月前に行われた東京都知事選挙などに際し、SNSや動画サイトといったネット空間で行われた情報戦が選挙結果に大きな影響を及ぼしたとされる。 そうした場において、新聞や雑誌、テレビに代表される「オールドメディア」は否定的に捉えられており、その存在感は急速に低下しているように映る。 政治の対立軸が、旧来の「左右」から、既成政党と新興勢力という「新旧」へと移行する中で、メディアも同様の対立軸に組み込まれつつある。だが、その対立軸設定では、「ジャーナリズム」が失われてしまうのではないか――。 『アステイオン』102号の特集「アカデミック・ジャーナリズム2」の背景にあるのは、まさにこうした危機意識だろう。 特集の緒言で、武田徹編集委員はこう書いている。 マスコミ不信が高じて、『マスコミが伝えていない』という理由をもって実証性から著しく乖離した言説を信じようとする奇怪な逆張り思考法がSNSや動画共有サービス上で優勢になっている。ジャーナリズムが存在感を取り戻すことで、そうした傾向に少しでも歯止めがかけられることを願っている 同名の特集は、2021年刊行の95号でも組まれている。だが、その時とは明らかに切迫感が違う。文化部記者として論壇を長く担当し、昨年からは論壇誌の編集に携わっている私にとっても、これ以上ないほど切実な内容であり、学ぶところ甚だ多かった。 武田氏の論文「SNS時代のジャーナリズム」は、従来型の「オールドメディア」の発信が信用されなくなりつつある現状を打開するため、鶴見俊輔の提起した「マチガイ主義」(可謬主義)という概念を手掛かりに論を展開する。 つまり、マスコミは嘘ばかり、と決めつけるネットの逆張り言論に対して、「マスコミは間違うこともあるが、間違いを正そうとするものでもある」との姿勢を打ち出すことで、逆説的に信頼性の回復を図るものだ。 たしかに、これまでのように無謬主義的な態度でいたずらに報道の正確性を強調するばかりでは、1つの誤報で信頼が崩れてしまう。 誤報をゼロにすることは原理的に不可能である以上、第一報の後も取材や調査を続け、新事実が発見された際には過去の報道の間違いを訂正することが重要とする主張は、まったくその通りだろう。 ただ、たとえば新聞が「弊紙に書いてあることは間違っているかもしれませんので、その可能性に留意してお読みください」などと正面切って言うのは、実際問題としてなかなか難しい。 そうした可謬主義のジャーナリズムを受容してもらうには、受け手である読者側との信頼関係が築かれていることが必要になるだろう。失われた信頼を回復するためには、信頼の存在が前提となる――。 ここにアポリアが潜んでいる。そして可謬主義を受け入れる高リテラシーの読者共同体が成立したとして、それはマスの単位で可能なのだろうか。