きのう17日は「海の日」。この日天皇・皇后は帆船「日本丸」を視察(というより眺める)ために横浜へ行きました(写真中)。
それほどメジャーでもない「祝日」のために、なぜわざわざ横浜まで行ったのでしょうか。そこには、「海の日」と天皇制の密接な関係があります。
「海の日」は、「海洋国家として広く国民に海への理解と関心を求めるという趣旨で1996年に制定された国民の祝日。当初は7月20日だったが、2003年から7月第3月曜日に変更された」(『記念日・祝日の事典』)と説明されますが、その起源は、帝国日本が太平洋戦争に突入した1941年に制定した「海の記念日」です。
なぜ7月20日が「海の記念日」になったのか。その理由はさらに半世紀以上さかのぼります。
1876年(明治9年)、明治新政府下で天皇制の浸透を図るため、明治天皇は北海道・東北を「巡幸」しました。そして横浜に無事帰ってきたのが、7月20日でした。
このとき、明治天皇が乗った船は当時灯台巡視船だった帆船「明治丸」です(ちなみに「明治丸」という命名は伊藤博文が行ったといわれています)。天皇が軍艦以外の船で「巡幸」したのはこれが初めて。以後、「海洋国家」は富国強兵の旗印になりました。
こうして「明治」の天皇制政府・富国強兵にとって重要な意味をもつ日となった「7月20日」を、「昭和」の天皇制帝国日本が太平洋戦争に突入する1941年に「海の記念日」に制定したのはけっして偶然ではありません。
そして「平成」のいま、天皇明仁は現役を退いた「明治丸」の代わりに、同じく戦前から半世紀以上練習帆船として1万人以上の船員を養成した「日本丸」を、明治天皇が帰還した横浜港まで見に行ったというわけです。
ところが、「明治丸」と天皇制国家をめぐる歴史はこれだけでは終わりません。
明治天皇の「東北巡幸」から3年後の1879年3月27日、明治政府は軍隊400人、警官160人とともに松田道之を琉球に派遣し、琉球王尚泰を暴力的に東京に連行しました(写真右)。明治政府の最初の海外侵略、いわゆる「琉球処分」です。
このとき、松田と軍隊・警察を琉球へ運び、尚泰王を東京へ連れ去った船が「明治丸」だったのです。
「海の日」(「海の記念日」)にこんないきさつ・歴史があることを知る人は多くないでしょう。天皇・皇后が「海の日」に横浜に「日本丸」を見に行ったことに、ほとんどの人は関心すら払わないでしょう。それは健全なことです。
ただ、日本の「祝日」はほとんどが天皇制・神道とかかわっています。そのことを知っていても知らなくても、意識してもしなくても、それが天皇制を浸透させる明治以降の国家権力の戦略であることは銘記される必要があるでしょう。